1-1-6. 同時多発的失恋
3階、中央部にある吹き抜けから少し進んで奥まった辺り。
第2音楽室――通称・2音。その入り口の影辺り。
このフロアのメインの使用学年である2年生は、今は見学旅行中なので出払っている。
人影は全くない。
もし誰かが来たとしても、入り口辺りはメインの廊下からは死角になっているのでほとんど見えない。
秘密の話をするならココがおすすめだ、とは2年生の先輩から聞いていた。
そのときは半分聞き流していたのだが、まさか有効活用するときが来るとは思っていなかった。
ちなみに、1つ下の2階もほとんど同じ構造で、こちらは第1音楽室――通称・1音があり、このフロアは3年生がメインで使用する。
ボクたち1年生のメインは最上階の4階だが、ここは少し2階や3階とは違っていて、ほぼ同じ場所にはかなり大きい図書室と放送室がある。
「何か、お昼なのに静かなのって不思議な感じ」
「たしかに、言われてみればそうかも」
上の階の教室や廊下からの声も、この音楽室がある側の廊下までは距離があるため、かなり減衰して聞こえる。
階下も同じだ。
部活動が終わった位の時間帯であれば静かな学校というのはあまり珍しくも無いだろうが、今は間違いなく昼休みだ。残り20分程度はある。
吹き抜けに降りてくる明かりこそ雨降りなのでそこまでの明るさは無いが、夜のような暗さではない。
明るいのに、喧噪が遠くにある。
仲條さんの言うとおり、不思議な感覚だった。
「ちなみに、お昼は?」
「ご覧の通り」
よく見れば右手には購買で買ったと思われるサンドイッチが入った袋。
教室に入らず、廊下で袋を開けるというプランは展開されなかったようだ。
「それもそうか……」
「ごめんね」
「いやいや。強引に引っ張ってきたボクも悪いし」
「ううん、そんなことないよ。全然。さっきも言ったけど、私は助かったから」
そういう彼女の笑顔は、やはり少しだけ無理をしているように見えた。
このまま独りにするわけにもいかなかったが、とはいえ廊下で食事を摂らせるというのも忍びなかった。
が。
ふと思い出す。
制服――月雁高校の制服は、男子が5つボタンの黒い学ランで、女子は紺襟に3本線のセーラー服だ――の内ポケットを探る。
――よし、忘れていなかった。
「どしたの?」
「これ」
取り出しましたるは――。
「鍵?」
「そ。ココの鍵」
言いながら静かに2音の鍵を開ける。
「ほら。2年生は見学旅行に行ってるでしょ? だから、部活の準備とかをするときに1年の誰かが前乗りしてないといけないってことで、今日はたまたまボクがその番だったんだよね」
「なーるほど」
そう。これは本当に偶然だった。
掃除当番や委員会などが巧いこと割り当たってなかったので、昨日の部活が終わった段階でこの役目がボクに回ってきていたのだが。
「はい、どーぞお入りくださいな」
おどけた口調で告げる。
――その効果は、少しだけあったようで。
「……それでは、お言葉に甘えて」
仲條さんの笑顔は、雲の隙間から顔を出した日差しのようだった。
そういえば、あの日もこの少女は、教室の扉の側に立ち尽くしていた。
そして、あの日もボクは、そんな彼女の手を強引に引っ張った。
あの日――。
それは勿論、今年の7月半ば、雨降りの日の教室。
祐樹への祝福の言葉も尽き欠けて、その結果ボクの心のヒットポイントも底を突きそうになったときだ。
あのときもボクはトイレに立つふりをして教室を出た。
妙な焦燥感に駆られたような脈動。それとともに現れた眩暈。
頭痛もあるような気がしてきている。
だが、今日は雨降り。低気圧の真っ只中だろう。
この不定愁訴の原因など、やはり不定に決まっている。
何が何だかわからないままに廊下に出たところで――、
――まるで、今日と同じような光景を見た。
いや、正確に言えば、今日より何十倍も痛々しい光景だった。
あの時ボクの他に誰も居なかったのは、まさしく不幸中の幸いと言えるだろう。
教室の中からは完全に死角になる場所で。
だけれどその中から聞こえてくる声は否応無しでその耳に突き刺さってくるその場所で。
彼女は。――仲條亜紀子は。
その両の瞳から止め処なくこぼれ落ちる涙を、その手で押さえるでもなく。
その顔を、両手で覆い隠すでもなく。
ただ、ひたすらに、呆然と立ち尽くしていた。
『……仲條、さん?』
そう呟いた声の、その擦れ方と弱々しさに、誰よりもまず最初に自分自身が驚いた。
直後、ハッとした顔をした仲條さんがこちらを見て、それでもなお涙は止らなかった。
かけるべき言葉なんか、あの時のボクのリストには何も存在しちゃ居なかった。
それでも、彼女をあの場所に独りで留まらせることが間違っていることなのだ、ということだけは理解していた。
自分がその時どんな顔をしていたか、なんてことは記憶の片隅にも残っていない。
だけれど、雨降りとは言え7月の気候の中、随分と冷えていた手から伝わる彼女の体温だけはよく覚えている。