第304話 富が遍くいきわたることの難しさ
今日で毎日投稿は終わりです。次から6月は火曜・木曜・日曜投稿に戻ります。
美濃国 稲葉山郊外
研究所で各種実験の状況を確認する。電気分解に関しては石狩川でとれる白金(これも高校時代の教員が持っていた。砂白金と言うらしい)を入手出来る目途がたったので、今後に期待できそうだ。
今回は染料の中でも特にフクシンの製造実験を確認しに来た。フクシンは紫染料だ。紫は現状天然染料がなかなか手に入らない。これを安定的に確保し、皇族・公家のみならず新しい政府の要職者が使えるようにするのが狙いだ。さらに言えば、ヨーロッパでも紫の布は希少価値が高いので大規模に輸出したいという思惑もある。
そして、フクシンのフェノール溶液は結核の診断に使える。結核菌がフクシンによって染色されるので、診断がしやすいのだ。ストレプトマイシンが開発できたとはいえ、これを適切な患者に投与するためにも、この染料開発は重要なのだ。
「塩の量産が今後の課題か」
「塩素が大量に必要ですので。クロロホルムも塩素ですし」
「クロロホルムは動物実験用にも使うしな。ジエチルエーテルをもっと安定的に使えればいいのだが」
「管理が難しいので、我々は余り多く使えませぬ。一度夜中に爆発を起こして倉庫が一つ全壊しました故」
「そうだな。酸化しやすいし引火しやすいし発火しやすい。だが麻酔としては優秀。悩むところだ」
フクシンの製造にはクロロホルムの製造過程で出る四塩化炭素を使う。使用する原料はベンゼン(高炉で手に入る)や硝酸・硫酸・塩酸・水酸化ナトリウムといった基礎となる薬品をほぼ全て使わねばならない。化合させる工程も面倒だが、使う薬品も管理が難しい。それらを適切に化学合成することで紫染料が完成する。
「藍を使った方法は以前試作出来たが、藍は青染料で結構使うからな」
「プルシアンブルーで足りない旗指物や着物には藍からのインディゴを使っております故」
「まぁ、出来る事からコツコツと、だ」
宣教師にも染色着物は好評だ。海外向けにも積極的に売り出したいところだ。
「如何でしょうか」
「うん、良い紫だ」
早速皇族と摂関家、そして主要な寺社にこれで染めた布を贈るとしよう。ブランド戦略の一環だ。可能ならローマ教皇に献上しつつ、日本のキリスト教代表に紫を着せたいところだ(宣教師に聞いた限り、大司教が紫を着るらしいので)。
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美濃国 瑞浪
息子たちと神狐の湯としてすっかり定着した温泉に入る。おかげさまでうちの家系は皆風呂好きになった。シャンプーもリンスも一般家庭に普及済みだ。美濃では中流くらいになれば普通に使っている。とはいえ、川の水質悪化などは困るので、都市部の下水はそのまま川に流さず、一度郊外に回して処理している。今は石造りの処理施設で沈殿させた汚泥を回収するだけの状況だが、そのうち塩素消毒くらいはしたいところだ。大腸菌とかが繁殖していたら困るし。
龍和が片手に木桶を持ってやって来る。
「父上、新七郎殿が熱燗を持って来て下さいましたぞ」
「入浴中のアルコールは酔い易くなるから止めておけ」
「と言いつつ父上も一杯は飲むのですから」
「一杯なら構わん。だが、龍頼は気付くと3瓶くらい空けるからな」
「蟒蛇に御座いますからね。とても付き合ってはやれませぬ」
太守だった土岐頼芸様と酒を飲んだことは殆どないので詳しくは判らないが、その血筋からか龍頼は酒に強い。もしかすると、結構頻繁にお酒を飲んでいる江の方からの影響かもしれない。
「肴は宜しいので?」
「糠漬けだけで良い。カブの漬かり具合が絶妙だぞ」
「豊様の物ですか。肴には丁度良いですね」
「余り食べるなよ。俺の分が無くなる」
「相変わらず独占欲の御強い事で」
お前の母親はお満だ。全員が母親でもいいが甘えは許さん。
「しかし、普段飲めないのでこういう時飲むと美味しいですね、清酒」
「平四郎(蘆名盛興)に酒を飲ませない為には仕方ないな」
蘆名止々斎の嫡男・蘆名平四郎盛興は酒の飲みすぎで、彼に酒を飲ませない為に領内に禁酒令が出されるほど心配されていた。人質をかねてうちで預かることになったわけだが、手元に金があればあるだけ清酒を買うし、なければ蘆名の証文で清酒を買おうとする状態だった。酒を多く飲むようになった原因が叔父の反乱らしく、また自分の小姓が1人その反乱に荷担していたことによるストレスも原因らしいことがわかっている。親族の反乱と身近な家臣の反乱。戦国時代ならよくある話と言われればそうなのだが、政務を任され始めた青年にはトラウマ級の出来事だったのだろう。
で、彼に酒を飲ませないために、彼と接する家臣にもしばらく断酒をしてもらい、その辛さを共有し定期的に話し合いをさせている。辛いのが自分だけではないとか辛い気持ちを誰かと共有していると断酒ができるのではという考えだ。精神科は専門ではないので正しいかはわからないが、龍和たちにあまり深酒させたくなかったのもあって協力させている。ついでに、酒の飲みすぎが体に悪いことも理解させられるのでしばらく協力させる予定だ。
「蜆の佃煮は如何だ?」
「美味しいですね。美味しい。醤油の料理は美味しいけれど、佃煮は奥羽にも持って行けましたし」
「まぁ保存食でもあるからな。おにぎりの具にも出来る」
「奥羽でもそう食べておりましたよ」
「木曽三川の蜆はあまり獲れなくなっているからな。代わりに奥羽でも手に入れば良いのだが」
「十三湊では蜆は殆ど見つかりませんでした。南部領の小川原で獲れるとの事」
「十三湊には無いのか。まぁ、南部領で手に入るなら良いか」
俺の前世の記憶では蜆といったら十三湊と宍道湖だったのだが、何か事情があるのだろうか。長年の浚渫の影響で木曽三川で蜆がとれにくくなっているのもあり、蜆の安定供給はオルニチン的に急務だ。そんなことを考えていると、佐渡に派遣していた三男の惣三郎豊成も会話に入ってくる。
「他にも奥羽各地で特産品が見つかり、海路で運べる様になれば各地の経済状況も良くなるかと」
「某が向かった佐渡の金山も良い具合でした。青化法というやつで想定より小さな鉱脈からも金が採れるとの報告が」
「豊成がかなり口酸っぱく申していたが、あの『青酸カリ』と『青酸ナトリウム』は相当な劇薬なのか?」
「扱いを間違えると死にますぞ、兄者」
「其の様な物が金を取りだす時は大いに役立つとは、世の中分からぬものだな」
「兄者、人ですら溶かす劇薬だからこそ、金を取りだせるのです」
「成程。そう言われれば納得できるか」
豊成は豊の最初の子だけあって医学を中心に学ばせているが、だからこそ昨年は化学薬品の被害防止を実地で学ばせるために佐渡金山に向かわせた。佐渡は青化法の実験を行っている場所だし、今は人の出入りが多くなって都市開発も同時進行で大変な場所だからな。
「金の生産量が増えた御蔭で領内はほぼ兌換紙幣で回る様になっておりますね。父上の狙い通り、『デフレ』は脱却できたかと」
「今後は石見から銀も入ってくる。貿易には銀、兌換用に金という利用方法になるだろう」
海外貿易用には銀で貨幣を造り、政府でその総量を管理することで貿易の不均衡を防ぐ予定だ。ついでに貿易商の利益がどの程度かもこれである程度把握する。両替を担当し預金・融資・個人向けの金貸しなどを担当する銀行の設立も準備中だ。これは堺のとと屋(千宗易)・納屋(今井宗久)と稲葉山の塩屋(大脇伝内)、津島の大橋重長、清洲の伊藤惣十郎、大湊の角屋秀持、越前の森田三郎左衛門、駿河の友野屋(友野二郎兵衛)小田原の虎屋(宇野家治)、常陸の小沢左馬允、酒田の池田惣左衛門といった面々に設立準備をさせている。西国でも後々商人に協力を頼むことになるだろう。
「中央だけが、畿内と美濃や尾張だけが富めば良い訳ではない。豊かさに差はあれど、誰もが衣食住に困らぬ国にせねばな」
「そうですね。少なくとも、蜆が贅沢品にならない様にしたいです」
「そうだな。誰もが蜆の佃煮を食べられるくらいが丁度いい」
少し長湯しながら、そういう世の中への道標をつくらないといけないとしんみりした。
夜。全員で食事をとった。子供たちが今後全員揃う機会はおそらく二度とないだろう。何せお満の2人目の子である千薬丸は春に三好に養子入りする。俺が会うとか龍和が会うといった個別での面会ならまだしも、全員揃うことは難しいだろう。だから、今ここでの時間を大切にしたいのだ。
少しずつ、着実に化学などの分野も技術が進んでいます。そして、そこに教育を受けた子どもたちも少しずつ関わっていくようになっている状況です。
書籍がどの程度売れているか私にはわかりませんが、買ったと教えて下さる方がいてとても嬉しく思っております。ありがとうございます。




