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おばあさんと変態覆面男  作者: 助川
3/4

おばあさん、遭遇する

 俺は注射器シリンジで小皿の中のどろどろした緑色の液体を吸入し、それをみつさんの頑固に閉じる口に半ばむりやり突っこみ、注入する。

 この液体は多分、だいぶ緑が濃いからほうれん草とかかな?

 隣の静子さんのお膳を確認してみると、やっぱりほうれん草のお浸しの小鉢があった。

 俺は再び緑色を吸入し、彼女の口に突っこむ。


「みつさん、ほうれん草のお浸しだよ」


 注射器をぐっと押して液体を口内に入れる。慣れれば簡単だ。

 口元に注射器の刺さっているみつさんは、閉眼してどこか眉根を寄せている。

 四角い窓の外では、麓に日が沈みかけている。長い夜が始まった。俺は夕方の四時から翌朝の九時までの十七時間を拘束され、その間、暗闇のなかで蠢く、ゾンビの如く顔の肉の垂れ下がった夜行性高齢者との戦いを強いられる(誇張してないよ)。夜はなかなか明けない。

 しかも今夜は、美鶴木くんが夜勤業務をひとり立ちするデビュー日。これから出勤してくるけど、美鶴木くんの真面目な性格的に、緊張してるだろうなあ。初日だからサポートしなくては。美鶴木くんはかなり覚えが良くて教えたとおりできるし優秀だけど、初日だしね。

 今夜も、長い夜になる。


 みつさんは、なかなか嚥下しない。ほうれん草のお浸しを飲みこめず、口内に溜めこんでいる。俺はこの間に静子さんの食介をする。食べやすいように細かく刻まれているほうれん草をスプーンで掬い、静子さんの口元に持っていく。


「静子さん、ほうれん草のお浸しだよ」


 しかし、静子さんは頑固に口を閉じている。彼女は俺を睨みつけながら言った。


「そんなマズそうなもん、いらんよ」

「騙されたと思って食べてみたら美味しいかもよ。野菜は栄養になるしさ」

「そんなもん食えるかい。いらん」

「俺からの頼みでしょ? 静子さん痩せちゃって、心配してるのさ」

「あんたは確かにいい男だけどね。食べたくないよ」


 静子さんは頑固に拒否する。

 彼女は体重が二十六キロしかなく、体は肉が無く皮だけ。骨がくっきりと浮き出てガリガリの骸骨状態だ。口だけは達者のくせに、食事となると全然口は開かない。彼女は小食というか、もともと美食家なのだ。美味しいものなら食べるけど、マズいものは絶対食べない。そして、施設の食事は大抵マズい。この前、特別メニューで出た鰻の蒲焼きはバクバク食べてたけど。


「それ以上痩せちゃったら、死んじゃうよ?」

「わたしゃ死にたいんだよ」


 これだけ言っても口が開かないなら、まあ、諦めてもいいだろう。おかゆ少量と焼き魚だけは何とか食べてくれたから。本人拒否で五割のみ摂取、って記録にもそう書ける。彼女にしては頑張った。

 でも、最後に水分だけは摂ってもらわないとね。水分が一番大事。


「静子さん、じゃあカルピスだけ飲んで。それで終わりだよ」


 俺は静子さんの口元にカルピスの入ったコップを持っていった。すると、拒否なくカルピスをごくりと飲んでくれた。


 かと思いきや。




 ブシャァアァァァァァ!!




「..................。」


 顔中に、ぶっかけられた。静子さんが勢いよく口から噴射したカルピスを。顎から滴り落ちる白濁の液体。大変、気持ちが悪い。静子さんの唾液も混じってるかと思うと潔癖の気がある俺は少々死にたくなる。口の中まで入ってたらもう死んでる。ここの大半の入居者みたいに常に半開きじゃなくてヨカッタ。


 誰かの慌てる声が聞こえた。


「うわあ、またやった! 大丈夫ですか?」


 気の利く職員の誰かがすぐにタオルを手渡してくれて、俺は少々みじめな気持ちで顔を拭うと、目を開けた。

 すると視界に入ったのは、ニヤニヤと満面の笑みで皺を深くしている、したり顔。

 ──クソ、栄養失調で死にそうなくせに、今だけ憎らしいほど生き生きしてやがる。

 静子さんは愉快そうに言った。


「悪いね! マズすぎて吐いちまったよ!」


 おのれ。おのれ、静子。


 わざとでしょ。顔のど真ん中狙って吹いたでしょ。うん、全部知ってる。







 ああ、せっかくの休憩なのに、興奮状態というか臨戦モードが抜けなくて、寝れない。昼間もそんなに寝れなかったのに。時計を見ると、休憩終了の午前二時まであと十分。ああ、せっかくの仮眠タイムだったのになあ。勿体ない。

 寝れなかったので、枕元に置いておいたスマホの目覚ましアラーム機能を解除し、鞄に戻した。

 その鞄の中では、何となく職場に持ってきてしまった、一冊のある本が埋もれている。俺はそれを何気なく取り出した。

 これは、昨日俺が兄の家にお呼ばれされたとき、十四才になる姪っ子が、当惑する俺に半ば無理やりに貸し出したものだ。


 ──そう、飲酒した俺は禁忌タブーを犯してしまった。俺はつい酔っぱらってふざけて、恋バナをせがんできた姪っ子ちゃんに、美鶴木くんとタツノさんの不可思議な関係を面白おかしく話してしまったのだ。すると姪っ子ちゃんは全く引くことなく、むしろ一人で大盛り上がり。「イケメンとおばあちゃんの恋?!」「そんなの女の子はみんなおばあちゃんの味方だよ!超応援する!!」と断言してた。

 俺の手元にある、キャピキャピギャルのイラストが描かれた桃色の表紙の本のタイトルは、『片思いなんてもう卒業☆ムリめな恋を叶えるための30の恋愛テク☆』。




 ──いや、ムリめすぎるだろ。


 ふつうに考えてタツノさんにこんなもん見せられないでしょ。何故持ってきてしまった、俺。

 とてもページをめくる気にはなれない。時計を確認した俺は、まだ少し休憩時間は残っているけれども、本を鞄の奥底にしまい、休憩室を出た。


 休憩後にすぐ、必ずしなくてはいけないことは、ピッチを持つこと。

 俺は休憩室からまっすぐスタッフコーナーへ行き、充電器に挿しておいたピッチを手にした。そしてそれをズボンのポケットに入れようとしたそのとき、俺の手の中でそれが震えた。

 ──出てきてすぐかよ。あーあ、タイミング悪いな。カルピス吹っかけられたときから思ってたけど、今日はあんまりツイてない。

 俺はすぐピッチの画面を確認した。表示された番号は214-1。214号室の1番さんから、ナースコールだ。


 ──つか、214? はて? 一瞬、存在しない部屋からコールが──、とか思ってしまった。

 だって全然見慣れない数字だ。この数字、もしかして初めてじゃない? 押したの誰? だってコールの大半が、ベッドに起き上がりセンサーの付いてる熊雄とか熊雄とか熊雄とか──なのに。214号室って、誰だっけ? 部屋がたくさんありすぎて、全部は覚えきれてないのが事実。

 ──まあ、いいや。214に行ってみれば分かることだ。俺はスタッフコーナーから東側の棟へと向かう。

 居室の並ぶ薄暗い廊下を歩き、216、215とだんだんと近付いてきて、ようやく分かった。なあんだ。214って、タツノさんの居室じゃん。

 どおりで分からないわけだ。無気力系おばあさんだから、たとえ何かあっても職員なんか呼んだことなかったんだ。


 ──じゃあ、どうして今、呼んだんだろう。


 うわー、何かコワイ。超コワイ。厄介ごとの匂いがぷんぷんするよう........。「隣の人のイビキがうるさくて寝れないの」とかどうでもいいことでありますように。のりちゃんのイビキすごいもんね。

 俺はそうして恐る恐る、214号室のドアを開けた。


 そして、その部屋の中を見た瞬間、俺は硬直した。


 そのほの暗い部屋にはすでに、タツノさんとのりちゃん以外の、先客がいたのだ。タツノさんのベッドの前に立っているその先客の、異様そのものの姿に、俺は自分の目を疑った。何故ならその先客は、この老人ホームという場所で、白色の覆面・・をかぶって顔全体を隠しているのだ──。


 ど、どうしようどうしよう。こんなに不審者感丸出しの人に初めて遭遇した。安易なイメージだけど、映画とかドラマで強盗とかしてそうじゃん。現実で本物に遭遇しちまった!

 ──ん? でも、白色の覆面って、何だかイメージと違うな。

 つか、瞬時に覆面だと思ったけど、目とか口元に穴が空いてないじゃないか。何か、違うぞ。俺は違和感を感じ、ほの暗さのなか、更に目を凝らした。

 そして、俺は見た。その白い覆面の頭部にふたつの穴が開いているのを。そのふたつの穴から、不審者の頭髪が覗いている。

 俺は、ようやく気づいたのだ。あの覆面は、俺の日常の中にあり、毎日慣れ親しんでいるものだと。

 そう、その白色の覆面の正体とは、より正確に言うのならば──、()()()()だったのだ。


 リハパンとは、失禁しやすい高齢者が漏らしてもいいように使い捨てすることのできる、リハビリパンツのことである。


 そう、そのはずだ。決して頭にかぶって楽しむものではない。


 固まる俺のほうを、恐らく変質者のほうも意識している──、表情は全然見えないけど。そして、変質者も微動だにしない。まるでどちらかが動いたら、何かが崩壊するかのように。緊張が張り詰める。


 当たり前のことだが、俺は彼を変質者、というかそれ以前に施設に侵入した不審者だと認識して、施設長に緊急連絡を、と思った。しかし──。

 フッ。俺の目はとうとう狂ったらしいな。どうして変質者の着用しているものが、この施設の職員用の制服に見えるんだ? しかも変質者の背格好には、たしかに覚えがあるような、無いことを祈るような──。




 ああ、信じたくなんかない。


 仲間内に、とんでもねえのがいたなんて。




 俺が、この膠着状態を解くのだ。静かに居室の電気を点けた。

 たちまち蛍光灯の光は、この惨状を包み隠さず煌々と照らした。


「お兄さん! 変な人がいるよ!!」


 リハパンを頭にかぶった変態覆面男が動く前に、誰かがそう叫んだ。──布団の中に丸まってプルプルしている、タツノさんだ。

 隣のベッドではのりちゃんが起き上がっており、「何だこいつは」とばかりに変態覆面男に目を凝らしている。かと思うと訝しげな表情を変え、いきなり叫んだ。


「わあ! いったい誰だい、このスケベヤローは?!」


 嬉しそうに目をキラキラ輝かせてそんなこと言わないでくれ、のりちゃん──。つか、いま深夜二時だよ? 真夜中だっていうのに興奮が過ぎる。


 のりちゃんがそう叫んだからなのか、変態覆面男がとうとう動いた。リハパンで顔を隠したまま、ドアのほうへ()()()()足を動かす。どうやら逃走しようとしてるらしいけど、たぶん前がよく見えてない。

 それを何も言わず、目だけで追っているタツノさんとのりちゃん、そして俺。




 ──まあ、性癖は自由だし、ここは見逃してあげるべきでしょう。ここで話しかけて引き止めちゃったりしたら、それこそ悲惨だ。かわいそうすぎる。分からなかったフリをしよう。




 そう、介護とは、他人へのそういう()()()()とか気遣いとか、優しさが大切だ。


 たしかに、そう思われている。




 ──でも。でも、俺の場合は、ちょっと違う。気遣いとかそんなに上手なほうじゃないし、人に優しくしようとは思ってるけど、できないときもある。


 俺がこの仕事を続けられてるのは、面白いからだ。入居者が、認知症が、面白いから。


 この社会の中で大多数の人間って、他人の前では、その場の雰囲気とかに合わせて偽りの自分を作ってるだろ。人には言えないで押し殺してる本心とかあるだろ。

 そういうのにばっかり付き合ってると、ときどき、俺は煩わしくなる。そういう人間関係全部が、面倒くさい。


 でも、認知症はそうやって上手に自分を取り繕うことを困難にする。認知症になると、自分の本性が現れる。

 ここの入居者は全員、なかなかにトチ狂ってる紳士淑女たちばかりだ。それぞれの個性的で多彩な本能のままに生きてる人たちのために働くのは大変だし、面白い。




 まあ、そういうことだからさ、変態よ。何事も無かったかのようにこの場からトットコ歩き去ろうとしないで。

 そのリハパン、脱いでけば?


「おい、ちょっと待って」


 俺は、無言でドアへと向かう彼の肩を掴んだ。肩がびくりと跳ねる。


 そして悪魔が囁いた。


「なあ。それ、脱げば?」

「..............ん?」


 そう言うと予想外なことに、彼はこちらのほうを振り返った。見つめ合う(?)変質者と俺。しまった、すごい間近で顔面リハパンを直視してしまった。俺の視界が真っ白。ヤバい、面白い。ちょっと目とか口とか透けて見えてる。


「.........美鶴木くん?」

「はい?」


 美鶴木くんは、疑問形ですっとぼけた。キョトン、とするな。


「美鶴木くん、もう諦めなよ」


 そう、この夜更けの施設に職員は俺と美鶴木くんしかいないんだから。


「人違いです。おれは田村です」


 田村なんて職員はいません。つか、顔が透けてちょっと見えてるから。リハパンかぶってもイケメンだから(笑)


「.........ミツルギさん、なの?」


 タツノさんはベッドから体を起こし、変質者のほうを見て呆然としている。何たって衝撃の事実だもんね。

 俺は答えた。


「そうだよ」

「違います」


 美鶴木くんは即座に否定した。


「それって、もしかして、わたしの.........?」


 タツノさんが美鶴木くんのかぶるリハパンを、震える指で差して言った。

 ──そう言えば考えてなかったけど、そのリハパン、どうしてこんなとこでかぶってんの? もしかして、これからタツノさんに穿かせる予定のものですか? それとも、まさか──、使用済み、ですか?


 美鶴木くんは答えていた。


「そう、タツノさんのですよ」

「.........。」


 俺は、その瞬間、彼の潔さに絶句した。タツノさんのリハパンだって爽やかに認めちゃった──!! なんで認めてるのさ、美鶴木くん! これ以上俺たちにショックを与えないで。

 つか、何でタツノさんの質問には素直にバカ正直に答えちゃうのさ! 俺の質問はすっとぼけてたくせに! 使用前か済みかは、まだ分からないけど! まあ、分からないほうがいいこともある。


 ええい。つか、そんなのどうでもいい! とにかく、そのリハパンを脱ぎやがれい! 脱ぐ瞬間がなんか面白そうだから! 表情も込みで!!


 俺はそのリハパンに手を伸ばそうとした──しかしそのとき、タツノさんのかすかに囁くような声が、聞こえてしまったのだ。


「ミツルギさん...............、好き」


 両頬に手を当てて恥じらう乙女を目の前にした俺はその狂気に震え、リハパンへと伸ばした右手はいつの間にか力無く引っこんでいた。

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