第十二話『舵取り』
これは遠いようで、そう遠くはない記憶。笑い飛ばすには鮮度が良すぎるが、鮮明に思い出す為には、あまりに生々しい記憶の数々。
あれは僕が、高校受験を控えた中学三年の真冬のことだった。あの日は酷く吹雪いていた。横殴りの吹雪が塾帰りの僕の顔を遠慮なしに襲いかかる。僕の住んでいた地域では、別段珍しい程の吹雪ではなかったが、それでも雪は寒いし、風は痛い。
辺りは暗く、視界は最悪だった。それなのにどうしたことか、正面から父が歩いてくるではないか。こんな吹雪の日にわざわざ家から出てまでする用事などない。一体なぜだろう、僕を迎えに来てくれたのだろうか。
父と僕との距離が近づく。雪上に規則正しい足跡を刻みながら。だが、その足跡が重なることは無かった。僕のことを一瞥した父は、そのまま僕の真横を通り過ぎていった。
その時、背中にはじんわりと汗が滲み出てきていた。こんなにも寒いのに。
わかってしまったのだ。この雪上の足跡と同様に、僕と父との人生が、もう一度たりとも交わらないことに。
そう思うと、不思議と身体の寒さが消えたようだった。多分、心の寒さに比べればそれは、温かささえ感じられる程の温度だったのだろう。
「じゃあね、父さん」
吹雪の中で僕の声など掻き消される。
遠ざかる父の背中。別れの言葉も貰えなかった。ただ、今にして思えば、きっと父の言葉も吹雪によって消されたのだ。そう、きっとそうだ。だからあれは、雪の罪。
家に帰ると、ストーブが部屋を温めてくれていた。ただ残念なことに、ストーブが温めてくれるのは、身体と部屋の中だけだ。
食卓には二歳上の姉と僕の二人だけ。ついさっきまでは四人家族だった筈なのに。
母は別の部屋で、祈りとやらを捧げている。あの人は一体、神に何を願っているのだろうか。
僕と姉の願いは一つ。母が願うことを辞めることだ。
「父さんどうしたの?」
僕はわかりきったことを目の前に座る姉へと問う。
「出て行った」
冷えたハンバーグを見つめながら、つまらなそうに姉が言う。
「そっか」
そりゃあ、そうだ。家族の夕飯を温めることよりも、祈りを捧げることに手一杯な妻を見て、父の飽和した心が限界を迎えたのだろう。妥当な判断だ。父の人生だって、少なく見積もってもあと三十年は続くのだ。舵を切るなら今だ。蜥蜴が尻尾を切るように、父は舵を切ったのだ。責任を被せるのではなく、被らない為に切ったのだ。
僕が死ぬのはこの数年後のことだ。
姉が、母の連れてきた男達の慰み者にされる姿を見て、僕は人生の舵を捨てた。僕の乗船した船は腐ってしまったのだ。尾を切り捨てようにも、毒が全身を駆け巡っていた。
その毒が、心の全てを満たす前に、僕は自由を手に入れる必要があった。
月の光が綺麗な夜。僕はあの瞬間にだけ、自由を得た。そう、月夜が照らす光の翼で、アスファルトへと羽ばたいたのだ。
あぁ、あの時、僕は、自由を手にしたはずだったのに……。