後話7 北条氏政の憂鬱20 棋士と騎士
1週間経過してしまいましたが、今月も月刊少年チャンピオンで連載しております。
そろそろあの場面が近づいておりますので、ぜひ大きな誌面でご確認ください。
京都 伏見
伏見には日本の囲碁界を統括する日本棋院が1574年に設立され、初代会長に仙也が就任していた。彼と入道前の斎藤義龍が主体となって日本の囲碁界は宗教と分離され、本因坊・名人・棋聖・天元・十段の5つの称号が定められた。これらの称号を初めて獲得した者は帝の計らいによって従六位下が与えられることになった。同じように将棋でも統括組織の整備が始まっているが、こちらは義龍が自分が下手であることもあって関与していないため、宗教との分離以外は議論段階となっている。
そんな囲碁の中で、今年は仙也の保有していた名人の称号を奪う活躍を見せる者が出ていた。それが日蓮宗出身の利玄という坊主だった。義龍は宗教と分離されながら仙也が育った本因坊を名誉の地として称号の1つに定めたため、日蓮宗はこの称号を死守すべく一部布教活動そっちのけで囲碁の教育に必死になった。そのため各地で碁の習い場を整備し、優秀な者に生活費を与えて日蓮宗出身の碁の名手に仕立て上げ、本因坊位を掴む次代を育てようとしていた。その教育が実り、仙也から利玄へと日蓮宗出身者による称号継承がいくつか進んだのである。
こうして新しい名人となった利玄の公の場でのお披露目が、年末に京の伏見にある日本棋院で行われることとなった。北条氏からも碁の腕を買われた4名がこの式典に参加したが、うち1人が北条氏政の子である嫡男の親政だった。
「父上、今回は互先と聞きましたが」
「あぁ、お披露目故、利玄殿は最初に入道様と一局打ち、その後選ばれた八人と打つ。その一人が其方だ。これとは別に、今回小田原から来た三名は棋院の六段に任ぜられた打ち手とそれぞれ対局する。呼ばれているのは秋田や津軽から隈府で火の神に奉納する一局を打った者まで、多様な者がいるそうだ」
「名人に認められた利玄様と打てるのは楽しみです」
「一応言っておくが、官位は其方の方が上だからな?」
氏政の嫡男なので、親政は正六位上を与えられている。しかし、徐々に形骸化して名誉のみとなりつつある官位に、親政はあまり価値を見出していなかった。北条氏からすれば関東管領以外の官職にあまり意味はなく、中央政府の陸軍での階級の方が重視されている。官位もあくまで殿上人の一部のみ重要で、殿上人すなわち貴族院に入れる北条氏当主の代役ができるか否かくらいしか意味をもたないものだった。
「では、行って参ります」
「うむ。北条流を披露してきなさい」
北条流は先手番なら星と呼ばれる位置を2つとり、そこから初手の星に近い相手の隅に攻めかかるのが主流だ。これは自分の星と相手に攻めかかった石の間に自分の勢力圏となる地合を作り、これを守ることで勝ちに行くスタイルだ。勢力圏を決めてそこを死守する。まさに関東管領を死守する北条氏らしい打ち方である。
一方、中央の主流は中央から四隅以外の辺の部分を攻め合いながら奪い合う形となっている。特定の勢力圏を互いが作らず、作らせない中で少しでも自分が優勢な全体盤面を目指すやり方だ。乱戦の色合いが強くなるので、深い読み合いが発生する。派手さのない北条の打ち方と違い、乱戦が発生するので見ている人間には面白く、ある種プロ化した囲碁界にとって見せ場の多いこの打ち方は色々な意味で好都合だった。
氏政の観覧席の近くで親政より先に打ち始めた打ち手も、そうした乱戦を得意とする四国出身の棋士だった。三好が育てたこの棋士はお披露目となった利玄に対しても臆することなく果敢に攻めこみ、乱戦を作ろうとする。こうすれば考える事も増えるので、複数人と打つ利玄がミスしやすくなるのも狙いの1つだろう。
(だが、自分が乱戦に持ちこむという事は失着も増えるということ)
失着、つまりミスが出やすいのも乱戦の特徴であり、だからこそ大逆転も生まれる。そこもまた『魅せる碁』が求められる日本棋院の対局だからこそだが、今回の場合はそれが悪い方向に働いた。氏政が観戦を始めて1時間半ほどたったころ、中央と右側の接続を怠った四国の棋士の打ち方を利玄は瞬時に発見し、それを咎める強烈な一手で一気に形成を優位に持ちこんだ。
「ぬ……ぬぅ」
思わず四国の棋士から漏れた声は、隣で打っている親政にも聞こえたようだ。しかし、親政はそれを一瞥するとすぐ自分の対局に意識を戻していた。氏政はその様子に安堵しつつ、しかし盤面の厳しさを感じていた。
(想定以上に利玄という棋士は優秀だ。親政の地合は徐々に削られ、これ以上削られれば勝ち目がなくなる)
大きな勢力圏1つに頼る問題点がこれである。その勢力圏を削られれば挽回する手段がなく、最初にどれだけ地合を確保できるか、それをどれだけ削られずに終局まで守れるかの勝負となる。サッカーで開始5分で奪った得点を守るために残り85分全員が自陣に退いて守り続けるような試合、と言えばいいだろうか。相手からひたすら攻めこまれる中で点を取られないためにとにかく守り続けるのだ。当然だが、その様子も地味になる。周辺の観戦者は四国の棋士の打ち手が苦悩する様子に釘付けだ。
(このままでは15個の石がまるごと死ぬ。そういう厳しい局面をどう打開するか、それとも打開できないのかの方が人は集まる、か)
北条も本質は一緒だ。稲作の余剰分を濃尾三遠の人口増加地域に売って収益を確保し、領地を維持する。そんな地味な施政を続けている。一方、中央政府は工業化の促進・商業の振興とインフラ整備や学業の発展、そして遠方大陸への勢力拡大という派手な政策を進めている。
(そしてその方が生活は豊かになるし、人々の支持も集めやすい。国人たちは夢を見せないから反発されないだけで、もう周辺から我々の勢力圏は削られつつあった。気づいていない者が多いだけなのだ)
10手ほど進んだところで親政が負けを認め、打つ手がないことを示す挨拶をしたのと同じタイミングで四国の棋士も敗北を認めた。しかし、観戦者の反応は四国の棋士のものにほとんど集まり、親政の様子に気づいたものはごく少数だった。
♢♢
対局終了後、内容の検討をしている利玄と親政に、斎藤導三入道が加わって話し始めた。その様子を遠目に見守っていた氏政は、彼らの検討が終わるのを待って親政に声をかけた。
「どうだった?」
「父上、いや、手も足も出ませんでした」
「いや、それは仕方ない。むしろ関東で頂点ですらない其方がこれだけ打てたのは良かった。坂東の碁は劣るものではないと示したのだ」
「そう言っていただけると。入道様からも右辺の打ち筋が見事だったとお言葉をかけていただきました」
「そうか。それでいい」
氏政は外交の一手段になることが証明されればいいと考えていた。他の地域は華やかさ・派手さもないと棋士の新規獲得が難しい。だから隣の棋士のような人材を求めるし、育てている。しかし北条氏の支配する関東はそうではない。そのため、腰を据えた碁を打つ者が多い。そうした気質の違いが今回、わかる人にはわかるという形で成果を出したと氏政は考えていた。
「明日の議会でこの話題は出る。良い話題にしかならぬさ」
「ならば良いのですが」
嫡男の頭を軽くなでながら、氏政は会場を後にした。
♢♢
京都 御所
そして翌日。
議会の開催される部屋では昨日の碁の話をする公家と元大名たちでいつもより賑やかだった。
年末の議会というだけでも挨拶や世間話で人々は口を動かさずにいられないのに、話題となるお披露目があるとなれば半刻(1時間)前でも人々は集まって雑談を続けていた。
その中で、氏政を見つけるとすぐさま彼に話しかけたのは、入道の側室で北条氏出身である於春の子ながら錦小路家を継いだ龍盛だった。今年、父である義龍導三入道のかつて任命された典薬頭を受け継ぎ、関東と北日本方面の医療発展のため各地を飛び回っているため、議会にはなかなか顔を出せない人物だった。
「叔父上、聞きましたぞ。ご嫡男の打ちぶりを父上が褒めていたと」
「まだまだ修行中で関東でも未熟者だが、お眼鏡に適って何よりだ」
「父上が褒めていたのもあって、関東の棋士が参加できる棋戦を作ってはどうかという話があちらで出ていましたよ」
龍盛の指さす先には日蓮宗の熱心な信者として知られる飯尾連龍、出家した現在は日間を名乗っている男がいた。飯尾氏は元今川家臣であり、義元に反発して織田家臣となった経緯をもっている。遠江国の曳馬城主だったこともあり、地理的に近い関東に興味が深い。何より、関東には日蓮生誕の地である鴨川小湊がある。関東へ行く口実を作り、日蓮宗ゆかりの地を巡りたい思惑があることは明白だった。
「飯尾殿は以前も関東への鉄道延伸を政府内から支援して下さいましたな」
「法華は碁に力を入れていますからね。関東でも若き才の発見をしたいのでしょう」
「まぁ、それもあるか」
氏政は日蓮宗の一派と内外から協力するために以前から接触していた。それがこの年末からいよいよ形に出来る目途が立った瞬間だった。
(入道様は政教は分離すべしと申すが、飯尾殿のように自ら仏道を尊ぶ者まで止めることはしていない。こういう政府の人間を上手く味方にするのが肝要よ)
龍盛との話を終えた氏政は、飯尾の話している輪に加わった。人の出入りを増やす次の策が動き出す、今回の対局はまさに新しい局面の始まりとなったのだった。
錦小路龍盛=於春の長男の直丸です。於春は1536年生まれ、氏政は1538年生まれなので、氏政の方が年下です。稲葉山の医科大学を卒業し、今年から医療行政に加わっています。
飯尾氏は史実でも日蓮宗系で、今回久しぶりに登場している連龍の父・乗連の供養塔も浜松市成子町にある日蓮宗の東漸寺にあります。
日蓮宗は義龍の祖父がいた縁もあり、義龍自身は帰依していないものの結構繋がりが深いです。そのため、その方面からも氏政はアプローチをしていこうと画策していました。今回の対局はまさに渡りに船の状況だった形です。
利玄は一説に本能寺の変の前夜に打たれた本因坊算砂による三コウの一局の対局相手です。『ヒカルの碁』でエピソードは知りましたが、囲碁だけでなく将棋も名人だったとか。そのあたりの逸話から今回登場しています。




