第一話: 「ケッペン」
思えば、私はこれまで勉強しかしてこなかった。
有名な女子校に中学から入学した私は、青春の時間をすべて机の上で過ごしてきた。無用な人間関係を断ち、娯楽という娯楽を知ることもなく、ただひたすら教科書の中の知識を詰め込んでいくだけ。いわば、私はただの培養土だった。
SNSを見れば、私と同年代とみえる人間が、アニメやドラマの話で盛り上がったり、楽しげな写真や動画を上げたりして青春を謳歌していた。それも、私には関係ない。いいねの数なんかよりもよっぽど偏差値の数の方が重要だった。そういうわけで、SNSを見るより、教科書を読む方がはるかに有意義だと信じていた。
その努力が結実したのか、この春、私は晴れて第一志望校に合格し、日本で最高峰の国立大学の法学部に入学することとなった。周りの人間は、お前なら当然だろうと言って興味を示さなかったが、きっと内心で嫉妬が芽生えていたに違いない。私は培養土。彼らが嫉妬すればするほど、私の役目は果たされたと、喜びが極まった。
私は、有頂天になって、レモン色の鮮やかなワンピースを帰り道に購入した。
しかしそんな高揚感は、長くは続かなかった。
「大学では、勉強だけじゃ生きてはいけないぞ。研究には、自分で何かを発見する力がいる。発見には、勉強も大事だが、それ以上に何かに興味を持つことが重要なんだ」
それが、この大学に入って最初に受けた授業の、講師の言葉だった。その言葉を皮切りに始まった授業では、自分で何か好きなことを調べ、レポートにまとめなければならなかったのである。
私は呆然と立ち尽くした。これまで勉強しかしてこなかったのだ。自分の好きなものなんて急に言われても分からない。私は、課題を提出することができなかった。
「お前には好きなものもないのか。そんなんで、どうして大学なんかに来たんだ」
と、その講師は私に言った。私は何も答えることができなかった。その通りだ。講師の呆れた顔に、飲み込んだ唾はあまりにも酸っぱかった。
「好きなもの……なんて、あるわけないじゃない……」
その日の帰り道に、私は目に涙を溜めながら、通学路の坂道を私は下りていた。急な斜面で、降りるたびに足が痛んだ。レモン色のワンピースの裾が、風に吹かれて意味もなく揺れる。
何かを覚えれば喜んでくれた幼少時代、人よりも学習状況が進んでいれば褒められた小学校時代、学年で一番を取れば尊敬された中学校時代、模試でA判定を取れば安心された高校時代。私はいったい何を間違ったというのだろうか。勉強を少しでもサボって、違うことでもすればよかったのか。分からない、分からない、分からない。
坂道が終わるころ、T字路に差し掛かった。駅は、左に曲がったところにある。今日はもう真っすぐ帰って自分の部屋で寝よう、と思ったそのときだった。
あまりに突然だった。
大きなクラクションが辺りに鳴り響き、ビルや住宅の壁を反射して一面にこだましたと思った矢先、強い衝撃が体中を走った。目の前の景色が大きくぶれて、空の青色とコンクリートの灰色がちかちかと入れ替わる。その刹那、時間の進みが急激にスローモーションになった。
脳内に直接イメージが投影されているのだろうか。突然目の前に現れた曖昧なイメージの中で、私は机に向かってひたすら勉強をしていた。母が、後ろで手を組んで私のことを見ている。そういえば、母は私が勉強をしている姿を見るのが好きだったはずだ。しかし、イメージの中の母は、どこか悲しげな眼をしていた。まるで、勉強しかしてこなかった私を憐れむかのように。
やめて、お母さん。なんでそんな顔をするの。私はこんなに勉強をしているのに。他の友達と違って、散財もしないし、怠惰でもない。わき目も降らず、私は勉強しているというのに。どうして、どうしてそんな顔をするのよ。やめてよ、ねえ、やめてよお母さん!
気づいたときには、空が一面に見えていた。頭から生暖かい感触のする液体がどくどくと流れ出すのを感じる。身体はもはや動かない。そうか、私は死ぬのか。今のは……走馬燈というやつなのかもしれない。私の人生、一体何だったのか。私はどうして、勉強しかしてこなかったのだろう。
私は泣きたくなった。しかし、涙は出てこないし、声を上げたくても上げられない。だから、心の中でひたすら泣いた。動かない体の中で、ただ後悔の念だけがむずむずと駆け巡っていた。遠くで、サイレンの音が聞こえる。
救急隊員らしき男性が近寄ってきて、私に何か声をかけていた。何度も、何度も、必死に。だが、その声はもはや私には届かなかった。状況から言って、多分私の名前を呼んでいるのだろう。かすれつつある私の視力からも、おぼろげに見える彼の表情は真剣だった。この人にも、何か好きなことはあるのだろうか、と消えゆく意識の中でつい考えてしまう。
私は、最後の力を振り絞って、血を吐きながら声を出した。
「わ……私は……もっと……好きなこと……したかっ……」
そうして、私の18年間の人生は幕を閉じた。
かのように見えた。
――あれ?
手足は……動かせる。口も開けるわね。呼吸もしてる……。もしかして、奇跡的に手術が成功した……とか? だったらここは今、手術台の上。
ちょっと怖いけれど、目を開けてみようかしら……。
と、恐る恐る目を開けてみると、想像と違って、目の前には青空が広がっていた。
「え? あれ? ここどこ? ん? ここは天国?」
上体を起こして辺りを確認すると、私は大草原のど真ん中にいた。そよそよと柔らかい風が私の頬を撫でる。血だらけになっていたはずのレモン色のワンピースは、空の青と新緑の中で鮮やかに光っていた。
私は立ち上がって、体を思い切って伸ばしてみた。澄み切った青い空、自分の膝丈ほどの草花、ちらほらと見える広葉樹林、比較的暖かくてちょっとじめじめした感じ……なるほど、これは。
「温暖湿潤気候かしら」
ドガシャーン!
私がつぶやいたその瞬間、ドラム缶が破裂したような音がして、雷のような閃光が辺りを覆った。砂塵が舞い、小石が拡散した。火薬の燃えた匂いもたちまち鼻を刺激する。
突然の出来事に目をつぶったまま立ち尽くしていると、響いていた音が止んで落ち着いてきた。目を開けて、自分に手や足があることを確認すると、自分の身体を触りまくった。
「無傷……あんな爆発が起こったのに……」
衝撃から、私の心臓はバクバクと高鳴っていた。ふと足元を見ると、自分の足を中心に同心円上に穴が掘られている。やはり、爆発したのは私らしい。よく見ると、半径10メートルくらいだろうか、近くに見えていた草が全て焼き払われていた。
「あんなに綺麗だった草が……。半径10メートルだから、円周率を3.14で近似値を取れば、314平方メートルの草が焼かれたことになるわね」
ピシャッドガベショーン!
また爆発が起こった。先ほどと違って、私は目を見開いて爆発を見た。二度目の衝撃は一度目よりもすさまじく、いつかB級映画で見たような出鱈目な爆発だった。地面をうならせる重低音と、空気を切り裂く高音が混ざり合って草原中を駆け巡り、立ち昇る砂塵に交じって火花がキラキラと辺りに広がって空気を焦がす。爆発の広がったその距離は、さっきの三倍近くあっただろうか。
一回目と比べて、煙幕は長い時間、辺りの空気を灰色に濁らせた。景色がはっきり見渡せるようになるまで、数分はかかっただろう。辺りの草は全て灰色と化し、水分が蒸発して軽くなった葉が風で巻き上がっている。私は、自分が起こしたであろうその爆発の威力に、恐怖の感情を抱いた。
「なんなのよ……、一体なんなのよ!」
なぜ爆発が起こったのか。私が、何か特定なことを言うたびに爆発が起きたのは分かる。でも、何を言って爆発したのかが分からない。何も分からない以上、迂闊なことは喋らない方がいいのかもしれない……。なんなのほんと、怖すぎる。
私はその場で、身を震わせてうずくまった。
しばらくして、遠くの方でサイレンに似た音が聞こえてきた。次第にエンジン音も聞こえてきたことから、きっと車がこちらに近づいてきているのだろう。
「そこの人間、何してる。大人しくしろ!」
と、車の中の男と思わしき声が、拡声器を通して叫んだ。その声は、厳しく、鋭い。私は自分が何かおそろしいことをしてしまったのだと思って、体をこわばらせた。それはそうだ。だって、こんな綺麗な草原を、焼け野原にしてしまったのだから。でも、いつ爆発するかわからない状況で、一人で放置されるより、怒られた方がマシだとも思った。
私は、ただ呆然と立ち尽くしたまま、サイレンの車に乗っていた人に手錠をかけられた。強引に手錠を引っ張られ、ワゴンの後部座席に乗せられた。この歳で、まさか逮捕されるとは思ってもみなかった。
強面の人間が二人、私の両サイドに乗り込むと車は出発した。サイレンが依然としてけたたましく鳴っている。
車に轢かれて死にかけた私が、草原で爆発を二度起こし、警察と思わしき人間に逮捕された。こうして、閉じかけた幕が思わぬ形で再び開き、第二の人生が始まったのである。