第252話 母
遅くなりました。申し訳ありません。
※本文中の中国に関する表現は当時のものを一部使用しています。差別的意図はありません。
美濃国 稲葉山城
冬の寒さは、人の余力というものをまざまざと見せつけてくる。母・深芳野の容態は昨夏から秋にかけてゆっくりと悪化していたが、寒さが厳しくなると同時に寝たきりになった。年明けには目を開けている時間が短くなり、豊がつきっきりになった。
そして、今日。
「皆を、呼んで下さい」
母が、そう言った。
全員が、悟った。もう、終わりだと。母は死ぬのだと。
♢
父は腰と足を痛めており、輿に乗るのも辛いためこちらに向かえなかったらしい。正室の小見の方とその子や叔父の道利、そして稲葉良通とその一族と、多くの人が集まった。多すぎて部屋に入りきらず、部屋の中には小見の方と俺、稲葉良通と弟の玄蕃龍定と、孫筆頭である新九郎龍和だけが入った。隣の部屋に多くの一族が控える中、医師たちも別の隣の部屋に移った。
最近は起き上がることすらまずなかった母は、かなり痩せてはいたが皆を笑顔で座って出迎えた。
「母上」
「賑やかですね。きっと御仏も此れならば誰を連れて行くか迷わぬでしょう」
「母上」
「もう、起きられる日は無いでしょう」
ゆったりとした、しかし毅然とした口調だった。
「豊が申していた通り、薬を貰っても痛みが体の内から抜けぬし。であるのに起きていると疲れて疲れて眠ってしまいます。寝ているのに痛みは感じるのです」
穏やかな笑顔の裏で、どれだけの痛みに耐えているか。鎮痛剤として渡しているエンゴサクも、本来なら毒になるものだ。処理をきちんとしているとはいえ、鎮痛のために強い薬を渡すのは辛い部分がある。実際、漢方を処方してから母は目に見えて食欲を失った。副作用の影響だろう。
「昨夜、久方振りに夢を見ました。豊太丸が産まれた時の事」
少しずつ痩せていく母に何もできない悔しさはあった。
「重い子でした。今も忘れませぬ」
母は手相を見せるように両手を広げた。少し前まで血色の良い綺麗だった手が、痩せ細って皺だらけだった。
「例え貴方が何になろうと、母は母。貴方は我が子」
目の前にいた俺に手を伸ばす。後ろからすすり泣く声が幾重にも重なって聞こえる。
「例え貴方が何者であろうと貴方は我が子。愛しい我が子」
ほとんど握力の残っていない手が、それでも力強く俺の両頬に手を伸ばした。
「生きなさい、生きて、貴方の目指す国を」
手が頬に触れるか触れないかのところで、母は俺にもたれるように倒れこんだ。抱きとめた母は、その身長の高さに似合わず、あまりにも軽い。
「そして、一族仲、ょ、く」
そこからは、俺には聞き取れなかった。
♢
2日後。信長が来た。蝶が身重で来れないとのことで、わざわざ来てくれた。
「越中の事、無理せずとも良いぞ、義兄上」
「自分は父の死でも平然と兵を動かした癖に」
「己の流儀は己が決める。だが他の者の想いは慮れと、そう義兄上が教えてくれたのだろう?」
人のことを思いやれる人間になったのはいいことだ。
「大丈夫だ」
昨日、母と最も一緒の時間をすごした幸と豊と長く長く話をした。彼女たちは思いきり泣いていた。泣いてくれた。おかげで俺自身は涙を多く流さずに少し冷静に話ができた。お満は小見の方と接する機会が多かった。一方、母の深芳野と話す機会が多かったのは美濃にずっと残っていた幸と、晩年の看病と世話を担った豊だった。
「俺には為さねばならぬ事がある」
「そうか」
葬儀で予定より俺が能登に行くのは遅くなるが、十兵衛がその分準備をしっかり進めている。情報では越後勢は越中との国境線をガチガチに固めているらしい。石でできた砦が多数確認されている。火縄銃や大花火、大砲への対策に木の構造物はむしろ破壊しているとか。
「信長は上野か。兵の準備は?」
「万全よ。四万動かせる」
上野には柴田勝家・滝川一益・佐々政次・林佐渡守・松平次郎三郎(初陣だそうだ)らの主力部隊に加え、近江から蒲生賢秀・三雲定持、伊勢から神戸利盛・雲林院祐基・藤方朝成、三河から榊原長政・奥平貞勝らを大規模動員して向かうらしい。興福寺に実力を示すべく、元僧兵の胤栄なる槍使いを代表に連れて行くので紹介された。以前兵法を習った飯篠殿と同じ香取の神道流に所属する成田大膳大夫殿に師事されたとかで、縁とは繋がるものだと思った。母を悼んでくれたのは嬉しかったが、僧兵を辞めて普通に戦場に立つならそのスタイルはもうできないぞ、と心の中で突っ込みを入れたくなった。
葬儀にも父は顔を見せなかった。診ている医師は安静にした方が良い、と診断している。ただ、報告用の書状を見る限り何か色々と謀っているようだ。体調が悪いのは事実のようだが、母の死でさえ利用しようとする姿勢は正直一発張り手でもしないと気が済みそうにはない。会いに行く余裕もない忙しさなので諦めるが。
比叡山系・日蓮宗系など諸宗派が葬儀をうちでやらせてくれと煩かったが、父との関係上日蓮宗で行われた。こういう場で高田派が俺との繋がりを理由に出しゃばらないので助かるが、本願寺派も後日使僧を送ってきた。縁者に宗教関係者が多いのを改めて感じる。
ちなみにザビエルも1度だけ母の墓に一礼しに来てくれた。現地の文化を尊重するその姿勢がキリスト教全体にあればきっと共存できるのだけれど。
「サイトウ様、実はリュウキュウにガーゴという私の仲間が来ています」
「ガーゴ?宣教師か」
「ハイ、サツマを通って私と交代し、私はシーナ(明)に行きたいと思っています」
「もう其方も歳であろうに」
「信仰に終わりはありません」
ザビエルも既に50を過ぎており、決して若くない。それでも船で外に行くという。それも母国へ戻る旅ではない。まだ布教を目指すのか。文字通り信仰に命をささげるつもりらしい。
「色々あったが、其方と出会えてよかった」
「私も、サイトウ様に会えて良かったです。貴方様と亡くなられたミヨシノ様に神の御加護を」
「有難う。良い旅を」
次に来るのはどんな人物か、日本を理解してくれるといいのだが。
♢
西美濃衆・鷲巣の弟らを引き連れて美濃を出る。越前・加賀でも兵を集め、合計3万を動員する。先鋒はいつも通り日根野兄弟、後続が大久保兄弟。芳賀兄弟に後方を守ってもらい、これまでに準備した船団を能登半島から回りこませつつ国境を越える。
信長と北条との一斉攻勢の開始日は4月25日。年内に越中を落とす。信長は上野を落とし、北条は古河公方と里見、佐竹を降伏に追い込む。三正面作戦で上杉内部も崩壊に追い込み、東日本平定へ一気に手を進めるのだ。
深芳野の死亡年は詳細には分かっていません。史実での道三死亡時には生きていたらしいことがわかっていますが、女性の情報はイマイチ残っていないので。本作ではこのタイミングとなりました。
次回から長尾上杉との全面衝突を開始します。




