1-2-X. 見慣れた文字と遠い過去
最近の天気予報は外れ気味だと思う。
今日だって、処によって午後から強く降る場合があります、なんて言っておきながら、その実態はこの時間になっても延々と冷たい小雨が降り続いている。
この雨ということで野球部も屋外での練習は中止になり、廊下を使っての基礎練習をすることになった、と彼から連絡があった。
一緒に帰れなくて残念だ、ということを付け加えていた。
屋外の体育会系の部活動は悪天候の場合、校舎内での練習になることがある。
そしてその場合は、定時制を抱えている都合上、通常17時までで強制的に退去させられることになっている。
それがラッキーかアンラッキーかは人それぞれらしいけど、とりあえずそういう決まりになっているそうだ。
合唱部や吹奏楽部など文化系の部活でそれぞれの活動場所が与えられているモノに関しては、18時までの活動が認められている。
だから、『一緒に帰れなくて残念』ということなのだ。
予想だけれど、きっと野球部のメンバー何人かでどこかに行ってから帰るのではないかな、とは思っている。
あたしとしても流石にこの天気で、1時間以上もどこかに待たせておくのは忍びなかったので、語弊はあるかもしれないけれど、無理に待たせる必要がなくなったのはある意味では助かった。
そう。
本当は、あわよくば、なんてことを思っていたのに。
全員が退出完了したのを確認して、顧問の小早川真央先生が第2音楽室に施錠をする。
明日は祝日、部活もお休み。
2年生の先輩たちの見学旅行後に設定されている強制休養日が終わるまではお休みにしましょう、ということになっていた。
「それじゃあみんな、お疲れさま。雨も降ってるし寒いから、体調には気を付けてね」
真央先生のふんわり笑顔に、少しだけ辺りの寒さが弱まる。
これでいて指導中の声と眼差しは鋭いから、すごいギャップだと思う。
最初に見たときに衝撃は今でも鮮明に覚えている。
一般教室では授業中のため、音楽室に近い側の階段を皆で静かに降りていく。
その流れで、3階の第1音楽室が目に入る。
まだ電気は点いているように見えるが、人の気配はあまりしない。
誰かがまだ居るのだろうか。
居たとしてもひとりかふたりという程度な気がする。
一瞬だけ足が止まりかけるが、みんなはそのまま階下へと向かっていく。
何に繋がれているわけでも無いのに、何となくみんなに引っ張られるようにそのまま続いて階段を降りた。
雨が強く降ったらどこか屋根のあるところに入って時間を潰せばいいかも、なんて思っていたが、結局そのまま月雁駅まで折りたたみ傘で乗り切れてしまった。
学校に最寄りの地下鉄駅近辺で、高校生が時間を潰せる場所はあまり多くは無い。
学生の財布があまり傷まない程度の価格設定に抑えられているちょっとオールドスタイルな喫茶店か、カラオケボックスか、という程度。あるいは、書店とかだろうか。
街の中心部まで行けばもちろんいろいろあるけれど、それは今日のこのシチュエーションにはちょっと当てはまらないのだ。
最近の私の当ても、同じように外れ気味だった。
月雁駅からバスに乗る子、地下鉄で北上する子、南下する子。
行き先は様々だ。
ちなみにあたしは南下組。他には3人居る。みんな女子だ。
自動改札に定期券を翳してホームに降りると、まもなく列車がやってきた。
ホームを駆け抜けていく猛烈な風はだんだんと寒さが強まってきている。
降っている雨もそうだけど、街の空気も、何もかもがだんだんと冬の支度を始めているような感じがする。
街の中心部に位置する星宮中央駅で丁度二手に分かれる。
あたしともうひとりがここで乗り換えになり、あとのふたりはそのままだ。
ホーム後ろ側の水色階段を降りてしばらく進むと乗り換え先のホームに着く。
すれ違う人たちの服装もだんだんと厚くなってきているのがよく分かる。
それでも時々薄手の上着を着ている人も散見するが、そういう人は多分に漏れず肩が強張っていた。
「聖歌ちゃんって、明日何かある?」
「んー、特にないけど」
「あ、ほんと?」
「え、なに? どしたの?」
地下鉄車内は轟音が響き、どうにも話しづらい感じがする。
それは一緒に歩いている平松美里も同じ。
一緒に帰るときはこうして乗り換えの連絡通路で話せるだけ話してしまうのが通例になっていた。
聞けば、服を見たいから付き合って、ということだったので、もちろん快諾。
お昼前くらいに『青木』で待ち合わせ、ということになった。ちなみに『青木』とは、星宮中央駅の西口改札近くにあるその名前の通り、大きな青い木のオブジェのことだ。
恰好の待ち合わせスポットとして、主にこの界隈の学生から身も蓋もない安直なあだ名で呼ばれている。
あたし自身もあのオブジェの本当の名前は知らないので、他人のことをああだこうだと言える立場では無かった。
乗り換えてから4駅進んで、松葉町駅。
ここで美里とはお別れ。ここから2駅はひとり。
地下鉄をトンネルを進んでいく音に揺蕩うようにしてドアのすぐ側に立つ。
明日が楽しみな反面、今日という日に少しばかりの忘れ物をしているような気がしていた。
自宅最寄りの石瑠璃駅を降りれば、そこから徒歩。
だいたい10分もかからないくらいだろうか。
大した距離ではないけれど、極力街灯の明かりが強い場所を選んで帰る。
本当のところを言えば、合唱部で練習中の曲とか、好きなアーティストの曲とかを聴きながら少しでも楽しく帰りたいけれど、それだけは厳格に止められている。
両親の気持ちもわかるし、時々テレビを賑わせるろくでもないニュースを見れば、安易な気持ちで約束事を破る気にはなれなかった。
「ただいまー」
「おかえりー」
母の声に安心しながら玄関扉を潜り、ようやく今週の学校生活を終えた。
時刻は23時を少し過ぎたくらいになった。
見たいテレビもすでに終わっている。
お風呂もいつも通り長めに入った。
少し恥ずかしいけれど、歌いながら。
防水スピーカーを持ち込んで、練習曲の復習をしたり、適当に好きな曲を流したりするのが日課だった。
そうなれば、あとはもうやることは無いという状態になるのが、金曜日の夜の常。
だけど、そのまま眠ってしまうのは何となく惜しいような気がする、そんな時間帯だった。
部屋の電気はかなり落とし気味にしている。
寝る少し前くらいには通常の半分くらいの明るさに下げるのが常だ。
睡眠の導入が良くなるらしいということで試しているが、あまり実感は無い。
眠いときは眠いし、そうじゃなければそれまでだ。
そして今は『そうではない』状態になっていた。
こういうときはベッドに身体を埋めていても、眠りの海には沈めない。
ただただ靄の中を揺蕩うだけ。
意識はその靄を掴もうとして覚醒する。
身体をベッドから起こし、机へと向かう。
デスクライトを点けると一気に部屋が明るくなる――というか、少し明るすぎる。
ライトを壁の方へと向けて間接照明のように使ってみると、少しだけ光に険が無くなる。
一息吐いたタイミングで喉の渇きを覚える。
そういえばお風呂上がりにお水を飲んでいなかった。
少しだけ急いで、でも静かに階段を降りて、お茶のペットボトルを拝借することにした。
自室へと戻り、デスクチェアに座ってお茶を飲み、改めて一息吐く。
ゆっくりと背もたれへと身体を預ける。
胸の淀みが少し消えたような感じがする。
が、それは呼気と共に外へ出たのか、お茶と共に肚に沈んだのか、よく分からなかった。
眠気探しに何か小説でも開こうかと思ったものの、ひとつ別なモノを思い出して、通学用のカバンを開く。
取り出すのは、バインダーノートにちょっと無理矢理挟み込んだコピー用紙。
大きな用紙に、少し小さめだけれど丁寧で読みやすい文字。
最近は少しご無沙汰気味の、でもかつてはよく見ていた面影のある、今も頭を離れない文字。
とてもアグレッシブというか、向こう見ずなところもある彼のことだが、それでも昨日の今日でこんなことになるなんて思っていなかった。
互いに部活へと向かう直前『聖歌の分だ』と言いながら、あたしには何も言わせずにこれを押しつけて教室を飛び出して行ったその背中には、声をかける暇も無かった。
ホントにキョトンとした顔をしていたらしく、文字通りに目の前で小野塚くんが3秒間くらい手を振っていたことにも気付かなかった。
その正体は世界史の板書ノート。
とてもキレイにまとめられている。
ただ黒板を書き写しただけではない。
自分流にそれぞれの用語などの配置を整えて、必要に応じて用語集や資料集などから適宜解説文を抜粋して追記している。
ちょっとした職人技のような感じ。
机の引き出しから大分古くなったはがきケースを取り出して、一番上になっている年賀状と見比べてみる。
まだ小学生だった頃のものだ。
やはり、面影はある。
思い返せば、彼は昔から文字を書くのが好きだった。
紙があれば、絵では無く文字を書く。
クレヨンよりもボールペンや筆ペン。
そんな子だった。
今から見れば齢相応の筆跡だけれど、小学生時分で考えればかなり大人びた文字。
それが今では、もうほとんどオトナの文字だった。
これを真剣な顔で書き込んでいる姿を想像して、懐かしくなって――。
――少しだけ涙が出そうになった。





