第8話 不用意な一言
美濃国 妻木領内 妙土窯
さて、濃姫こと帰蝶が産まれたので彼女と仲良くならないと、いざという時信長に殺されたり追放されたりしてはたまらない。それ抜きでも可愛がるけれど。
と、同時に今回の出産関係で見えた問題点がある。
その一つとして、この時代、温度計がないのだ。
温度計は診察に欠かせない。聴診器はまぁなんとか作れると思うが、温度計は色々複雑だし華氏や摂氏のようなメモリと単位も一から作る必要がある。
温度計は現代なら各家庭に置いて体調管理の指標にするものだ。でもこの時代にそういうものはない。あくまで医師の経験と勘が全てである。
それでは困るので作らないといけないと思ったわけだけれど、材料はわかるが自分で作るには技術がない。
ガラス職人とか日本にいるのかな?確か当時は瑠璃だか玻璃だか、そんな名前だったはず。調べてみるか。
他にも足りないものがたくさんあった。すり鉢は瀬戸と備前の良いのが手に入ったが、上であげたようなガラス製品のフラスコなどは手に入らないし密閉性の高い陶器はまだ甘いのだ。
年齢的にも立場的にも出来ることは限られているので、一つ一つ進めるしかないか。
陶器に関しては妻木氏がやっている窯で作っているものは悪くないが、瀬戸焼の方が質がいい。父の用事にくっついて見学に行かせてもらった時にそう思った。
「なんか、窯の形が違うな。」
ふと思ったので口から出た。前世で訪問診察で回っていた陶工の稲沢さん(74)の窯はもっと高さがあって、斜めだった気がする。
「豊太丸様、何と窯の形が違うのです?」
「あ、いや、その。」
まずい。妻木の広忠殿に聞かれていた。
「何と、いや、どこの窯と形が違うのですか?」
凄い剣幕である。なんとかごまかすには……やはり明の書物だ。明の書物は万能にして最強なのだ。
「えっと、明の書物に外側だけ描かれていた絵の窯がですね、斜面を使って低いところから焼いて高いところで煙が出て行く窯だったので。」
「……ふむ。少し調べますか。」
父が横目で鋭い視線を送ってくる。この視線は浴びると冷や汗が出るから苦手だ。
「豊太丸は勉強熱心だな。そのような書物まで読んでいるのか。」
「父上。あー、その、一応跡取りということになっておりますので。明の新しい技術も取り入れねばならないかなと思って読んでました。」
「ふむ。そうか。」
素っ気ない父の返事で、とりあえずその場はなんとか誤魔化せたらしい。とはいえそろそろ証拠になる現物が欲しい。早く色々書き物ができるようになりたい。
なんなのあの蛇がのたくったような字は。うなぎが踊っているのかと思ったらそれが手紙の終わりを省略しているんですってさ。
♢
美濃国 井ノ口郊外
初夏のある日、父左近大夫と稲葉山城の城下を視察するのに付いてくるよう命じられた。商家でも回るのかと思ったら井ノ口の町はあっさり通り過ぎて、城の周りに広がる農地が目的地だった。歪な形の田んぼらしきものが目に入る。なぜか違和感を感じた。
馬に乗っていたので痛くなったお尻をさすりながら集落に近づくと、数人のいかにも農家というツギハギだらけの服装の人が頭を下げて並んでいた。父上は稲の様子を見ながら彼らに近づく。1人だけやや身なりのいい人物が代表して父の問いに答える。
「顔をあげよ。今年の育ちはどうだ?」
「去年の大水よりは被害は少なかったですが、今年も洪水で死人が出ましたから……。」
「ふむ。では今年も年貢を減らすとしよう。ただ、冬に少し手伝ってもらいたいことがある。」
「もちろん、喜んでお手伝いさせていただきます。前の御領主様はあれこれ言いながら年貢を取立てようとして困ったもんでしたが、左近大夫様は本当にお優しいので助かっております。」
実は去年(天文3年、1534)と今年(天文4年、1535)は美濃にとって苦しい年だった。大雨で洪水が発生して長良川が氾濫して、なんと新しい川の流れを作ってしまった。
稲葉山周辺も建物の一部が壊れたり、城下の井ノ口で死者も出たりした酷い災害だった。
追い打ちをかけるように今年も2月に大雨が降って土砂崩れが起きた場所がでた。増水して井ノ口の城下町まで水が入ってきた。堤防も壊れて散々だったのを逃げ込んだ城から見ることになった。守護不在のためだとか近隣で言われたらしく、自称太守の頼芸様は幕府へ守護補任を求めて更に動きを強めている。
「細かくはまた収穫が近づいたら代官を送ることにしよう。宜しく頼む。それと、これが長子の豊太丸だ。来年からこの地域は此奴に任せることにしたので、顔見せをと思ってな。」
「わかりました。わしはこの村の乙名(村長的な解釈で良いらしい)で弥兵衛と申します。豊太丸様も今後ともよろしくお願い申し上げます。」
え?どういうこと?
「何を呆けている。来年以降、ここはお前が管理することに決めたのだ。人手は貸してやるから、きちんと人心を慰撫し年貢をわしに納めるのだぞ。」
「あ、はい。……えっと、豊太丸です。宜しくお願いします。」
とりあえず、そういう実務も来年からやるらしい。薬草の世話は一年かけて教えたから大丈夫としても、労働には早くないかな。しかも年上を管理する立場だ。典型的な裏で陰口されながら面従腹背の部下に囲まれて精神的に消耗するパターンじゃないか。
父の顔が近づく。眉間にしわ寄せていると怖さが増すから蝶姫が懐かないんだよ!って一度言ってやりたい。
「不安そうな顔をするな。堂々とせい。」
これは不安なんじゃなくて貴方の顔が怖いのと、強制される児童労働(管理職権限)に対する不満です。
その後、田んぼや周りを何気なく見て先程感じた違和感に気づいた。前世で見た隆介さん(72)の田んぼと大分違う。
「あぁ、田んぼが四角じゃないからか。正条植えもしてないんですね。」
何気なく言ったんだけれど、父の眼は鋭く光ったように見えた。
「豊太丸、ちょっと詳しく話すのだ。」
その場で肩をがっしり掴まれたため、眼と眼が完全に合う。蛇に睨まれたカエル。違うな、マムシに睨まれたカエルだ。
これは逃げられないと悟ったので、とりあえず隆介さんの家で見たことを洗いざらい喋らされた。もちろん出典は明の書物ということにして、である。
「正条植え?とやらは難しすぎる。歩幅が違う人間同士で横一列に並びながら植えるのは却って時間がかかる。それに田の形を整えるには検地が必要だ。揉めるから何か解決策がない限り出来んな。とりあえず覚えておこう。」
父の顔をテストの点数に例えると30点赤点回避くらいの表情だった。そんな採点なら最初からあんなに凄んで根掘り葉掘り聞かないでほしかった……。冷や汗かきすぎて風邪ひいたらどうしてくれる!と、心の中でだけ悪態をついた。
夜になって解放された時、不用意な一言が出ないようこれからは気をつけようと誓った。
今日は8話までと言いましたが、予定変更で夜に9話まで投稿します。
主人公の豊太丸が前世で見たのは連房式登窯というやつです。