第四話: 「たき火」
地平線に、太陽が沈みかけていた。周囲には特別山もないためか、いつもより昼が長く感じられた。まぁ、最もここに来てから、時計を一回も確認していないし、時間間隔はもはやまともではなかったんだけれど。
私たちは、命からがらジョギングをした後、森の中の少し開けたところに腰を落ち着けた。まだ日は沈み切っていないが、木々の葉に日光は遮られ、目を凝らさないと互いの顔が見えないくらいには暗かった。目の前に座ったそいつは、木の枝を数本集め、持っていた箱からマッチを取り出して火をつけた。生まれて初めてのたき火に、少しだけ心が躍った。
「……たき火は、そんなに面白いですか」と、そいつは私の方を向いていった。凹凸が程よく合って整った顔が、たき火の光に照らされて、暗闇に浮かんで見えた。
「ええ、私の元いた国は、夜も明るくてたき火をする必要はなかったから」
「そうですか」
と、彼はたき火に顔をもどして、木の枝をくべた。火は、パチパチと音を立てている。そういえば、こんなに静かな夜を過ごしたのは何年ぶりだろうか。家族で、長野の山に旅行に行った以来かもしれない。そう思うと、火の中に、家族の顔が浮かんでくるようだった。
「何から話せばよいでしょうか」と、そいつは聞いた。
「とりあえず、名前を教えてくれない? いい加減そいつとか、あいつとかって呼ぶのにちょっとくたびれてきたところなの」
「失礼な人ですね……。今まで友達がいなかったのではないですか?」
う……。心の中がちくっと痛んだ。まさか、異世界人かもしれない人間に、痛いところを突かれるとは。だ、大学に入学して作ろうと思っていたところだったんだから。
「……わたくしの名前はアーと言います。発音しにくいと思うので、アーちゃんとでも呼んでください」
「アーちゃん……ねえ、気になっていたんだけど、性別はどっちなの?」
「うーん、少なくとも女ってことはないと思いますけど……」
「じゃあ、男?」
「じゃあって。あなたの国では女じゃない人はみんな男なんですか?」
確かに、と私は思った。受験時代に、現代文で出題された評論で読んだことがある。性別には生物学的なものの他に、社会的性、つまりジェンダーがあって、ジェンダーは必ずしも男女の二分法で分けるべきではないといった意見があるそうだ。
まだ確信には至っていないが、ここは異世界だ。もしかしたら、性別が男女で分けられているという先入観は捨てた方がいいのかもしれない。
「多分、あなたが今頭で考えていることはあまり関係ないと思いますが……。それで、あなたの名前なんですか?」
「えっ、私? 私は――」
と、言いかけて、私は言葉を詰まらせた。
分からない。ど忘れだろうか。まるで試験中に、よく知っている問題を解けなくなってしまったときのようなむず痒さが、急にこみあげてきた。しかも、喉から出かかる感覚と言った、後もう少しで思い出す感もないのである。覚えていて当然なはずの単語が、全く頭から抜けている。
私は混乱していた。パチパチとたき火は燃えていたが、目の前の景色はもはや目に入っていなかった。一生懸命、母との会話を思い出そうとする。しかし、頭の中の母は、全く私を呼んでくれなかった。ねえとか、あのと呼ぶ母の顔が憎らしかった。私は苛立ちから、頭をかきむしった。
髪の毛がバサバサと、乱れた。ふと、自分のロングヘアーが視界に入った。そこにあったのは、自慢の黒い髪……ではなく、白。あるはずのない、蚕の糸のような白い髪の毛が、私の頭にへばりついていた。私は、もう一度バサバサ、バサバサと髪を揺らした。しかし、何度見ても、白い。
「う、う、うわああああああああああああああ!」
思わず絶叫した。私は髪を引っ張ってむしろうとした。しかし、白い髪は頭にしっかりと生えていて、抜くことはできない。無理やり抜こうとすると、頭皮が針に刺されたように痛む。
「お、落ち着いてください。急にどうしたんですか。名前、覚えていないんですか?」と、アーは不安げに聞いた。
「覚えて……ない。髪、白い……」と、私の頬には涙が溢れていた。「私……私は誰なの?」
「あなたは……あなただと思います。異世界から来たんですよね、あなた」
「……多分」
「でしたら、世界を飛ぶときに、何らかのストレスがかかったのかもしれませんよ。一旦落ち着きましょう」
と、アーは私を宥めた。その顔は、明らかに悲しそうな顔をしていた。依然として、たき火がパチパチと燃えている。私は、深呼吸をして、座り直した。たき火の、不規則な揺らめきをしばらく見ていると、心が落ち着いてきた。
どれほど時間が経っただろうか。アーは、黙々と木の枝を火にくべている。遠くで、名前の知らない鳥が、ホーッ、ホー、ホーと啼いていた。
「落ち着きましたか。……わたくしも、先ほど名乗りましたが、“アー”という名前は、便宜的に名乗っているに過ぎないのです」
「えっ」と、私はびっくりして、アーの方を向いた。その表情は、元の通り、ボーっとしていた。
「わたくしは、生まれたときから孤独でした。物心がついたときには、両親は他界していて、小さい頃から一人で生きてきました。寂しいものですよ。わたくしは、人の温もりというものを知りません」
それから、淡々と、火を見つめながら、アーは自分の過去の話を始めた。自分が、街の人に恵んでもらいながら各地を転々として生き延びてきたこと。生きるために必死に働いていたら、いつしか自分の名前を忘れてしまったこと。忘れた名前を取り戻すべく、自分探しの旅をし始めたこと。
「……それで、わたくしは様々な本を読んで、自分のことを調べている最中だというわけです。あっけなく、法を侵して拘留されていたわけですけど」
「大変だったのね……」と、私は同情したように言った。
「わたくしの過去話で、今のあなたを慰められるかは知りませんが、わたくしも今、同じ悩みを抱えているというわけです」
と、アーは私を見てにこりと笑った。私は、そのぎこちない笑顔に、少し噴き出してしまった。アーは、再び「失礼な人ですね」と言って頬を膨らました。私は、その顔を見てなお笑ってしまった。もう、私の目に、涙は浮かんではいなかった。たき火が、依然と私たちの前でゆらゆらと揺れている。
「私の髪、本当はもっと黒かったの。あ、あ、アー……ちゃんの髪みたいに」と、私は自分の白い髪を触りながら言った。
「そうですか」と、アーも自分の髪を触っていた。
「でも、よく考えたら些細なことなのかも。もしかしたら気づいてないだけで、顔も違っているかもしれない。だけれど、この、レモン色のワンピースだけは覚えているわ。これは、元の世界で大学に受かったときに浮かれて買ったものよ。……残念ね。この服だけが、私の存在証明だなんて」
「ラヴ、はどうですか」と、アーは真剣な表情で私を見据えていた。私は、その目に、少しだけどぎまぎしてしまった。急に、なんなのよ。
「あなたの名前です。その服のスカートの裾に刺繍されています」
「え」と、私は、急いでスカートのすそを持ち上げた。そこには、白い糸で”Love”と小さく刺繍されていた。フィーリングで買ったから、全然気づかなかった。愛……か、ちょっとだけ恥ずかしい。
「この距離でよく見えたわね……」
「いえ、先ほど見えたのをちょうど覚えていただけです。実は、あなたの名前なのではないかと予想していたのです。いい名前だと思いまして」
「そ、そう? ラヴね……。ちょっと慣れないけれど、案外いいかもしれないわ」
そのとき、少しばかりの違和感を覚えた。わずかに、頭に火がともるような、そんな感じ。目の前の景色をほんのちょっぴりぎこちなくさせるような熱量を、体の中にいれる感覚。だけど、不思議とそんなに不快感はない。未来への充実。
「良く似合うメガネほど、最初は変な感じがするよね」
「随分、変なことを言いますね」と、アーはふっと笑った。
「なによ」
「……さて、この世界のことを話しましょうか」と、アーはふと真剣な顔になる。意外と、表情がころころと変わる人だ。
「そうしたいところなんだけれど……」と、私はあくびをしていった。正直、眠かった。今日は本当に色々あった。まさか、髪色まで変わってしまうなんて。それに、なんだか体がだるい。爆発の衝撃からかしら。もう、とにかく今すぐ寝たかった。
「そうですね」と、アーは言った。やはり、やれやれと言った感じである。「そんな顔で言われてしまえば、断る理由もなくなります。それで」と、急に、アーが神妙な面持ちになる。
「ん?」
「あなた、野宿したことあるんですか?」と、言って、アーはポケットから袋を取り出し、木の葉を集め始めた。一体何をするつもりなのだろう。っていうか、
「寝床ないの?」
「はぁ~」と、アーは深くため息をついて、たき火をごそごそといじって火を消した。いつの間にかすっかり日も沈んで、アーの顔が暗闇に消えた。
「ちょっと、ちょっとぉ!」と、私は叫んだ。