狂気の世界へようこそ
姥捨山。それは昔話の類い。働けなくなった老人が、あまり使いたくない言葉だけど、「穀潰し」の「役立たず」と見なされ、その子どもによって奥深い山中に捨てられるって昔話。
ここで俺が言いたいのは、俺の職場は、残念ながら現代版の姥捨山だってこと。
それは、まるでその存在が人様の目に付かぬよう、奥深い山中の窪地にひっそりとある。その姿を鬱蒼と生い茂る木々によって隠されている、汚れたクリーム色の建物。築年数は三十年弱、従来型の特別養護老人ホームだ。
この場所は、ここに住む人々は、社会から隔離されている。
「こんにちは。母がお世話になってます。私、野村智子の息子なんですが.........」
──ちょっとカッコつけて〝社会から隔離されている〟とか言ってみたのに、このタイミングで面会者って──。俺は十時のお茶の時間に出す紅茶に、とろみを付けていた手を止めた。
その声の主は、俺にわずかに頭を下げた。片手に紙袋を持って立っているその中年男性の頭髪は薄く禿げあがっていて、目元や額には細かなしわが刻まれている。智子さんはたしか八十六で、その息子らしいから六十代位かな。
俺もフロアのキッチンから出て、軽く頭を下げる。
「こんにちは、いつもお世話になっています」
──ところで、この施設に面会に来る家族は、ある程度固定されてる。例えばセツさんの長女とか、ミヤさんの長男夫婦とか、富士子さんの長男とか。
その他大勢の入居者の家族なんて、滅多に会いに来ないのに──。
彼はどんなタイプのご家族だろうか。つまり大まかに言えば、施設の介護のやり方に対して〝ウルサイ〟タイプか、〝無頓着〟なタイプか。その点は正直、重要だよね。
すると彼は、フロアの壁ぎわのテーブルのほうを見やった。そこで車椅子に座って、憎たらしくなるほどすこやかな寝顔で居眠りをしているのが、智子さんだ。
息子さんは言った。
「相変わらず、昼夜逆転気味ですか?」
──やっぱりそこ、突いてくるよね〜。つか、「相変わらず」ってことは、ここに入る前、家で暮らしてたときからずっと夜行性なのね。一緒に住んでる人はきっと大変だっただろう。
「そうですね、日中はなるべく起きて頂こうとしているのですが、車椅子上で眠られてしまうことが多くて.........」
本来なら、体操やレクリエーションの時間を取って、活動的に過ごしてもらうのを目指すのがあるべき施設なんだろうけど、うちは万年人手不足で、そんなことは滅多にやらないダメ施設だ。
彼は言った。
「じゃあ、夜間は大変でしょうね?」
「すみません、夜に寝て頂こうと努めているのですが.........」
「いやいやそんな、謝らないでくださいよ。私たち家族は、すごく感謝してますから」
彼がそう言ってサッパリしたような明るい笑顔を見せると、老けた顔が若返って見える。
「この人が家にいたときは、本当に大変でした。正直、本当に辛くて、苦しくて。だって私たちが寝ている夜中に、便が出たりして、それを弄ってしまうことがよくあって.........朝起きてこの人の部屋を開けたらすごい異臭で、手や布団やそこらじゅう汚物だらけですよ」
彼はそう力説した。弄便行為は今も智子さんの特技。つい先日、すやすやと眠る彼女の枕元のシーツの上に、まるでクリスマスプレゼントかお供え物かのように、茶色い塊がふたっころ綺麗に並んでいた。
俺は心をこめて言った。
「それは大変だったでしょう」
「それにね、私は日中働いているものですから、この人の世話は妻がやっていたんですが、この人は介護抵抗のようなものがあってね。面倒を見てくれる妻に怒鳴ったり、あげく手が出るようになったんです」
介護抵抗。たしかに智子さんにはあるけど、二年前位にここに入居してた〝武雄さん〟に比べればカワイイものだと言わざるを得ない。彼のように若かりし頃は仕事一筋でやってきた頑固で自尊心の高いタイプが、足腰が弱って世話される側になったときが最悪。つまり、殴る噛むの暴力沙汰だ。
──でも、智子さんを在宅介護してたという奥様もものすごく苦労されただろう。何より俺は仕事としてやってるしね。
気休め程度にしかならないだろうけど、俺は言った。
「認知症になると怒りっぽくなりやすいですからね。病気がそうさせるんですよ」
「そうなんですかね.........だから正直、いくら自分の母親だとしても.........この人と一緒に暮らすのは、辛かったんです。だから、この人をここに置いてくださって、ありがとうございます」
家族では面倒を見切れなくなった人たちが、ここにやって来る。もし智子さんの頭がまだシッカリしてたら、自分の子どもに捨てられたと思うだろう。
でも彼は、今日面会に来てくれた。
彼は俺に軽く一礼すると、智子さんの顔を見に行った。
特別養護老人ホームは、終の住処だ。みんな、ここで死を待っている。この場所から出られるとしたら、病気を患って入院したときか、寿命を迎えたとき。
「食べて、出して、寝る」をリピートするだけの味気ない生活を、彼らは死ぬまで繰りかえすしかない。
終末期って、切ないね。
「ねえ、お兄さん、ちょっと便所いきたいんだけど.........」
人生の末期を憂いていると、毎度の如くトイレ催促のお声がかかった。声の主は近くのテーブルに着いてるタツノおばあさん。
俺はすぐにタツノさんの車椅子のブレーキを外した。
「はーい。連れてくよ」
「.........。」
タツノさんは、口数少ない無気力ばあさん。クスリでも盛られたわけじゃないのに、よくボーッと空を見つめている。認知症だ。
俺はいつものトイレにタツノさんを誘導した。扉を閉め、タツノさんに手すりに掴まって立ってもらい、一言断ってからズボンとリハビリパンツをおろす。
タツノさんが便座に座ったのを確認し、声をかける。
「じゃあ、終わったらコールで呼んでね」
「あ.........ちょっと待って」
出ていこうとしたところを呼び止められた。いつも介護されるがままで大人しいのに、レアだな。何の用だろう。
「どうしたの?」
「ちょっと、あんたに聞きたいことがあるんだけど.........」
聞きたいことがある?
はっきりとしたその口調に少し驚きながら、俺は聞いた。
「何を聞きたいの?」
「あのさ、あんたとあともう一人、男の職員さんがいるでしょ? あのお兄さんの名前、何て言うの.........?」
「え?」
突然のその質問に、俺は面食らった。
何故なら、ここに入居してる高齢者で、職員の名前を尋ねる人は決まってる。ほぼ全員が何かしらボケてるし、職員の名前なんて彼らにとってはどうでもいいことだ。毎日のように一緒にいるけど名前で呼ばれることはない。
タツノさんも結構認知症がキテると思ってたのに、意外にしっかりしてる部分もあるのか、それとも何かが作用して今だけハッキリ意識があるだけか?
少し戸惑いながら俺は答えた。俺以外に男性職員は一人だけ。
「彼は美鶴木くんだよ」
「み、みつ.........?」
「み、つ、る、ぎ、くん」
俺が彼の名前を唱えると、タツノさんは、まるで花も恥じらう乙女のように頬をポッと赤く染めた。
「み.........ミツルギ、さん.........」
少しはにかみながら、彼の名前を噛みしめている。
ああ──。美鶴木くんは男の俺から見ても惚れ惚れするイケメンぷりだし、しかも優しさのかたまり。御年九十を女子にするとは、美鶴木くんも罪なヤツだぜ──(ちょっと面白い)。
でも、さ。美鶴木くんより俺のほうが、圧倒的に付き合い長いじゃんか。長いこと尽くしてきてるじゃんか。俺の名前なんて一切聞いてきたことないのに──(何故か悔しい)。
これは突っこんで聞いてみるか。
「何で名前なんて知りたくなったの?」
「.........ミツルギさんて、何か、おかしいんだよ」
う〜ん、答えになってないけど──。
タツノさんは戸惑ったように、たどたどしく答えた。
美鶴木くんは、この施設で〝ホトケの美鶴木〟と呼ばれ讃えられている。入居者にも職員にも優しく、欠点を見つけるのが難しいほどの優等生が、言っちゃ悪いけどボケ気味のおばあさんにおかしいって言われてる──。
一体何があった?
「え、おかしいってどういうこと?」
「だ、だって..................」
タツノさんは言い淀んでる。
「だって?」
「..................だって、便所に入るといつも、こんなバーサンを〝かわいいね〟なんて言うんだ」
「え?」
──まあ、ね。若い女性職員が愛嬌のあるおばあちゃんを〝かわいい〟と言ってるのを聞くことは、あるよね。
優しすぎる美鶴木くんなら言いそうな気もしないでもないような? ううむ、タツノさんは嘘ついてるわけじゃないだろうけど、ボケてるからなあ──。
つか、どうでもいいけど〝便所に入ると〟が気になる。つまり、トイレという密室で、ふたりきりのときに、〝かわいいね〟.........?
「それで、わたしが尻を出すと、喜ぶんだよ」
「...............ん?」
俺は突然の発言に、一瞬言葉を失った。
俺の脳内は大混乱を起こしている。バーサンの尻見て喜ぶって、どういうこと? タツノさんの言葉を真に受けるのならば、つまりちょっと、特殊な性癖をお持ちな感じ? つまり熟女好き? ──ん? でも熟女って言っても、普通はせいぜい四十代とか五十代女性じゃないの? この人、九十歳のリハパン(※リハビリパンツ)愛用者だよ?
「それで、わたしの尻を見ると、突然こう言うんだ.........」
タツノさんはまるで裁判で判決が言い渡されるのを待つときのような深刻な顔をして、そう言った。
それで俺は、つい答えを求めてしまったのだ。
「...............尻を見て、何て言うの?」
「〝あぁ、完熟のモモが食べたい〟って、いつもぽつりと言うんだよ...............」
俺は、バーサンの尻を見て完熟のモモを食べたくなる心理について静かに熟考する。突然湧いて出たモモという単語が表現するもの、それは──。
考察の末、結論が出ました。完熟っていうか、熟しに熟しすぎて食べ頃はとっくに過ぎてるんじゃないのかなあ?(俺は何を言ってるんだ)
つか、マジで? ホントにそんなことを? 美鶴木くんが? そこらの変質者じゃなくて? どうしよう、頭の中がパニック。
「ミツルギさんて、美男子だよねえ.........」
タツノさんは、便座の上でうっとりとそう溜め息を吐く、恋する乙女(90)なのだった。