おばあさんと恋のABC
今日は早番。早朝五時半起きだから何となく体も頭もダルいけど、早く帰れるから嬉しいのだ。十一時から休憩なので、俺は居室の並ぶ廊下の最端にある休憩室で、即席麺を啜っている。
すると、休憩室のドアがノックされた。
「失礼します。お疲れさまです」
「おう。おつ〜」
礼儀正しく入ってきたのは、タツノさんの話のせいで近頃ちょっと気になる、美鶴木くんだった。美鶴木くんも別のユニットで早番だったから、休憩がカブった。
ちなみに俺は、美鶴木くんの教育係だ(彼は今年介護の専門学校を出たばかりの新人で、俺はこの職に就いて八年目)。この施設で数少ない男の職員同士だし、仕事を教えているうちにかなり仲良くなれたんじゃないかと思う。
美鶴木くんは、自分のカバンから弁当箱と水筒を取り出しながら、何でもないことのように言った。
「あの、おれ.........」
「何、どしたの?」
「さっき、ご入居者同士のキスシーンを目撃したんですけど、」
「ブーーーッ!!」
俺は、咀嚼していた麺を吹き出していた。
え、キスシーン?! 入居者の?! 誰と誰が?!
聞きたいのに、咽せちゃって苦しい。
「おれ、そのときちゃんと見てたのに止められなかったんです........。キイさんのご家族に、申し訳なくて........」
美鶴木くんは、しゅんとしながらも散らばった麺をいそいそとティッシュで片付けてくれてる。汚いのにごめんね。
つか、キイばあさんか──。ってことは、相手は友蔵さんだな。キイさんと食事席がとなりで、目を離すといつもバカップルばりにイチャついてるのだ。
友蔵さんは、施設に一人は必ずいるエロじいさん。恋愛対象は職員から入居者まで全年齢の女性をカバー(男には塩対応)。キイさんは、介護もいつも何も言わずされるがまま、来るもの拒まずのタイプ。
二人が夫婦ならまだ分かるけど、違うし。不倫だ不倫。特養不倫だ。
俺はようやく咽せから復活して、言った。
「キイさんの家族なんか、そんなこと気にしないさ。あそこ完全放置だから。それよりも俺は美鶴木くんが気の毒だよ。見たくないもん見ちゃったね」
ジジババのキスシーン──。友蔵さんによる決死の〝ムード作り〟──。キイさんの、何でもかんでもウェルカムな感じ──。き、キツい。
すると美鶴木くんは少し驚いた顔をして、言った。
「いやいや。友蔵さんの深い愛情と、キイさんの大きな包容力を感じてしまって..........まるで月9ドラマみたいな、素敵なキスシーンを見させてもらいましたよ」
──な、ななな何を口走っているんだ、この目の前の端正な顔立ちのイケメンは。
俺は彼の先の発言に完全に動揺した。でも絶対にこの動揺を相手にバレてはいけない気がして、俺は平然をよそおって話題を変えた。
「あのさ、美鶴木くんて、カノジョいるの?」
美鶴木くんて、もしやアブノーマルな人間なんですか?と聞きたい衝動は抑えこんだはず。
──いや、脈絡のない突然のこの話題はおかしかったかもしれない。
だって脳内パニックなんだもん。
「カノジョですか? おれ、います」
「へえ〜..........」
い、いるんだ──。
何だかホッとしたような、切ないような。だって俺、カノジョいない歴イコール年齢──。
ああ、切ないを通り越して、もはや何も感じねえ。
「..........どんな子なの?」
俺は、なんとなくそう聞いた。
タツノさんが気にしそうだから、とかじゃなくてね。
「カノジョを褒めるってちょっと恥ずかしいですけど..........いつも明るくて、優しいんです。カノジョの写真、見てください」
自ら写真を見せてくるとは、積極的だな。
美鶴木くんは、カバンからスマホを取り出し、俺に見せてきた。
そして、俺が目にしたものは──恐らく撮影者である美鶴木くんを意識しているのであろう、恥ずかしそうにはにかんだ笑顔がそれはそれは超カワイイ、巨乳美女の待ち受け画面──。
俺は、人様の百点満点の幸せに、思わず白目。
「か、かわいいカノジョね..........」
辛うじて蚊の鳴く音ほどの声を絞りだした。
◯
休憩時間は終わった。俺は、およそ五十名もの入居者が一斉に昼食を終えるという怒涛の忙しさのなかに投げこまれた。この時間にやることは、食事の下膳、口腔ケア、臥床。ということで、俺は今、一心不乱にエイ子さんの金歯混じりの口内を磨いている。
これは、一見するとハミガキという日常的動作だが、実のところそうとも言い難い。俺としてはハミガキのつもりでやっているのだが、これは、俺とエイ子さんの強い意思の対立による、壮絶なタイマンバトルと化している。
今、俺たちは敵対関係にある。俺は、彼女の口の中を綺麗にしたい。一方、彼女は、口内を動き回る異物を、噛みたい。彼女は虎視眈々と執拗に狙ってくる。一度その鋭い歯に捕まったら、抜け出すのは容易ではない。重度の認知症によって彼女の力加減はタガが外れているので、顎のパワーはカバ並みだ。
「口開けてエイ子さん..........え、エイ子さん? エイ子さん歯ブラシを解放して? エイ子さん..........エイ子さーーーーーんッ?!」
エイ子さんも必死なのだ。ぎょろりとした目を更に見開き、まるで何か魔物が憑依したかのようなものすごい剣幕で赤いハブラシを噛み締めている。顔がマジすぎて狂気しか感じない。
俺としては歯を磨いてあげたいだけなのに、全力で妨害されて、アホらしくて力が抜ける。こんなんばっかだ、介護って。
──ところで、休憩中に俺は大失態を演じた。それは、言われるがままに後輩のスマホ待ち受け画面を見てしまったということ。その結果、俺はリア充の眩さに当てられ、心の闇を深くした。
追い討ちをかけるように、このバトル。
「............フッ。エイ子さん、俺の負けだよ」
ほぼ磨けてないけど、もうやめよう。この不本意な戦いを。あまり力尽くにしても歯が折れそうでこわいし。
俺はエイ子さんの口元をさっと拭いて、流れ作業的に彼女を他の職員に託した。
ひととおり口腔ケアを終え、フロアを見渡すと、車椅子を一生懸命自走して、恐らく自分の居室のほうに向かっているタツノさんの姿を発見した。
タツノさんが自走するなんて、珍しいな。いつも魂が抜けたように、ただボケーっと職員を待ってるだけなのに。
──しかしながら、やる気はあるもののその車椅子の進むスピードは亀並みだ。本人は必死に車輪をこいでるけど、小柄で腕力も弱く、頑張りとスピードが全然見合ってない。
あまりのぐずぐず加減に、俺は小ガメのそばへ。
「タツノさん、遅すぎる」
「あぁ、ありがとね」
車椅子を押してあげると、タツノさんはひとつ息を吐いた。
そのまま少し廊下を歩き、あっという間に彼女の居室へ入ると、俺は聞いた。
「横になって休む?」
「はい」
了承を得たので、車椅子をベッドに付ける。
──居室ならもう、他の職員に話を聞かれる可能性はなさそうだ。タツノさんに、さっきの話をしてみようかな。タツノさんの反応を見てみたい気もするし、何となくね。
「タツノさん。美鶴木くん、恋人がいるんだってさ」
そう言いながら、前からタツノさんを抱える。
そのまま横移動し、ストンとベッドに腰かけさせる。俺にされるがままのタツノさんは、横にされる前に口を開いた。
「そうよね。男前だもん。恋人のひとりやふたり、いなきゃね」
──まあ男前だとか以前に、七十歳の年齢差という分厚すぎる壁があるけどね。
「.........わたし、九十のバーサンだしね」
俺の心を読んだようにタツノさんはそう合点した。
ここにいる入居者たちは、諦念がデフォルトだ。みんなすでに人生を諦め、安らかな死を待っている。「もう死にたい」と力無く言う人ばかりだ。
「若くて美人で巨乳なカノジョだよ」
俺は一言付け加えながら、タツノさんをベッドにコロンと臥床させた。
そして掛け布団を一枚かけてあげると、あとは他にすることもないので「じゃあ、また来るね」と声をかけようとしたとき、タツノさんは、虚ろな目で無機質な天井を仰いで言った。
「ミツルギさんて、わたしの尻にしか興味がないんだね.........」
う〜ん。何だかなあ。違和感を覚える発言ではあるけど、たしかに切なさも感じるような──でもやっぱクレイジー。
色々と言いたいことはあったけど、それを言う前に、この居室にタツノさんのものではないしわがれ声が響いた。
「好きな男に女がいるなら、横取りすんだよ! わたしゃいつだってそうしてきた」
「..............のりちゃん」
ああ──、彼女はいつも離床時間が長いから、まだフロアのテレビでBSの時代劇見てると思って油断した。
俺がベッド脇の白いカーテンを開けると、そこには好奇心のうつりこむ目をしたおばあさんが、ベッド上に丸まってこちらを見ていた。
そう、この施設の居室は基本的に二人部屋。
タツノさんはのりちゃんのほうを向いて言った。
「よ、横取りって、どうやって.........?」
いやいや。本気にすんな。
すると、のりちゃんは至極当たり前のように答えた。
「どうやるって? そんなのおまんこを出すに決まってるだろ」
「おま.........」
──出た。こいつまた言った。
そう、のりちゃんは下ネタを連発することを生きがいにしてる八十八歳のバーサン。
ドン引きの俺と違って、タツノさんはのりちゃんの話をおかしそうに笑って聞いている。──生命力を奪われる俺と違い、元気が出たようだ。
「あんたのおま◯こでね、男の△△△△を×××させてやって、優しく、かつ激しく◇◇◇して、◎◎。そうすりゃ男は、もうあんたの虜!」
「あははっ」
俺の耳は、非常に詳細に語られた下品な話題を自然とシャットアウト。
これをエロくてキレイなおねえさんから聞くならまだしも、ていうか吝かではないけどもさあ──。バーサンだもんなあ。ただただ、ふつうに引くだけだわ。
タツノさんは笑いながら言った。
「でもわたしはそれより、手を繋いでみたいんだ」
「それだけかい? わたしゃ手繋ぐんじゃ満足できないね! 交わりたいよ! .........そこのあんたとね」
──どこからか熱烈な視線を感じる。絶対そっちのほう見ないけど。
居た堪れないので俺はこの場から早急に脱出することとした。
「それじゃあ俺はこれで........つか、これから美鶴木くんが午後イチのオムツ交換で回ってくるけど、興奮しないでよね」
この後、この居室を訪れる彼のことを思って言ったつもりが。
のりちゃんがオムツ交換というワードに反応し、タツノさんを見て言った。
「それじゃあんた、そいつが来たらさっき教えたとおりにやるんだよ」
「のりちゃん黙って。タツノさんはオムツじゃないからね。あなたに言ったんですよ」
「ああそうかい。またおまんこ見せんきゃならんのかい」
「こっちもできることなら見たくないです」
「あははっ」
タツノさんの笑い声で我に返った。もしかして俺、のりちゃんぶしに乗せられてる? うわ、何かイヤ。早くここから出よう。
「じゃあ、また来るね」
「ありがとね、お兄さん」
以前は死にたがりだった無気力おばあさんは、今は笑顔だ。