第254話 表裏比興 VS 国盗り蝮 (下)
全編3人称です。投稿予約をせずに寝てしまいました。
また、先週はインフルエンザで投稿できず申し訳ありませんでした。
感想で疑問点としていただいたのですが、武藤姓は武田の系列の名前なのでこの真田昌幸は名乗りません。今回は海野氏系列に養子入りしました。また、元服時期については史実で武藤に養子に入った時期と婚姻の時期から、真田昌幸の元服時期は1558~1564と推定されています。そのため、1560年段階での元服は有り得ると考えています。
飛騨国 高原諏訪城
「東氏を助けるのでは無いのですか?」
「計画性の欠片も無い連中の為に何故我等が兵を出さねばならぬ。我等の目標は三木の三仏寺よ」
素っ頓狂な声をあげるのは根井弥太郎実幸。現真田氏当主である真田幸隆の三男にして、木曾義仲の頃より続く海野氏の名門根井氏を継いだ男だ。そして、それに呆れたように答えたのが矢沢頼綱。真田幸隆の弟である。
「ほぼ初陣の其方には分からぬであろうが、奴等は美濃を荒らす為の撒き餌よ。其の辺は兄の源太郎(信綱)に聞け」
「はぁ。御館様も叔父上も、表と裏を上手く使われておるのですなぁ」
「斎藤は大規模に越中攻めに兵を動かした。少しでも奴等の進軍の足を止めねばなるまい。殿がおらぬからこそ、其方の知恵も借りるのだぞ」
真田幸隆は上野での長尾上杉・織田の決戦に海野兵を率いるため参戦している。海野兵を出すに際し、上杉政実が信濃に赴いてまでこの形を願ったためである。
「叔父上の様に戦場には慣れておりませぬが」
「戦上手の上杉で学んできたのだ、臆するな」
「はっ」
こうして、道中で抵抗する三木の支城を落としながら真田・江馬・内ヶ島の連合軍は進軍した。急峻な道中の支城は放置しながらも補給を絶たれないよう、そして奇襲を受けぬようその行軍は慎重だった。
それが、斎藤道三にとって最も重要だった「時間」を与えるものになる。
♢♢
飛騨国 三仏寺城
真田勢が三木氏の本城である三仏寺の近くまで来た時、東氏に同行していた兵が本隊に駆け込んで来た。彼らは焦りの色がわかりやすい上、泥と土まみれで符号を合わせないと味方とは信じられないほどだった。
「東氏は既に全滅致しました」
「敵は誰が率いている?」
「長井隼人佐(道利)に御座います」
「息子は能登に居るだろうに、未だ動けたか」
東氏討伐は長井道利と妻木氏、越前大野の朝倉氏が遠藤氏と協力して行われた。そのため表面上はまだ道三の姿を誰も確認していない。
「敵は多いか?」
「此方程では。老人を相当数連れているのを確認しておりまする。其の者等は進みが遅く」
「となると主力は妻木と遠藤か。焦らず陣を敷け」
真田信綱は小八賀川を渡った先、宮川流域の平野部に本陣を設置し、高山一帯と三仏寺城に圧力をかける姿勢を見せた。彼からすればもっと近距離に本陣を置くことも考えられたが、地理に詳しくない地域で多数の川を渡ることになり、三仏寺のある山を背負うことを嫌ったためであった。
そして、それを斎藤道三という男は見抜いていた。結果として南北に長い陣になると見越し、宮川西岸にある山の頂上付近で加治田の老兵を率いて布陣していた。
「まぁ、其処よのぅ」
「或る意味分かり易い。此の地形なら、この山の斜面は急峻で崖にも見える」
この山の頂上は標高約800m。一方真田軍が布陣する地は標高600m。その差は200m。斜面の斜度は相応である。
「義経の鵯越だな」
「鹿が降りられれば馬も、か?生憎此処に馬は居らぬ」
上から文字通り見下ろす道三入道とその家臣川村図書。
「雑兵でも坂は降りられるが、崖は行けるか?」
「死を恐れねば、出来よう」
2人に近づきながらにやりと笑ったのは、加治田の佐藤清房。義龍の側近で小姓も務めた佐藤忠能の父で、既に隠居の身である。
「入道様、某が行きましょう」
「加治田衆は老兵のみぞ」
「故に、例え死出の旅になろうと不満は申しますまい」
今回佐藤清房が率いる兵は、ある意味時代に取り残された兵たちだ。火縄銃の扱いに慣れず、大砲に馬が慣れず、少しずつ前線から退いて美濃を守り続けていた者たち。義龍の政策で増えた若い兵が次々と新しい戦争に邁進する中、もう最前線で戦うことはないだろうと半ば諦めていた者たち。
「良かろう、任せるぞ」
「御任せを、殿」
佐藤清房自身も、土地に縛られない義龍の主力とは違う土着の兵では前線に立てなかった。息子忠能の兵は義龍の親衛隊であり、常に最新の技術を用いる最精鋭だ。彼はもうこの古参兵を率いて戦うことはないだろう。
「入道様は大きな戦が幾つか終われば世は泰平を迎えると仰った」
道三は、残る大戦は長尾上杉・伊達・東北の統一・毛利と、後は九州で起こる程度と見込んでいる。それを聞いている佐藤清房は、おそらくここ飛騨の戦が自分達の最後の奉公になるだろうと考えていた。西美濃衆や一部の国人を除き、もう新しい戦い方について行けない国人はいるのだ。
「此処が最後の戦場と心得よ!九郎判官何するものぞ!秀郷流の武威、逆落としで見せつけてくれん!」
「「おおっーー!」」
約200名の加治田衆が崖を落ちる。否、落ちるように駆け下りていく。
平静では逆に降りられないため、彼らは鬨の声を上げながら足を震わせるように降りて行く。時折、人々が悲鳴を上げれば転がっていく兵もいる。普通に考えれば無茶無謀の極み。しかし、だからこそ、真田兵は誰1人としてこれを予想していなかった。
唸り声が、自分たちの上から降りそそぐように聞こえた彼らの心情が、想像できるだろうか。そしてその後、決して攻められないと思っていた方角から敵が来た彼らの心情が、想像できるだろうか。
唸り声に恐怖がもたらされ、降り注いできた敵兵が恐慌をもたらした。休憩のために張られた陣幕は真田兵らの目を覆う障害物に変わり、陣幕の向こうにある川の存在を忘れさせた。雪解け水がまだ流れているこの宮川と呼ばれる川の水温は限りなく0度に近い。足だけでも浸かれば容赦なく兵の体温を奪い、体力を奪い、動きを鈍らせる。しかし、恐怖に支配された一部の兵は、この後訪れる寒さという敵に気づかず、川を渡って逃げていく。
「恐れるな!敵は小勢ぞ!」
声を張り上げる矢沢頼綱だったが、自分の周りにいる多少なりとも落ち着いていた兵以外にこの声は伝わらなかった。一旦恐慌状態に陥った人間を声だけで落ち着かせるには、一種の才能が必要である。歴戦の勇者といっていい矢沢頼綱ほどの人物でも、その才能は与えられていなかった。
「不味い、此れが美濃の蝮の手管か。我等だけでも敵と当たらねば、此の儘敵地で四分五裂にされてしまう!」
「叔父上!御無事ですか!」
「おお、弥太郎!」
合流したのは根井弥太郎。彼は周囲に誰も引き連れずにやって来た。
「源太郎は?」
「敵兵を押し留めております!ですが真面に戦える兵が少なく、何とか動ける者はいないかと独断で探しておりました!」
「良し、案内せよ!大将が手薄では何も出来ぬ!」
「はっ!」
周囲への混乱を一旦放置して大将である真田信綱の元にこうして兵が集まる中、彼らの休憩地点の南から宮川沿いに長井道利率いる妻木と遠藤の兵が迫っていた。真田の兵は東か北に逃げていたため、敵の接近を知らせることのできる真田兵はいなかった。若宮八幡宮方面から近づく妻木らの兵は山沿いに進軍していたため、兵の死角となっていたのも理由の1つだった。本来ならば斥候が彼らに気づくのだが、急遽混乱した本陣の状況に気づいた斥候たちが戻ってしまったため、南の監視網が消失していたのだ。
「戦場の声が此処でも聞こえるな」
「妻木殿、此の様子なら一気に奇襲も可能かと」
「山上の入道様曰く敵は方々に逃げ出す始末。時が経って平静に戻られる前に大勢を決したいですな」
妻木範熙は明智十兵衛に自身の娘を嫁がせたこともあり、長い間東美濃の番人に徹するのを苦にしなかった。妻木領自体は焼き物で空前の発展を遂げ、むしろ余分な軍役が減ったことで尾張までの街道整備などに労役を課すことが出来たので下街道による流通も促進された。今回の出兵要請に即応できたのも、この街道整備の成果が大きい。
「良し、此の先に出たら一気に敵陣へ雪崩れ込もうぞ!」
「山上の旗を見よ!敵は未だ崩れた儘だ!」
山の中腹で青い旗を振る兵を指し示す長井道利。それは敵が今も混乱から立ち直っていないことを示す合図だった。
そして、真田兵の布陣した平地が視界に入る。
「かかれーっ!」
「「おおおおおおおおっ!」」
この瞬間、勝敗は決した。
♢♢
飛騨国 古川
命からがら、という表現がこれほど似合う状況もないだろう。
真田勢は壊滅。内ヶ島・江馬の兵も散り散りに逃げた。大将の真田源太郎信綱は道三の兵によって討たれ、矢沢頼綱は甥である次男真田昌輝・三男根井弥太郎を連れて何とか占領していた古川への撤退に成功した。この時率いる兵はわずかに50ほどだった。
「叔父上、申し訳御座いませぬ。某がもう少し早く叔父上を見つけていれば、兄上は」
「過ぎた事を悔むのは何時でも出来る。今は越中に戻る事を考えよ」
「はっ」
唇を噛みながら震える声で応じる弥太郎。実際、布陣した場所の東南にある城を攻めるため、東南の川近くにいた矢沢頼綱と、全体を把握できるやや高所である北西にいた大将の信綱では合流が難しいのは当然である。むしろ、信綱の状況を伝えるべく単独でも行動できた弥太郎は褒められこそすれ叱責される立場ではなかった。当然、その場に残っていたとしても遺体が1人分増えただけであろうことを考えれば、弥太郎の援軍を呼ぶという判断は最善と言っていい。
彼らは古川に残っていた兵300と合流。江馬氏の領内を経由して越中に撤退した。
上杉政実による唯一の攻勢は、斎藤道三という怪物によって阻止された。
道三は、後にある理由から表裏比興と称される若武者にも、あまりにも強烈な敗北を味わわせた。そしてこの戦により一族の過半を失った内ヶ島氏は降伏。後に国替えで飛騨の地を去ることとなる。また江馬氏は、当主江馬時盛の息子江馬実盛がこの敗戦を機に真田方からの離反を表明。支城の寺林城を長井道利に明け渡したため、時盛は絶望的な籠城戦を高原諏訪城で行うこととなった。
今回の舞台となった場所は上枝という場所です。宮川と小八賀川の合流地点に近く、三仏寺城のある山の裾野にあたります。南東に中切城という支城があるものの、調べた限り砦程度の大きさなので真田も問題視しないと判断しました。高山の城下手前でかつ西側は標高差200mの普通なら敵が来ない地形。しかし源義経の一の谷奇襲地点とされる場所より傾斜が若干緩いということで、道三ならやるな、という話でした。真田昌幸は彼なりに最善手を打てていますが、子飼いの兵もいない上戦場経験が不足していたため結果はこのようになりました。
次回は少し時間が遡って越中の本隊に話が戻ります。




