1-3-6. パンの香りと微笑
いつも通り地下鉄に揺られて、月雁駅に着く。
地上へと出る階段を上がりきり、一旦学校とは反対側に進んでひとつ信号を越えれば、いつも使っているパン屋さんがある。
家を早めに出るとこういうことがしやすくなるという利点もあるのだ。
「おはようございます、いらっしゃいませー」
店内に入るとすぐに聞こえてきた明るい声に会釈すると、あちらもボクに気付いて笑いかけてくれた。
通うようになってかれこれ半年くらいにはなるだろうか。すっかり顔なじみになっていた。
今日はベーコンエピとやきそばパン、それにクリーム入りの大きなメロンパンにした。
甘いパンはやっぱりたまには食べたくなってしまう。
チーズ入りカレーパンも追加しようかと思ったけれど、それは明日に回すことにする。
それ以外にもいろいろと品揃えが多くて、選ぶのに困ってしまうのは毎日の贅沢な悩みだ。
半年前――。
学校祭準備のために早く学校に行かなくてはいけなかったときに、通学途中に昼ご飯を買う必要があり、その時に初めて入ったのがこのお店。
駅の近くで評判のよいお店を探したときに真っ先に見つかったのがここだった。
評判通りのおいしさで、そのまま常連になったというわけだ。
結局あれから、昼ご飯は登校途中に買ってからというスタンスのままだ。
登校時間自体も、さすがに学校祭準備のときのような早朝ではないけれど、それでも大半の生徒よりは早い時間に来ていると思う。
単純な話だ。
臆病者の処世術。
それ以外の何物でも無かった。
元気な「ありがとうございます」の声に笑顔を返しながら店を出る。
いつも通りの時間。どれだけゆっくり歩いても余裕で間に合うくらいだ。
何となく、いつもの大きな通り沿いではなく、裏道のようなところを歩きたくなった。
いつもはまっすぐ進んでから右に曲がるところを、今日はすぐに右折してみる。
片道1車線の通りは、いつも車通りは多くない。
考え事をしながら歩くにはうってつけだ。
思い出すのは、昨日の勉強会だった。
たしかに、音楽室に来た直後の一瞬だけは、気まずそうにしていたとは思う。
ただ、それでも、その後しばらく経ってもあからさまに目線を逸らされるとか、話を聞いていない感じがするとか、そういう嫌悪感のようなものを漂わせているようには感じられなかった。
尤も、それはボクが勝手に思っているだけのことではあるのだが、それでもだ。
少しくらいは希望的観測をしてもいいだろう。
きっと罰は当たらないはずだ。
会話自体も、直接的にかつ積極的に話をしたというわけではない。
でも、半ば避けるようにまでしてきたボクからしたら、かなりの変化だった。
思ったよりも『傷』は修復されていたということなのだろうか。
そう判断するほどの自信はまだ無い。
ただし、気になることはあった。
ひとつだけ。
昨日も少しだけひっかかっていたが、今日になってもやはり何となく、魚の小骨に似たような感じで喉のどこかに引っかかっているような状態だ。
――昨日の別れ際に見た、聖歌の苦笑いだった。
表情通りに捉えれば、神流のハイテンションについて行き損ねた事に対する苦笑いだろう。
あの調子にはある程度慣れてはいるが、それでもさすがに疲れることはある。
結局昨日の帰りは月雁駅近くにあるそれなりのサイズの本屋に行き、神流に向いていると思われる参考書は入手できていた。
本当は星宮中央駅近辺、もしくは駅ビルの中に入っている大型店の方が品揃えも豊富なのだが、時間も時間なので仕方なかった。
だが、月雁高校の生徒も数多く利用することもあって、高校生向けの学術書や参考書の品揃えは充分だった。
おかげで、最近の勉強会の時に神流が少し苦手そうにしていた箇所を補ってくれるようなものは見つけられた。
そういう理由も含めて薦めると、神流は嬉しそうにしていた。
――閑話休題。
聖歌の苦笑いは、その通りに受け取るべきでは無いときがあるのだ。
彼女は、心配事があるときにも似たような顔をするときがあるのだ。
心の何処かにある陰のようなものを薄いベールで覆い隠すような、そんな笑顔だ。
小さいころからのクセのようなものだった。
おそらくそれは、今でも変わっていないはずだ。
中学1年までは絵に描いたような幼なじみ的に同じクラスだったが、それまでも時々見た表情だった。
一体何が今の彼女の心配事なのかは、今のボクにははっきりとは判らない。
知りうる範疇で言えば、ボクの体調か、あるいはテスト勉強くらいのことだろう。
念のため今朝も薬は飲んでいるが、昨日はいつも以上によく寝られたおかげで鼻風邪の症状はほとんど消えている。
テスト勉強についてだったら、手前味噌だけど、今の勉強会はかなり有益だと思う。
少なくとも、今回の定期試験では理科の点数は上がりそうな手応えがあった。
できれば、また来て欲しかった。
ボックスティッシュの無い机はこんなに広くてこんなに使いやすいのか、と小さな感動を覚えながら、無事に今日の授業を乗り切った。
症状が軽くなったお陰か、頭がなんとなくぼーっとする感じも無い。
そもそも睡眠時間を多く取れたことで、授業中にあくびを一度もしなかった。
快挙だと思う。
「ほんとに体調良くなったんだね」
教室後ろ側に備え付けられているロッカーに資料を押し込んで自席に戻る途中、声が掛けられた。
仲條さんだった。
「おかげさまでね」
「市販薬でもけっこう効くんだね」
「んー……、たぶんここ2日くらいの睡眠時間がいちばん効いてるかもしれない」
「あ、なーるほど」
そう言いながら、彼女は小さく笑った。
「今日も勉強会?」
「うん」
そう答えたボクから目を逸らし、周囲を見回した。
「……神流ちゃんは?」
「……あれ? いないな」
言われて気付く。神流の机とその周辺に、彼女のカバンや荷物はすでに無かった。
「もう行ったのかもしれないな、一応アイツは毎回来るから」
「えらいなぁ」
「……それ、本人に言うと調子に乗るから」
「ふふっ……、そうだったね。海江田くんも、ムリしないようにね」
「ありがと。それじゃ」
「うん。また明日ね」
小さく手を振る仲條さんに手を振り返す。
お返しとばかりに送られた、今の季節には不釣り合いな春の日差しのような笑顔に背中を押されながら、ボクは音楽室へと向かうことにした。
第1音楽室の前に着くと、中から声が聞こえた。
既に鍵は開いている。
ついでに、少しだけドアも開けられているようだ。
見れば足下にドアストッパーが噛まされていた。
今日も鍵開けの担当は歌織だったはず。
だとすれば、ネタ的に無駄にテンションを上げて入るような真似は、する必要が無さそうだ。
こそっと顔だけだして、扉の中の方をノックする。
「ちわっす」
「あ、きたきた」
ドア側を向いていた歌織が真っ先にこちらに気付いた。
その声に反応して、こちらに背を向けていたふたりが振り向いた。
「こんにちはー」
王女様感満載の手の振り方でリアクションをくれたのは、和恵さん。
さすが、デキるオンナ。
ネタの入れどころは間違わない。
そして――。
一瞬わたわたとしながらもぺこりと素早い会釈をしてくれたのは、聖歌だった。
再びこちらに向けられた顔は何だか昨日よりも緊張した感じだったが、はっと何かに気付いたような顔をすると、今度は微笑んだ。
昨日のように小さく手を振ると、やっぱりそれに答えてくれた。
「いつまでそこに居るのー?」
「あ、ごめんごめん」
つい。
入りがけ、ドアストッパーをちょっと蹴りそうになった。
少し意識が散漫になってしまっているみたいだ。
気を付けて扉を閉めて机に向かうと、歌織が少しだけ怪訝な顔をした。
「あれ、神流は? いっしょじゃなかったの?」
「教室出ようと思ったらもう居なくてね。別に待たなくてもイイかなと思って」
既にある程度、机は勉強会向けの配置になっていた。
丁度空いていた一角に座らせてもらうことにする。
横に歌織、正面に和恵さん、対角線の位置に聖歌がいる並びだ。
奥から詰めて座るパターンだろうから、これで問題無いはずだ。
ペンケースやノートをカバンから机に移動させて一息吐いたところで、聖歌と目があった。
慌てて逸らして、何でもないような風を装ってノートの位置を無駄に揃えて、でも何だか違う気がして再び聖歌の方を見る。
「来てくれたんだね」
「うん……」
ちょっと恥ずかしそうに肯く姿に、懐かしさを覚え――――
「いえーい!!」
「やっほーい、おっひさー!!」
「……あ、しまった。出遅れた」
――――ノスタルジーは雲散霧消した。
さながら爆音のような声ととともに入ってきたのは、神流と瑛里華。
と、その後ろから結花。
「私、ここー!」
「だったら私はこっちー!」
テンションをキープしたまま神流はボクの横に、エリーは神流の向かいにカバンを勢いよく置いた。
「何だかうるさいなぁ」
「お言葉に甘えて今日もおじゃましまーす」
「今日は私も友達連れてきたー」
「よろしくでーす」
佐々岡くんと平松さんに続いて、早希とその友人。
「……机の配置、考えないといけないかな?」
「まだ増えそうだよね」
「まぁ、イイんじゃない?」
何となくのつぶやきに、歌織と神流が応える。
楽観的な反応にまた少し気分が軽くなったような気がする。
――楽しくなりそうだった。
ここまでお付き合いいただきまして、ありがとうございます。
無事好転したようですね。
……今は。





