1-2-29. 強情と笑顔、そして傲慢。
程なくして店を出なくてはいけない時間になった。
奥に下がったままのマスターに声をかけると「また来いよー。亜紀子ちゃんも待ってるからねー」と、よく響く声が返ってきた。
さてカバンを持って、と思った矢先に、陰の方からマスターがひょっこりと顔だけ出してこちらを見てきた。
「あれ?」
「いや、すまん。店の入り口のところのプレートひっくり返しておいてほしいな、って」
「人使い粗いなぁ」
「悪い悪い、今度好きなだけ楽器使わせるから」
済まなそうな顔をしているが、実態はそこまで思っていないということぐらいよくわかっていた。
楽器を使わせてもらっているのはいつものことだ。
以前から変わりは無い。
「せめてそこはカフェオレ半額くらいにしてよ」
「瑞希には、ただでさえ学生割適用してるんだぞ?」
「そこを半額にしてこそ漢じゃないですか、マスター」
「……都合のいいときだけそういう言い方するんだよなぁ。母子譲りっていうか」
そんなことを言ってる内に一瞬だけ雨の音が店内に入り込んだ。
が、すぐにまた静まる。
店の入り口側を見ると、ボクらがやいのやいのと言い合っている内に仲條さんがプレートを『営業中』の方に向け直してくれていた。
「ああ、亜紀子ちゃん、ありがとうね」
「いえいえ。雨宿りもさせていただいたので」
「イイ娘だねえ。ってことで、瑞希。カフェオレ半額の権利は亜紀子ちゃんのモノだな」
流石にそこで延々と粘るのは、ボクが漢ではなくなってしまう。
それに、マスターはアレだが、コーヒーやビバレッジの質は高い。
旧電車通りには喫茶店やコーヒーショップが数多く並んでいるが、その中でもトップクラスだと個人的には思っていた。
仲條さんにも、ここの常連になってもらいたい気持ちはあった。
「はいはい、それでいいですよ……って!」
「え?」
ボクが二度見したことに驚いている仲條さん。
「マスター! タオルある?」
「ん? あるけど、どした?」
「仲條さん、さっきので濡れちゃってるから」
「え? ……あ、いやそんな、別に気にするほどのことじゃ」
「ほらよっ」
「さんきゅっ!」
仲條さんはそう言うが、この寒さの中少しでも雨に濡れるのはやはり良くない。
夏場の夕立を浴びるのとは訳が違うのだ。
勢いよく厨房の奥から飛んできたタオルを受け取り、ワンクッション置いて仲條さんの髪と肩を拭く。
タオルを持った手を伸ばした直後こそ避けようとする動きを見せたが、まもなくして抵抗する動きはなくなって、人慣れしてきた子猫のようにおとなしく拭かれていた。
外からわずかに聞こえてくる雨音と衣擦れの音だけが、空間を支配する。
照明もかなり落とされた状態。
目を瞑っているような気分だ。
聴覚と触覚が鋭敏になる感じ。
でも、妙に脳裏を過ぎっていくのは、はるか昔に見たの欠片のようなもので――。
「もう大丈夫だよ、ありがと」
何だかその台詞も笑顔も、聞き覚えと見覚えがあるような気がしてならなかった。
今度は慎重に。
玄関から身体を出さないように、傘だけを出して開く。
そして先に外へ出て、そこに仲條さんを迎える。――完璧。
仲條さんが店内のマスターに会釈するのを待って、地下鉄駅の方へと向かう。
雨は相変わらず強いまま。
いつぞやに聞いた天気予報が、今更ながらの大当たりをしてしまったような感じだ。
どうせ降るのなら、やはりあの日の内に降っておいてほしかった。
「面白い人だね、マスターの……」
「ああ。工藤さん?」
「うん。……何か、軽いのかマジメなのかわかんない感じがして」
「んー、それで合ってると思うよ?」
正解には充分な答えだ。
ああいう軽率――じゃなくて、軽妙な感じで出迎えてくれるから、こういう雨降りで気分が乗らないときなんかはよくお世話になるのだ。
「寡黙なマスターの方が良いなら他のお店をオススメするけど」
「ううん、ああいう感じも嫌いじゃないよ?」
「そう? まぁでも、あんまり話したがらなさそうだなと思ったら、あれでも一応空気は読んで黙ってくれるから、そこら辺は安心して」
そういうと仲條さんの肩が細かく震えだした。
どうしたのかと思えば、単純な話で、笑いを堪えているだけだった。
「どしたの? そんな、苦しそうに堪えなくてもいいのに」
「海江田くんの、マスターへの評価が何か……、おかしくて……」
悶絶していた。
そこまで面白い物言いをしている自覚はなかったのだが、面白がってくれているのならそこに問題は無い。
「そう?」
「ところどころ、友達みたいな扱いするから」
「……実はマスター、ボクが小さいときから知ってるからね」
「え、そうなの?」
いつぞやも聞いたことのある、雨音にも負けない良く通るハイトーンになった。
「さっき、『演奏でメシ食ってた時がある』って言ってたじゃない? その時、ウチの母さんと一緒だったときがあるんだよね。……そういえば言ってなかったっけ。母親、そういう仕事してるんだよ」
「そうなんだ! ……あー、そっか。だから吹奏楽以外にもピアノ弾けたりとかするんだ」
「『だから』ってことは……、あるのかなぁ。よくわからないけど」
幸い、他の同年代の子よりもいろいろな楽器を触る機会は多かった。
練習や会場についていったときは、子ども特有の好奇心に任せて何かの楽器にぺたぺた触っては弾かせてもらっていた、と言う話を今でも母・美波には掘り返されている。
「そういうことで、マスターはボクが小さい頃から知っている、ってわけ」
「なるほどねー」
ふーん、などと言いながら、今度はくすくすと楽しそうに笑う。
「ってことは、あのお店に通って、マスターと仲良くなったら、海江田くんの幼少期を訊き出せるかもしれないってこと?」
――とんでもない威力の爆弾を投げつけてきた。
「……本気? それ」
「わりと」
「……困る」
「どうしよっかなぁー」
いたずらっぽく笑う仲條さん。
こんな顔もするんだな――。
何てことを思ったりしてしまう。
「勘弁してくださいよ、姐さん」
「姐さんって」
そして今度は、顔を見合わせて、笑った。
一瞬だけ雨音が止まったような気がするくらいに、笑った。
月雁駅の階段でひとしきり傘に付いた雨粒を払い落とす。
表面の撥水コーティングはまだまだバッチリと効いている。
数回の開閉でキレイさっぱり雨粒を落としたところで、そのまま傘を仲條さんの手に収める。
「え?」
「持ってって」
手の中の傘の柄とボクの顔とを、彼女の視線は3往復。
――あ、往路だけ1回増えた。
ボクの顔を見たまましばし固まった。
「仲條さんの家がどこかわかんないけど、駅から家まで距離があったら大変でしょ?」
「……ええ!? だって、そんなことしたら海江田くんが……!」
一瞬呆然とした彼女の前を、ちょっとわざとらしく通り過ぎて階段を降りてみる。
仲條さんも慌てた声といっしょに降りてきた。
「海江田くんが濡れちゃうよ?」
「実は大丈夫なんだな、これが」
「どうして?」
マスターとのこと、母親のこと。
それなりに話してしまったのだから、彼女には言っても良いだろう。
「このあと、スーパー寄って買い物するから」
「……うん?」
「そこでビニール傘買えるっていう算段。最寄り駅にほぼ直結のところにあるから大丈夫だよ」
「ホントに?」
「ホント」
心配そうな眉。
少し細められた、潤んだ目。
なぜか目が離せずに、じっと見つめ合ってしまう。
階段上の雨音と、改札奥からの自動音声。
さきほどまでは煩いほどに聞こえていたはずなのに――。
「あ、ご、ゴメン!」「ご、ごめんね!」
何とか自分で絞り出した謝罪を合図に後ろを向けば、彼女の声と動作も同時だった。
「そ、それじゃあ、えーと……。傘、借りさせてもらいます」
「う、うん。ぜひそうしてください」
ほんのり片言の、何故か混ざってきたよくわからない敬語をお互いに披露しながら、足取りだけはさきほどと同じようにボクたちは改札を通り抜けた。
結局仲條さんは、次の地下鉄を待っている間に折れてくれた。
星宮中央駅で乗り換えるボクに、ホントに傘買ってね、絶対だからね、と車内から何度も言いつつも、最後はボクの強情さのようなものに笑いながら、地下鉄に揺られていった。
少しでも彼女が笑っていてくれたなら、それだけでよかった。





