第一話『終わりと始まりの日』
地獄のような日々だった。神を信じた母は人に騙され、神に愛されなかった。存在しない神を信仰し、信じるべき家族を捨てた。どこにでもあるありふれた話として割り切るには、抵抗を感じる不幸の連続。僕は今、その楔から解放される。
不思議と恐怖は感じていない。むしろ、世界を美しく思える余裕すらある。
最期の場所にはビルの屋上を選んだ。本当は誰にも迷惑のかからない、森の奥深くにでもすれば良かったのだろうが、僕の最期の自己顕示欲がビルの階段を駆け上がらせた。
少し強めの風に目を細めながらも、僕は最期の景色を見渡す。あぁ、街を彩る明かりに美しさを感じたのは初めてかも知れない。月明かりの居場所を奪った人工の光が、代わり映えしない都会を照らす。
願わくば次は、偶像などに頼らなくて済む、本物の神様がいる世界へ……。そんな思考が頭の片隅に浮かび、もう自分が来世について考えていることに思わず苦笑した。神を信じられない自分が、生まれ変わりを信じているとは救えない。いや、そもそも、救われなかったが故に、僕は今、ビルの屋上に立っている。
ゆっくりと足を前に出す。これから死ぬ人間だとは思えない程に、慎重にすり足で進む。
下を覗けば足がすくむ。だから最期は、夜空を見上げて落ちるとしよう。
見上げた空には、綺麗な満月が浮かんでいる。街明かりに仕事を奪われておきながら、お構いなしに浮かんでいる。
これから僕が世界から欠けるというのに、お月様はこれでもかと満ちている。その姿はまるで、満ち足りなかった僕を嘲笑うかのようだ。しかし、それが最後の一押しとなった。僕の背中をお月様がど突いたのだ。
ゆっくりかつ大胆に、僕の足が前へと進む。これが僕の最期の一歩。屋上からの垂直落下。一瞬の浮遊感が身体を包みこむが、すぐに重力が僕を捕らえる。
空気の層を突き破り、下へ下へと突き進む。こんなにも凄まじい風切り音は初めて聞いた。僕は今、生まれて初めて自由を勝ち得ているのかも知れない。しかし、そんな全能感もすぐさま消えた。
束の間の自由が終わり、アスファルトとの距離が瞬時に近づく。
僕を終わらせる黒い地面が、鮮明に見える距離にまで迫った。
「あぁ、やっぱり、むかつくな……」
最期の言葉が恨み言とは、我ながら締まらない……。
* * *
不思議な温かさが身体を包み込んでいる。
視界には靄が立ち込めており、不安を煽る一方で、どこか静謐な空気を感じる。
少なくとも分かるのは、ここがコンクリートジャングルではないということだけだ。これがいわゆる、死後の世界なのだろうか。
都会の冷たさとは対照的な、どこか懐かしい温もり。
「地獄ってのは案外、何も無い場所なのか……」
いつのまにか、僕の口からは、そんな一人言が滑り出ていた。
「間違っているぞ少年、一人言ではない。それにここは地獄でもない」
不意に現れたその声に、止まったはずの心臓が鳴る。
「誰?」
僕は呆然と、何もいないはずの空間に短い言葉を放っていた。
「誰だと思う?」
澄み切った鈴の音のような声が、僕を試すように言った。
その声は性別を感じさせないもので、どこか神秘性を帯びていた。
「神様なのか?」
事態を飲み込めない僕の脳が、そんな馬鹿げた問いを口にした。
「いや、そんな大した者じゃない。私は仲介人さ。世界を繋ぐ仲介人だよ」
その声は、僕の鼓膜を揺らすことなく、直接脳内に響く。
「えっと、ここは、地獄じゃないのですか?」
親より先に死んだ子どもは地獄行き。そんな知識が頭の片隅にある。それに僕は自ら命を絶っている。地獄から見れば、罪状を二つも抱えた問題児なわけだ。
「この空間に特別な名前はないよ。あえて言うのなら中継地点とでも呼べるかな?」
混じり気のない澄みきった声が頭の中に響く。
「中継地点? なら僕は、ここから地獄へと案内されるわけか……」
天国か地獄かを決める、関所のような場所なのだろう。
「おいおい、君は、そんなに地獄に行きたいのかい? むしろ君には、選ぶ権利すらあると言うのに」
その声音には依然として、僕を試すかのような含みが感じられる。
「選ぶ権利?」
混乱した思考の中、辛うじて短い問いを投げかける。
「あぁ、そうだよ。君のお望みの地獄なんてものはないが、ここから選べる世界は数え切れない程ある。それらの世界を地獄と感じるか、天国と感じるかは君次第だがね?」
「生まれ変わる権利ということですか……」
思考が完全に置いてけぼりにされている。
「いや、少し違うな。自ら命を絶った君には、その姿のまま、次の世界へと行ってもらうよ。君が世界を選べるのは、自殺をしなくてはならない程に、苦しみを味わった分の対価さ」
すんなりと受け入れられる程、単純な話ではないが、僕の苦しみも無駄では無かったということか。
もし仮に、生きる世界を選べるのだとしたら、僕は……。
「本物の神様がいる世界を望みたい」
偽物に壊される人生はもう……。
「なるほど、それは実に、今の君らしい答えだ。ならば君には本物の……」
「本物の?」
僕は途切れた言葉の続きを急かす。
「いや、どうやら時間が迫っているようだ。簡潔に済まそう。他に何か望みはあるかい?」
言葉の続きが気になるが、僕にはもう一つ願いがある。
「誰にも騙されない人になりたい……」
嘘は嫌いだ。それに、母親と同じ失敗を繰り返したくはない。
「騙されない人か……。よし、わかった。その願い叶えよう。君が抱えた不幸を天秤にかければ、それくらいは許されるだろう。あとはもう一つ、私がオマケをつけてあげよう。その力は君が好きに使うといい。まぁ、その力がもたらす結末までは保証しかねるけれど。いずれにせよ、選ぶのは君だ」
その言葉を最後に、僕の視界は、再び闇へとのみ込まれた。
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