1-2-3. 訪問者と据え膳
廊下にあふれ出てきている笑い声は、その大きさでクラス対抗戦でも開催できそうなくらいだ。
今日の昼休みは、それくらいどこの教室にも比較的活気がある。現に、誰かがボクの席を占有している。
しかし、あれは誰だろうか。
あまり見慣れない後ろ姿は、ウチのクラスの娘ではないとは思う。
少なくとも、ボクの一つ前の列に座る高島神流の友人である可能性が高い、ということだけは判るのだが。
そして、その横に座っているのは、仲條さん――仲條亜紀子。
とりあえず目的のブツである世界史のノートを取りに来ただけなので問題は無い。
いざとなればボクが他の子のところに行けば良いだけの話だし。
それにしても危なかった。
あの時、『じゃあ、教室まで取りに来てよ。終わったら返してくれればいいから』なんて言わなくて良かったと思う。
あんなことをしておいて、今ここで引き合わせてしまっては何の意味もない。
「あれ? ミズキ、もしかしてお昼まだだった?」
「あ、ごめんね。席、勝手に借りちゃってて」
近くまで来たところで、神流がボクに気付いた。
それと同時に、現在のボクの席の主が少し申し訳なさそうに笑う。
誰かと思えば祐樹と同じクラスの――、花村さんだっただろうか。
フルネームは、花村すみれ。
そういえば彼女は硬式テニス部所属で、仲條さんと同じだった。
なるほど、そっちの繋がりだったのか。
「まだだけど、今からまたちょっと下に行くから、別に気にしないでいいよ」
「ありがとー」
「だいじょぶだいじょぶ」
礼には軽く応えておく。
「ん? 何か用事?」
「うん、まぁ……」
言いながら自分のカバンを漁る。
――有った。
「これをね」
取り出したるは、ルーズリーフのバインダー。
夏頃に文房具コーナーで見つけた革製のヤツだ。
日本史にはこれの色違いを使っているし、部活の時にも活躍中。
完全にお気に入りだ。
「わ。なんかスゴそう」
――とは仲條さん。大きめの目がさらに大きくなっている。
「随分高そうなの使ってんね……」
――とは花村さん。お淑やかに話しそうに見えて、実はそうではないから、ちょっと面白い。
「そーいえば、ミズキ。そのバインダー、部活でも使ってるよね」
――とは神流。幾分か見慣れているせいか、反応は薄味だ。
「実はそこまで高くない、っていうね」
そりゃそうだ。高校生が買える程度の値段だ。
もちろん、これよりももっと良さそうなモノは売っているし、それをちょっとだけ手に取ってはみたが、値段を見た瞬間危うくフロアに落っことすところだったのを今でも覚えている。
「それで? それが何に必要なの?」
「コピーさせてくれ、っていうのが居てね。持ってくとこだよ」
「ん? ってことはそれって、部活のヤツじゃないの?」
確かに、パッと見た感じの色合いは部活で使っている方のバインダーとよく似ている。
神流が勘違いするのも無理は無い。
「違う違う。これは世界史の」
「ハイっ!!」
突然の起立。
そして挙手。
「そのコピー、私にもちょーだいっ!」
手を皿のようにして、それはそれは素敵な笑顔をこちらに見せつけてくる神流。
「『ちょーだいっ』じゃないわ。せめてコピー代は出してくれよ」
「えー」
素敵な笑顔を一瞬で引っ込めて、その代わりに口を尖らせてブーイングモード。
この変わり身の早さである。完全に見慣れている光景ではあるのだが。
「『えー』じゃありません。……っていうか、この板書ノートを誰のモノだと思ってるんだよ」
「えー? みんなの?」
「……あ、ダメだ。根本的に間違ってら」
コワイコワイ。
言葉が通じているが、話は通じていない、この感じ。
このまま放っておくと、息をするようにガキ大将理論を突きつけてきそうだ。
「やー、ほら。今さー、私さー、金欠でさー」
「テスト期間までは時間あるから、お金が出来たらまた言いなさい」
「けちー」
「何とでもどーぞ。……だったら、自分でコレ書き写すか?」
「うっ」
試験範囲になる部分を指でつまんで神流に見せつけると、じゃれ合いのような応酬が途切れた。
たしかに、数ページくらいなら何とかなるかもしれないが、この分厚さを手書きするとなると頬が引き攣るのも致し方ないだろう。
――授業時間の内に考えて書いておけばこんなことにはならないのに。
「今度、パフェ奢るからっ」
「……何時?」
「……………………何時かな?」
こっちが訊いてるんだけどな。
「そこはせめて『何時がいい?』って言ってくれないかなぁ。……ウソでも」
「あ、ミズキ。さては、信用してないっしょ」
「うん」
「即答!? ハッキリ言うな!」
神流にとってはひどく予想外だったようだが。
そりゃ、ねえ。奢る気なんてまるで無さそうなんだもの。
まず、彼女の目が既にウソ吐いているオーラをガンガンに発しているんだもの。
「……海江田くんって、甘いの得意なの?」
不意に仲條さんからクエスチョンが飛んできた。
「え? 何で?」
「だって、パフェ奢るって言われて、全然嫌がらなかったし」
「あー、ミズキって結構甘党よ? 吹奏楽部でケーキバイキング行こうか、って話になったときにノリ気になってた数少ない男子部員だし」
「へー……」
「……何か、いろいろと意外なところを見ちゃった気がするー。っていうか、吹奏楽部ってそういうことするんだね」
感嘆する仲條さんと花村さん。その対象はふたりとも違っているみたいだけれど、どっちでもいいか。
「え。割と行くよね」
「そうだね。最近ちょっとご無沙汰気味かもだけど」
「じゃあ、次はテスト終わりにでも行く?」
「……だったらボクの分は、板書ノートのコピーの代わりに神流の奢りね」
「……う」
「何で嫌がるんだよ、そこで」
確信した。絶対コイツ、タダで入手する気満々だ。
「あ、ほら! 早く行かないと、待たせてるんじゃ無いの?」
「あ!」
しまった。完全に記憶から抹消するところだった。
思い返せば、祐樹は昼飯のパンを持ったままコピー機付近に待っているのだ。
廊下は基本的に飲食禁止。近くには家庭科室と食堂があるものの、家庭科室は原則授業以外での立ち入りは禁止だし、食堂についても定時制の生徒以外は原則的には使用禁止だ。
体育会系の高校生に、据え膳。
――ここでの意味合いとしてはもちろん、本当の食事的な意味だが。
これは、まずい。
「とりあえず、神流の分はまた今度!」
「おっけー」
何処となく安心したような声が背後からかけられた。
あれは巧く逃れられたと思っている安堵感から来る物言いだろう。
今日の部活終わりにでもしっかりと話を付ける必要はありそうだ。
少し急ぎ足で階段を降りる。
人影は少ない。
手すりを掴んだまま中腹辺りからジャンプして踊り場へと着地。
実際普通に降りるのと大差ないのだが、何となくやってしまった。
誰にも見られてないことに少しだけ胸をなで下ろしながら、少しだけ先ほどの会話がフラッシュバックする。
――そういえば、神流は『誰がコピーを欲しがっているのか』を聞いてこなかった。