1-2-24. 突然の雨がもたらすもの
上階にある第2音楽室から合唱部の練習が高らかに響いている。
窓も扉も閉めているのにそれなりの音量感で響いてきている。
コンクール上位常連組の実力は伊達ではないことの何よりの証拠だろう。
外からはグラウンドを狭しと走り回る体育会系部活の面々による多種多様なかけ声が響く。
なかなか芳しい成績を上げられない時期が続いている部活が多い。
星宮市とこれに隣接する市に在る高校による地区予選でも、良くて2回戦突破、基本線は初戦敗退。その辺りが関の山。
吹奏楽部の演奏を伴う全校応援などをしてみたいものだ。
これは月雁高校の数十年来の悲願でもあるらしい。
『本校の歴史』と題された小冊子が入学時に配られていたのだが、その中に1度だけ野球部が甲子園に出場したという記述があった。
残念ながら1回戦で敗退してしまったものの、その時は全校で甲子園に乗り込み応援をしたとのことだった。
ウワサによると、その全校応援で使われた水色のメガホンがまだ校内のどこかに保管されているという話だった。本当かどうかは完全に不明だ。
我らが吹奏楽部は、今日はお休みの日。
ということで、合唱部の練習をBGMにしながら、2回目の勉強会と相成った。
メンバーは前回と変わらずの、合計10人。
プライベートのグループを作り話し合っておいた結果、今日のお題は『理科全般、とくに物理を重視するという風になった。
主に早希ちゃんとエリーによる猛プッシュの賜だった。
無人の音楽室は随分と暗かった。
電気が点いていないにしても、さすがに暗い。
窓もかなり大きいはずなのに、暗かった。
季節柄もあり、随分と寒々しい暗さだった。
木曜日の西の空は、急激に重苦しい灰色に塗り替えされ始めていた。
校庭脇の並木を揺らす風も一段と強くなってきている。
天気予報では今日の午後は曇り空。
雨は降っても夜遅くからになると言われていたのだが、この空の色からするとどうやらその予報は大きく外れそうな気がしてきた。
「正直言っちゃうとさ」
シャーペンをくるくると回しながら佐々岡くんが口を開いた。
「今回の物理の範囲って、この前のレポートとあんまり変わんないよね」
「そうだよね、っていうか、レポートの方がだいぶ発展的な感じでしょ。大学物理の範囲まで入ってるんだし」
「まあ、そうなぁ」
早希ちゃんの言葉で、先日のレポート学習――と言っても、先週水曜日の勉強会でやったモノではなく、その一つ前に実施された方だ――を思い出してみる。
配られたプリント資料の最後の数ページは、かなり発展的な内容として高校で習う範囲から外れていることが載っていた。
いろいろと見慣れない文字が並んでいて面白いのだが、面白いからと言って直ぐさま理解できるかと言えば、決してそうでは無かった。
もちろん、我が月雁高校、これを授業時間の終わりには理解している生徒も数名居る辺りが恐ろしいところではあった。
それは、そもそも大学で習う数学的な知識も既に一部でも備えていることの証明でもある。
日本の最高学府を目指す生徒の凄さを体感することにもなった。
勿論ボクも、その理解できた彼――高橋くんのところへ行き、他の生徒に混じって彼なりにわかりやすく噛み砕いた説明を聞いてみた。
が、お察しの通りである。然るべき時に身につけようと心に決めた。
「あれ、理解できた?」
早希ちゃんがこちらを向きつつ訊いてきた。
「とりあえずレポートを提出するのに問題無いところまでは、理解した……つもり。あの最後のところは全然」
「アレさ、高橋くんは解ってたみたいだけどさ」
「うん。どういうことなのかってボクも訊きに行ったけど、結局解らなかった」
「じゃあ、私が理解できないのは当然だわ」
神流の『じゃあ』で接続された理屈はよくわからない。
件の発展的項目くらいによくわからない。
「私は、一応調べてみたけど、ギリギリかなー」
「マジで?」
「うん。……まぁ、間違ってても嫌だし、レポートにはそこまで書いてないけどね」
そう言ったのは、実は理系脳の澤ちゃんだった。
流石だ。調べて理解できるなら素晴らしい。
どちらかと言えば文系科目の方が得意なボクにはうらやましい限りだった。
「こういうとき理系科目得意だったらなぁ、って思うよね」
「だから今度古文と漢文やるときは、よろしく頼むよ? 先生諸君」
頬杖をつきながらボクと同じようにうらやましがる歌織に対して、結花がにっこりと笑う。
次週の勉強会は、今週の勉強会でのもう一つの候補だった国語、とくに古文・漢文だ。
先生役は前回の定期考査でほぼ満点に近い点数をたたき出していた和恵さんと歌織が担当することになっている。
ちなみに、今回の先生役は澤ちゃんと結花だった。
終盤20分は雑談メインとなってしまったものの、今回も有意義だったと思う。
理科を熱烈に推していたエリーと早希ちゃんの顔つきを見れば一目瞭然。
テスト勉強に対して弾みを付けられたようだ。
勉強道具を片付けていると、横に座っていた神流が声をかけてきた。
「そういえばさ、ミズキ」
「うん?」
「見学旅行のお土産で春紅先輩からもらったヤツってどうしたの?」
「ああ……」
思い出させないで欲しかった。
「海江田、何貰ってたっけ?」
「……星条旗柄の、うっすいパーカーみたいなヤツ」
「……ぶっ!」
佐々岡くん、その反応はいささか正直すぎると思う。
間違いなくそれを他の人が貰っていたらボクも噴き出していただろうから、彼に対しておおっぴらに文句は言えないけれど。
「ああ、あのじゃんけんで勝った人に強制て……じゃなくて、配られてた」
「歌織ー。それは海江田くんに失礼でしょ」
「エリー。失礼ってどういうことかな?」
「おおっといけねえ」
「で? あれ、どうしたの?」
話の主導権が神流に戻された。
「どうしたも何も、クローゼットの奥の方にかけてあるけど」
「いやいや。…………ふふっ。……今度それ、着て来てよ」
「笑いながら言ってる時点で魂胆が見え見えなんですけど」
「春紅先輩もこの前『あれ来てくる瑞希くんが見たいなー』って言ってたけど?」
「笑いながらでしょ?」
「そりゃもう」
どう考えてもそうだろうなとは思っていたけれど、気休めとしてもせめて先輩が笑ってたことは隠しておいてほしい。
「あれ?」
窓の方を見ていた和恵さんが何か気づいたようだ。
何かが見えたのだろうか。
17時半を少し過ぎたくらい。
空は完全に夜の色。
11月ともなればかなり昼の時間は短い。
「雨、降ってる?」
「え!? ウソっ!?」
エリーが叫びながら、和恵さんに抱きつくようにして窓の方に駆け寄る。
エリーだけではなく全員が揃って窓の前に並ぶように立った。
何かのワンシーンのようだった。
「わ、結構降ってる……」
澤ちゃんが思わず零すように呟く。
この降り方でよく気がつかなかったものだ。
勉強と雑談に集中していたのが最大の要因だとは思うが、風がこちらの窓に平行に吹いていたのも気がつかなかった原因かもしれない。
「今日って降るって言ってったっけ? 無いわー……」
「一応私折りたたみ持ってるけど……」
「マジで? 早希、頭だけでも入れさせてー!!」
「いいよー」
「っていうかこれ、タクシー乗り合いして駅まで行った方がよくない?」
早希ちゃんとエリーが揃って歌織の方を向いた。
「あ、それナイスアイディアかも!」
「たしかに、人数多くすればひとり当たりの金額はそんなに行かないだろうし……」
着々と帰宅準備とこれからの予定が立てられて行くのを、薄ぼんやりと聞いていた。
そういえば。
たしかここの準備室に――――。
「あれ? 海江田は? お前も地下鉄じゃなかったっけ?」
「あー……ごめん、もうちょっと残るから」
不意に佐々岡くんに呼ばれ、若干虚ろなままに答える。
が、この返答で問題ないはずだ。
これから寄るところのことを考えると、もうしばらく時間を潰す必要があった。
「そっか、了解。じゃあ鍵渡すわ」
「サンキュ」
詳しくは聞いてこないことに安堵する。
何時ぞやのように、佐々岡くんはこちらに向かって鍵を軽くトスする。
鍵はコントロール良くボクの手中に収まった。
音楽室を去って行くメンバーを見送り、準備室へと向かう。
楽器の海を泳ぐようにして部屋の奥の方へと進み、大きな棚を躱すようにして、さらにその陰の方を見れば。
「あ、あった」
よかった。2音の方の準備室だったら割と面倒なことになりかねなかったので一安心だ。
見つかったものは、傘。折りたたみ式ではない、大型の丈夫な傘。
都市型のホームセンターで『台風でも平気!』と触れ込まれていたものだ。
以前帰宅時間帯に強い雨が降るかもという予報を信じて持って来たものの、結局雨雲はこちらの方にはかからず曇りのまま持ち堪えた日があった。
その時に、そのまま持って帰るのもなんとなく癪に感じて、いずれ雨が降った時のためにと思いこっそり置き傘にしていたものだ。
まさか本当にこの傘が役に立つとは思わなかった。
あと5分も経たずに18時というところで1音を後にする。
上階からの合唱も今はもう聞こえない。
遠くの方から定時制の授業がうっすらと聞こえる他は微かな雨音だけが鳴り響いていた。
冬もだいぶ近づいて来ている。
この季節の雨は本当に冷たい。
身体の芯から冷やしてくるような、刺さるような雨。
濡れて帰るわけには行かない。
職員室へ鍵を返却しそのまま1階へと降りれば、玄関が広がる。
各学年9クラス、加えて定時制もある月雁高校の玄関はかなり広い。
そのせいもあり玄関近くはわりと寒い。
新しい校舎で暖房設備も良いものになっているとはいえ、外気に最も触れるこの空間はやはり寒いものだ。
「……ん?」
仄暗い玄関、うちのクラスの靴箱が並んでいるブロックに、誰かが立っている。
雨音と暖房の稼働音だけが聞こえる中、ぼんやりと見える影に少しだけ驚く。
が、よく見ればその姿は見知った人の背中のように見える。
「仲條さん……?」
「え?」
呼びかけにハッとした様子で振り返ったのは、やはり仲條さんだった。
「あれ? 海江田くんは部活?」
「いや、今日は勉強会」
「あー、あれって続いてるんだ」
「うん。……そういう仲條さんは?」
「私は委員会があって、それが終わってちょっと図書室行ってて……。で、この雨で。失敗しちゃったなー」
どうやら折りたたみ傘も持っていないらしい。
委員会がどれくらいの時間までやっていたかは解らないが、少なくとも図書室に寄らずにそのまま帰宅していればこの雨で足止めされることはなかったのかもしれない。
一旦仲條さんに背を向けてスマホのスリープを解除、天気予報アプリを立ち上げる。
星宮市のこの後の天気は……、残念なことに今夜遅くまでこの雨は続くらしい。
ボクの右手には、大きな傘。
ボクの左側には、傘を持たない女の子。
――かけるべき言葉は、ひとつしか無いだろう。
「だったら、いっしょに帰る?」
仲條さんによく見えるように傘を掲げながら言うと――。
一瞬だけ目を大きく開いたものの、すぐに穏やかに微笑んで、小さく頷いた。





