第十三話『心音』
寝覚が悪い朝だった。嫌な夢でも見ていたのだろうか。いや、現実を超える悪夢など、想像すらしたくない。
身体も心も気怠いが、僕には仕事がある。身を起こし、赤いローブに腕を通す途中であることに気がついた。今日はメルクリウス教に行く予定だ。この真紅に染められたマールス教のローブを着ていくわけにはいかない。
巨人のキャップを被って、阪神側の席に座る命知らずはいないだろう。つまりはそういうことだ。
ちなみに、メルクリウス教が好む色は青色であり、マールス教とは対照的だ。我らがマールス教の別名は火の教団。対してメルクリウス教は水の教団とも言われている。火と油とまでは言わなくとも、対照的なイメージではある。まぁ、僕にとってはどうでも良いことだが。
結果として僕は、赤でもなく、青でもない、白色のローブに袖を通すことにした。少ない休日を利用して市場で手に入れたものだ。奴隷とはいえ、僕にはある程度の自由が与えられていた。これは、僕が勝ち得た数少ない権利だ。
取り留めのない鬱々とした思考を振り払い、この無機質な部屋を後にする。
そうして石造りの廊下をただ黙々と歩いていると、正面から一人の少女が向かってくる。白一色の髪に白磁のような肌。その純白の中において輝くのは、顔の中心にはめ込まれた二つのルビー。燃え盛る炎のように赤いその双眸は、真っ直ぐに僕を見つめていた。
「どこに?」
挨拶も無しに、三文字で構成された無駄の無い問いは、彼女らしくもあり、何故だが不思議と、聞く者の機嫌を損ねない。
「イブ、おはよう。ちょっと所用で出かけるところなんだ」
「答えになっていない」
瞳の中の炎が、僕を糾弾する。
「えっと、まぁ、仕事でメルクリウス教に……」
イブにはごまかしの類が効かない。彼女はどうやら僕の表情筋に詳しいようなのだ。
「私も」
ただでさえ言葉数が少ないのに、彼女の声音からは感情が読み難い。
「連れていけと?」
「うん」
こくりと首肯し、イブの長い髪が揺れる。
「うーん、その、これは大事な任務だから、僕は一人で行かなきゃならない」
戸惑いながらもゆっくりと意思表示をした。
「嫌」
「そうは言われても……」
イブに二重スパイの話をするわけにはいかない。彼女を巻き込むのは気が引けるし、何よりも彼女にスパイ活動は無理だ。彼女は本当に何も出来ないのだ。自分で靴下すら履くことが出来ない。歯磨きだって、昨日僕がしてやった。
彼女が出来る事と言えば、背中に翼を生やすことくらいだ。
そもそも出来ない、というよりも、イブは些末なことに気をかけない。そして彼女からすれば、ほとんどの事が些末な事だと見なされる。それを僕はこの数ヶ月の生活の中で、嫌という程に実感していた。彼女の造形がここまで神秘的で美しくなければ、正直僕は、三日で見捨てていた自信がある。まったく、男って生き物は悲しい……。
「私も行く」
僕の心境などはおかまいなしに、彼女の美しい声は、自らの意思を通そうとする。
「ごめん、はっきりと言うよ、君が来ても……」
足手まといだ、と言おうと思った。でもそれは叶わなかった。なぜなら僕の口は、彼女の口で塞がれたからだ。つまりはそう、接吻というやつだ。
「は? え?」
こんなにも脈略のないキスは初めてだ。いや、今のは強がりだ。脈略も何も、キス自体が初めてだ。十五年間生きてきたが、正真正銘、これが僕のファーストキスだ。
「あの、えっと、その、とにかく、つまり、えーと……ありがとう」
何故僕は礼を述べているのだろうか?
それはきっと、目の前の唇が、予想よりもはるかに瑞々しく、柔らかかった所為だ。
「どういたしまして」
僕の言葉に、顔色一つ変えずに返答するイブ。
これがこの世界の常識なのだろうか?
気に食わない相手はキスで黙らせるなど、あまりにもロックな世界観過ぎる……。
「あの、僕、初めてだったのに……」
僕の正直なお口が、生娘のような言葉を吐く。実にロックじゃない。
「私も」
あまりにも淡々とした態度のイブ。
その姿を見ていると、僕の心にも少しばかりの余裕が生まれた。
「でも、君は連れて行けないよ。危険な任務だし。それに君は、一人で靴下も履けないだろ?」
「うん、だから」
彼女の声音は相変わらず、その意図を探らせないものだった。
「だから?」
僕は慎重に問い返す。
「一人だと困る」
困るという単語からは程遠い、相も変わらずの無表情だ。
「なるほど……。僕は君の家政婦というわけね」
「違う」
その短い言葉には、ほんの僅かだが怒りの感情が見え隠れしていた。
「え?」
疑問と動揺が入り混じり、僕は思わず問い返す。
「シュウはシュウ」
先程の刺はどこへやら、その声音は元通りの無機質なものへと戻っていた。
「あのさ、それでもやっぱり、イブを連れては行けないよ。なるべく早く戻るようにはするけれど」
少しでも誠意が伝わるよう、彼女の瞳を真っ直ぐに見つめる。
「わかった」
「え?」
先程の勢いからは想像し難い程のあっさりとした返事に、またもや、僕の心は動揺した。
「わかった」
僕の疑問符に対し、イブは寸分変わらぬ返事を繰り返す。
「そ、そっか、分かってくれたなら良かったよ……」
少し拍子抜けというか、多少は手こずるものだと覚悟はしていたが、何ともペースの掴めない相手だ。
相変わらず彼女の視線を背中には感じるものの、僕は再び歩き出す。
長い廊下を抜け、大きな甲冑が並ぶエントランスまで来たところで、ようやく彼女の視線が途切れた。
鼓動の早さをごまかすように、真っ直ぐに前を見つめる。
いくら軍神を讃える教団とはいえ、玄関先に巨大な甲冑が屹立しているのはどうかと思う。まぁ、これらは飾りというわけではないのだが……。
「外出許可証を見せろ」
外へと繋がる正門に近づくと、中身の無いはずの巨大な甲冑の一つが、鋭い声音で語りかけてきた。
「ありますよ」
僕はそう言って、アッシェ・ウィクリフ、とサインされた許可証を提示する。
聞くところによるとこの甲冑は、神、マールスの力によって動いているらしい。中身の無い甲冑が門番とは、余程人間を信用出来ないのか?
この教団のまだ見ぬ神について思考を巡らせていると、低く鋭い声が、僕の思考を引き戻した。
「よし、通るがいい」
そう言って無人の甲冑は、ゆっくりと正門を開く。
扉の先から差し込む日の光に目を細めながらも、僕は小走りで外へと出た。門を出た少し先に、アッシェが用意した馬車がある。
僕は馬車の御者に一礼し、そのまま乗車する。
多少の揺れはあるが乗り心地は悪くない。ある意味これも、考え方によっては一人旅とも言えるしな。
「おいおい、俺様を忘れるなよ?」
不意に足下から声が聞こえた。彼にしては我慢していた方だろう。
「今日は珍しく静かだったのに、なんのよう? せっかくの一人旅が台無しだよ」
いつの間にか左足に巻きついていたナカシュへと、僕は気怠げに問う。
「いやいや、初めてのキスくらいは静かにさせてやろうという親心だ。気にすんなよ」
ずっと笑いを堪えていたのか、一気に笑い出すナカシュ。
「み、みてたのか?」
「そりゃあ、もちろん。お前さんと俺様は、一心同体だからな。それにしてもシュウよ、冷静なお前さんの心臓が、はち切れんばかりに躍動してたな? その所為ですっかり寝不足だぜ」
「永遠に寝ていれば良かったのに……」
「おいおい、永遠の眠りなんて、神々の封印じゃねーんだからよ。縁起でもないこと言うなよ」
「神を毛嫌いする君が、今さら縁起をかつぐのかい?」
まったく、おかしな話だ。
「流石の俺様も、タルタロス行きは勘弁して欲しいからな」
「タルタロス?」
「冥府よりも下の、碌でもないところだ。人間なんかが落っこちたら、一年かかっても底につかないぜ」
「なるほど、そんなに長時間の自由が得られるのか。悪くないな」
僕は、ビルの屋上から飛び降りた時の記憶を反芻しながら言う。
「お前さんの言う自由は、相変わらずどうしようもないな」
呆れ半分、冗談半分と言った所か、ナカシュは苦笑しながらそう言った。
僕の望む自由のハードルは低いはずなのに、何故か中々手に入らない。一体全体、どうなっているのやら。
「まぁ、こんな無駄話をするくらいの時間は手に入れたのか」
そんな台詞を吐き出しながら、僕は外の景色を眺める。
いつの間にか馬車はだいぶ進んだようで、目的地である街が見えてきた。メルクリウス教が統治する、商業の街だ。
何はともあれ、イブを巻き込まずにここまで来られたのは良かった。もし彼女がさらわれでもしたら面倒だからな。
目的地が見え、気の緩みが生じていたのだろう。僕はぼんやりとイブのことを考えていた。
しかし、そんな緩やかな時間は、一発の銃声とともに掻き消えた……。
「シュウ、馬車から飛び出せ!!」
銃声につぐナカシュの怒号が僕の鼓膜を揺らした瞬間、僕は馬車の外へと身を投げ出していた。
数秒後、大きな爆発音とともに、先程まで僕達が乗っていた馬車が吹き飛んだ。
轟音の中心には燃え盛る炎。
僕の全神経が警笛を鳴らしている。
心臓の音がうるさい。
「おいおい、やべーぞ、ファーストキスも吹き飛ぶ爆発だな」
心臓の音以上にやかましい存在が、僕の腕に絡みついていた。
「そんな場合じゃない、今はとりあえ……」
あ、れ、言葉の続きが出てこない。
続くのは痛みのみだ。後頭部への衝撃が、僕の脳味噌を揺らす。
「おい、シュウ、意識だけは……」
ナカシュの声も遠ざかる。
次の瞬間には、辛うじて見えていた視界も閉ざされた。麻袋か何かで顔が覆われたのが分かる。
ーー嗅覚がとらえたのは異臭。
その臭いが更に、僕の意識を曖昧なものにする。
呼吸がしにくい、酸素が欲しい。
空気を求めて息をすると、異臭が更に肺を満たして、その分だけ意識を遠ざける。
それはなんだか、水中で溺れているような感覚に似ていた。空気を欲して口を開けど、入ってくるのは水だけのあの……。