変態にも事情はある
現在の時刻、午前五時。やっと終わった──。合計十五人のおばあちゃまがたのオムツ交換が! ただ、嬉しい。退勤まではまだ四時間あるけど、もうここまで来れば、もうすぐで俺たち夜勤職員の希望・早番が来てくれるぅ! 人手よ、早くここへ集まれ! 早番・カミングスーン!!(この時間帯は大体テンション狂う)
俺は達成感とともに陰洗ボトルのぬるま湯を捨て、道具をしまうと汚物処理室を後にし、スタッフコーナーへと帰還する。
スタッフコーナーにはすでに美鶴木くんがいて、パソコンの前に座り、記録を打ちこんでいた。つまり美鶴木くんも俺と同じくらいの人数の排泄交換と、ポータブルトイレの清掃とかもすでに終わらせたということ。さすが仕事が早い。夜勤デビュー初日だっていうことを忘れそう。
「美鶴木くん、早いね〜! つか聞いてよ、俺のほう当たりばっかでさ.........」
そう声をかけながらスタッフコーナーに入ると、俺の到着に気付いた美鶴木くんは、何故か目線を泳がせている。俺のほうをチラッ、チラッと見たかと思うと、いきなり俯いてしまった。
──挙動不審すぎてビビるわ。いつもは俺が声かけるとムダに爽やかな微笑付きで返してくれるのに。
「み、美鶴木くん、どうした?」
そう言うと、俺の耳にギリギリ届くほどの声が聞こえてきた。
「な、なんで.........あなたは.........」
ん? 〝なんで〟とな?
「え、何?」
「おれのこと.........気持ち悪いとか思わないんですか」
美鶴木くんはキーボードに、そう言った。
「突然だね」
その言葉で、なんとなく分かった。つまり美鶴木くんが言おうとしているのは、俺が積極的に忘れ去ろうと努めてたこと。今から約三時間前の、タツノさんのリハパンを頭にかぶってる美鶴木くんを休憩明けの俺が発見してしまった一件のことだ。
俺がまず言いたいのは。──どうして美鶴木くんのほうから、思い出させちゃうのさ。
でも、あのあとは、むしろ美鶴木くんは堂々としていたのだ。〝見つかってしまったのなら、仕方がない〟というような諦観だったのか、美鶴木くんはリハパンをかぶったまま「じゃあ、おれも休憩行ってきます」って爽やかに言ってたし(あれいつ脱いだんだろ。そしてちゃんと捨てたかな)。俺も至って普通に接するように、頑張ったし。
じゃあ何故いま、いきなり挙動不審に? 時間が経ったらだんだん恥ずかしくなってきたとか? もしかしてあの直後は、ランナーズハイ的な感じだったとか? タツノさんのリハパンを頭にかぶれた興奮の余韻で?
つかこの質問、どう返したら丸く収まるんだ。ううむ──。
「.........別に、気持ち悪いとかは、ないけど」
介護において基本である共感の態度、つまり〝美鶴木くんの(リハパンかぶりたくなる)気持ちも分かるよ〟とかは無理しても言えないけど、人様の性的嗜好に口挟むつもりはないよ。
俺が何とかそれだけ言うと、美鶴木くんはゆっくりとその端正な顔を上げて、ようやく俺と目を合わせてくれた。──何だか、縋るような目をしてるけども。
つか、この話はもう終わらせたい。俺はなるべく早くあの一件を頭から消し去って、おうちでぐっすり安眠したいわけ。
ということで、俺は話題を変えることにした。
「つか聞いてよ美鶴木くん、今日、便が出てる人ばっかでさ〜、」
「ちょっとだけ試してみたくなっただけなんです」
──しかし、虚しくも俺の言葉は遮られた。まるで、これから重罪犯が己れの罪をすべて告白しますみたいなシリアスな声音に。
美鶴木くんは再び目を伏せた。
「ちょっと、ちょっとだけと思って、気付いたときにはかぶってました.........タツノさんに対する罪悪感はたしかに頭にあったのに、俺のなかにいる魔物の甘い誘惑に、俺は負けたんです.........」
「............。」
──もう、何も言えねえ──。頼んでもいないのに何をぶっちゃけてくれてんだ。俺、かぶった理由を打ち明けてくれって言った? むしろ触れないようにしてたじゃん!
美鶴木くんの声には、すでに熱がこもっちゃってる。
「一度かぶってしまったら、もう.........もう、脱ぎたくなくなってしまったんです。まるでストレスフルな人生から自由になったような気分で.........。あの、だから、あれはただの〝ストレス発散!〟みたいなものなんです。そういう軽い感じで捉えていただけると、非常に助かります」
──いや、ごめん。無理だよ。ストレス発散のために普通の若者が女性高齢者のパンツをかぶるか?
つか、面倒ごとに片足つっこんだ気分。〝ストレスフルな人生〟とか自分で言わないでよ──。
話の流れ上、かなり気が進まないけど俺はこう聞いてみた。
「.........ストレス、溜まってたのか?」
「そうですね.........。ストレスなんて全人類の皆様方が抱えてらっしゃることは勿論存じ上げているんですが.........」
美鶴木くんはそう言いながら、男のくせに上目遣いで俺を見つめてきた。まるで悩みを聞いてほしそうに。
もう、なんだかなあ──。
「いいよ。聞くよ。ストレスの種を話してみなさい、適当に聞いてやるから」
俺がそう言った途端、美鶴木くんのいつもの笑顔が戻った。
「ありがとうございます。やっぱり頼もしい上司です」
「今はそういうのいいから」
「べつに、大したことじゃないんですけど.........介護って、つらいなあと思って.........」
美鶴木くんはため息まじりにそう言った。
どうやら、仕事関係の悩みらしい。美鶴木くんは専門学校で介護についてたくさん学んできただろうけど、実践に関してはまだ新人だから色々と悩むことがあるのかもしれない。
「つらいって?」
「介護って、理不尽なことばかりじゃないですか」
「そりゃ、まあね」
仕事なんて、すべてそんなものだと思う。
「つまり、おれが悩んでるのは.........喜代子さんて、死んだほうがいいんじゃないでしょうか」
「え?」
いきなり何か話が変わったぞ。何故、いきなり喜代子さんの話?
俺は一応言った。
「他人のことを〝死んだほうがいい〟って言うのはちょっとね...........」
すると、穏和な平和主義者が、珍しく反論してきた。
「でも、おれは、それが喜代子さんの幸せだと思います。.........あんなの、生きてるとは言えません」
美鶴木くんらしくない、力強い否定の言葉だった。
「だって、ベッドに寝たきりなのに、食べることの喜びさえも無く.........胃瘻を希望した家族は、面会なんて滅多に来ない.........喜代子さんは、家族のエゴのせいで、単に死ねないだけじゃないですか?」
美鶴木くんの言いたいことが分かった。
喜代子さんは、胃瘻患者だ。胃瘻は、今世紀に入って急速に普及した医療技術。胃に穴を開け、そこから栄養剤を注入することで、口から食べられない人も生き延びることができる、というもの。
「喜代子さんは、何も言えないけど.........もう楽になりたいと思ってると、思います」
「そうなのかなあ.........まあ、喜代子さんももう八十八だからね」
──でも残念ながら、喜代子さんの家族が胃瘻造設を決めたわけだから、ただの雇われ介護士の俺たちはそれに関して何もできない。看護は栄養入れなきゃいけないから大変だけど、介護としては三食食事介助しないでいいから楽といえば楽だし。
でも、まだ頭のしっかりしてる他入居者たちは、喜代子さんを見ると「どうしてあんなになってまで生かされなきゃならんかね。おれは嫌だよ」と言うのがお決まりだ。
美鶴木くんは続ける。
「みつさんだって、本人はもう食べたくなんてないのにどうして注射器まで使って無理やり食べさせてるんだろう、って思うんです」
「それは.........、家族が口から食べられる分には食べさせてほしいって、言ってるからね」
俺が口を挟むが、美鶴木くんは止まらない。
「それに、勇蔵さんだって.........リハパンが汚れてるかどうかの確認なんて、勇蔵さんは嫌がるのにどうしてしなきゃいけないんだろう、といつも思うんです」
それは俺もそう思う。できればしたくない仕事だよね、超怒るから。
勇蔵さんはショートステイの利用者で、自宅に帰る前に、家族の要望でリハパンが汚れていないか確認しなければならないのだが、彼はまだ頭がしっかりしているため、職員がトイレに入ってくるとかなり嫌がるのだ。でも、失禁はしやすい。
「あとそれに.........、何か、すみません。グチばかりで」
美鶴木くんが突然我に返った。
「まあいいよ。いいからこのさい全部吐き出しちゃいなさい」
「ありがとうございます。さすが、」
「優しすぎる上司でしょ? 褒めて褒めて」
「.........それに、五日間お通じが出てないから摘便しなきゃいけないとしても、摘便されてるときマツさんは身を捩らせたりしてかなり痛がってて、実際結構出血していたことがあって」
「............。」
おい、華麗に無視すんなよ、悲しいから──。
まあ、それは記録で見たけど。看護師がマツさんの肛門に指を突っこんで、ウンコをほじくり出してくれたけど、硬便のためか出血してしまった、って。
「それにツネさんだって、コーヒーをもう一杯おかわりしたいって言ってるだけなのに、どうしてさせてあげられないんだろう、って」
まあ、ツネさんよくそう言うよね。たしかに可哀想だとは思うけど──。
ツネさんは糖尿病のせいで喉が渇きやすいからか、一日の合計水分摂取量がいつも多めになってしまう。水分は摂りすぎも良くないから、看護師に止められる。
「どうして本人がしたいことをさせてあげられないんだろうとか、どうして本人が嫌がってることをしなきゃいけないんだろうとか.........介護は、理不尽です」
美鶴木くんはそう言ってひとつ息をついた。
つまりこれらが、美鶴木くんにリハパンをかぶらせたというストレスの正体、ということか──。
うん? これ、ホントにパンツかぶる理由になってるか──?
「頭では、分かってるんです。食べなきゃ死んでしまうし、出さなきゃ死んでしまう。本人の健康長寿のために、本人の生命のために、おれたちが管理してあげなきゃいけないんだって。.........でも、彼らは言葉で言えなくても、そんな余生なんてもう、生きたくないんじゃないですか?」
──まあ、俺も似たようなことに悩まされてきたけど、だんだん目をつむることにも慣れてきてしまった。
美鶴木くんは、俺と合わせていた目を逸らした。
「ちゃんと分かってるんです。本人の身体のことだけど、本人の意思じゃなくて、家族の意思を優先させなきゃいけないことは」
「それはまあ、実際に施設に支払いしてるのは、家族だからね」
つまり美鶴木くんは、入居者とその家族の間の板挟みが、ストレスになっているということらしい。
「そういうことがあって、今夜になってストレスが爆発しちゃったわけね」
いや、完全には納得できないけどね? そのせいでこっそりリハパンかぶるとか。
「はい。.........見苦しいところを見せてしまって、すみませんでした」
美鶴木くんはそう言うと、俺に頭を下げてきた。
「いや、謝る必要ないけど.........でもさ、その悩みってさっぱり解決するのは、きっと難しいよ。下手したら、これから仕事辞めるまでずっと付いて回るかもね」
「.........。」
俺がそう言うと、美鶴木くんは絶望的な表情を浮かべた。
──家族だって勿論、本人の意思を尊重したいと思ってる。でも、その本人が自分の意思を表せないために家族が苦心したり、たとえ本人が意思を表せたとしても「ボケてるから」という理由で軽んじられることもある。
美鶴木くんは自分の目の前の人に優しすぎるから、俺よりも尚更のこと歯がゆく感じるのかもしれない。
俺は絶望している顔に言った。
「美鶴木くん、もしかしてちょっと仕事辞めたいとか思った?」
彼の表情は曇っている。
「う〜ん.........なんていうか、不安になりました」
「絶対、辞めないでね」
「え」
美鶴木くんは戸惑ったような顔をしている。
でも、美鶴木くんはこの仕事が向いてると思う。俺と違って。
「美鶴木くんが辞めたら、あのおばあちゃまがた悲しむよ? ...........喜代子さんも認知症だけど、何も喋れないけど、きっとほかの誰よりも美鶴木くんをいちばん信用してると思うし。美鶴木くん、たくさん喜代子さんに話しかけてあげてるから」
美鶴木くんが時間が空いたときに、喜代子さんや、ほかのおばあさんの居室に顔を見せに行ってるのを見かけることがある。
──それに何よりも。美鶴木くんは、この施設で俺以外のたったひとりの男性職員だ。彼に辞められたら俺、気が強いオバチャンたちに囲まれて一人にされちゃう。そんなのつらすぎる。
俺は、更にダメ押しする。
「だから美鶴木くん、ストレスなんかに負けないでよ。.........まあ、もしまた介護に疲れたときは、かぶれば?」
タツノさん、自分のリハパンかぶられて気持ち悪がってなかったどころか、むしろ惚れ直してたし。
すると美鶴木くんは真剣な表情から一転、ポッと赤面し、身悶えした。
「か、かぶるって............そんな、ストレートに.........」
──今さら照れてんじゃねえ! 不運にも遭遇しちまった俺は受け入れちゃったんだぞ。
俺は辛抱し、身悶えする変質者が静まるのを待った。
ようやく真面目な顔に戻った美鶴木くんは、言った。
「素晴らしいアドバイスを、ありがとうございます.........辛くなったときはストレス発散して、頑張ります」
「うん、美鶴木くんなら頑張れるよ」
君なら、きっと頑張れる。何故なら君にとってこの職場は、姥捨山なんかじゃない。熟女パラダイスなのだから。