第十話『頼みごと』
まどろみの心地良さに身を任せながら思う。このまま、この緩やかで優しい時間が永遠に続けばいいと。しかし、それと同時に、この優しくも甘い、使いたての石鹸のような香りの正体を知りたいとも思ってしまうのだ。
知らないことは幸せであり、不幸だ。
それを知らなければ、無窮のまどろみを手にすることが出来るかも知れない。だが、心の何処かでは理解している。それはただ、目蓋を閉じているだけの行為であることを。
目を覚ませばきっと、つらい現実が顎門をあけ、僕を食い散らかす準備をしているはずだ。
わかっているさ……。
まどろみの中でさえ決意を迫られるとは、何とも世知辛い。どこの世界もきっと、こんなものなのだろう。そんな諦念入り混じる思考の末、僕はゆっくりと目蓋を開けた。
最初に視界が捉えたものは、深緑の半透明な二つの宝石。その美しさにあてられ、それが目の前の女性がもつ瞳の輝きであることに気づくのに、少なくない時間を要した。
「えっと、おはようございます」
今が朝ではないことは分かっていたが、意識が目覚めた時の常套句を他に持ち合わせていない。
「具合はどうですか? とんでもない出血量でしたので」
修道服に身を包んでいるシスターが、僕の瞳を覗き込むようにして言った。
「あぁ、はい、異常はないです」
僕は二つの双丘を見つめながら、ぼんやりと返事をした。
「それは良かったです。よくよく考えたら、鼻血に救急箱はいらなかったのですが、結果的に休んでいただけたようなので」
慈愛とはまさに、この眼差しそのものを指すのだろう。
「はい、おかげさまで、とても身体が楽になりました」
僕の背にもまるで白い翼が生えたようだ。
「はい、拙い技ではありますが、私のレプリカは傷や疲労を癒す性質なので、少しは効いてくれたのかな? なんて思います」
なるほど、白衣の天使ならぬ、黒衣の天使というわけか。
「ホットミルクです、どうぞ」
「結婚して下さい」
ふむ、どうやら僕の口は嘘をつけない正直者のようだ……。
「え!? えっと、わ、わたし、シスターなので無理なんですよ。この身は神の為にあるので」
つまり、僕は、神とやらを敵に回さねばならないようだ。
こうして僕は一人、壮大な決意を固める。
「ではいずれ、僕が神になった暁には」
「ダメですよ? もし、そんな台詞が他の信徒にでも聞かれたら、大変なことになります。だからこれは二人だけの秘密ですからね?」
僕の言葉を冗談と受け取ったモンシュは、唇の前に人差し指を添え、人好きのする笑顔で言った。
「シスターモンシュ、今日は本当に助かりました。何か困ったことや悩み事があったら相談に乗りますから」
去り際というものは肝心だ。このひだまりから出るのはつらいが、多忙な彼女にはまだやるべきことがあるだろう。
そう思って、ベッドから腰を浮かしかけた瞬間、彼女の顔に曇り模様の憂いが見えた。
「何か悩みでも?」
僕が立ち去ることが、そんなにも悲しかったのか? なんて思えたのなら良いのだが、楽観主義というものを根こそぎ奪われてきた僕に、その考えを持つのは難しかった。
「えぇ、実は……」
先程までの笑顔とは対照的な、沈痛な表情を見せるシスター。
「どうしたのですか?」
その憂いを取り払えるのであれば、僕は迷わずそうしたい。
「一人の男の子の話なんですが……」
言いにくいことなのだろう。彼女が言葉に詰まるのは珍しい。
「はい、その男の子が?」
それでも僕は話の続きを促す。停滞に自由は無いのだから。
「その子が神を信じることが出来ないのです……」
まるで自分のことのように悲しむシスター。その瞳には深い悲哀の色が映る。
「信じるも何も、この世界に神は存在するじゃないですか?」
僕のいた世界とは違い、この世界には、神という存在が明確にいるのだから。
「いえ、そういうことではなく、信頼することが出来ないようなのです」
彼女はとても言いにくそうにその言葉を口にした。
存在そのものを信じるかどうかではなく、存在した上で信じる事が出来ないというわけか。
「なるほど、それはつらいですね……」
一つの理念を持った集団の中に溶け込めないというのは想像を絶する苦しみがある。それも、子どもというのは多感だ。他人との違いを一番意識する時期でもある。
「この環境で育つしかないあの子にとって、それは、とてもつらいことです……」
その言葉は、誰よりも神を信じているはずの修道女が口にするからこその、確かな重みがあった。
「わかりました。僕がその子に、神を信じさせます」
こうして僕は、また一つ、嘘という名の罪を重ねる。