第208話 歴史がもたらす難敵 その7 公方斬殺
全編3人称です。
山城国 京
足利義輝は幼い頃からその才覚に大いに期待されてきた。
詩文・書画・蹴鞠といったものだけでなく、剣技・戦術も瞬く間に身につけた。
このまま彼が成長すれば、足利幕府再興もできるのでは、と周囲は思っていた。
しかし、ある日彼は2人の天才の存在を知った。
1人は若くして、古き因習に囚われた親殺しの男を討ち、新しい技術で独自の力を蓄え一国を統べる美濃の龍。
1人は天才的な戦略眼で内乱を治める初陣を果たし、その後も豊かな国力で拡大を続ける自分と変わらぬ年頃の尾張の龍。
この双龍を知った義輝は、なまじ自分の現状が理解できることから急速に情熱を失った。自分には領土がない。自分には兵力がない。自分には自分の命令を聞いて動いてくれる家臣も殆どいない。
彼はある時期を境に怠惰になった。双龍を知らなければ、失敗しても自分以外に幕府を立て直せるものはいないと夢をがむしゃらに追いかけることが出来たかもしれない。自分を利用して権威と権力を求めることしかできない幕臣の主君を務められたかもしれない。自分にないものに目を背け、それでもなお理想を追い求められたかもしれない。
しかし、彼は知ってしまった。そして出会ってしまった。幕府を絶対的なものだとは露程も思わない龍に。自分の見ていた幕府という狭い世界を破壊できる存在に。
その日から、彼は幕府にしがみ付く幕臣の呪縛から解き放たれた。父である義晴に従わず、単独で京に残り三好と協力したのもその為だった。
そして彼の願いは変わっていった。幕府再興ではなく、このどうしようもない現状を破壊することへと。幕府の闇を誰よりも見てきた男は、龍に出会って幕府を壊すことを思い立つにいたった。細川晴元が気づいたように、足利義輝も義龍という龍の目に気づいていた。幕府はいずれ滅びるものという義龍の中の常識は、この時代の人々にとって強い劇薬となっていた。
♢♢
筒井順昭が細川藤賢を脅し、管領代となって六角を背後から脅かすことで織田を味方につける計画には重要な一手があった。それは本願寺の中で証如死後に始まっていた主導権争いへの介入だった。証如死後、石山本願寺の内部は真っ二つに割れていた。1つは証如の路線を継承し武力をある程度放棄し畿内の有力勢力の庇護を受けて山科復帰を目指すものたち。もう1つは武力を持ち畿内の実力者と対等に話し合える力を得て山科に復帰を目指す勢力だ。
筒井順昭は武力保持対等路線を支持しつつ管領代となって本願寺の山科復帰を支援し、興福寺や比叡山への抑止力となることを期待していた。三好との仲介も請け負い、山科移転時に石山を縮小させることで摂津の三好に配慮する計画であり、石山周辺で関税収入を三好に与えることで三好の困窮を助けるなど内容的には充実したものだった。
しかし、織田信長という鬼才は筒井順昭が注ぎ込んできた全てをひっくり返した。
「さ、左京大夫が討死……」
「伊賀の忍びが支払った金の分の仕事は終わったと連絡をして参りました」
「莫迦な、此れまで積み上げた策が……何故左京大夫程の男が易々と」
このタイミングでの入京は最悪になっていた。管領細川晴元と和解しようにも幕臣の一部を討った手前それは厳しく、織田に対する土産となるはずの対六角包囲網に意味はない。
そして、彼を追い詰める情報が次々と彼の元に集まりだす。
「秋山殿より報告!大河内の北畠が織田の敗戦を聞き出陣したものの、左京大夫討死の報せを後に受けて慌てて撤退!織田軍に追い討ちをかけられ被害が出た模様!」
「三好の松永弾正が石山にて顕如と面会した模様!下間一族も過半が穏健な者共に賛同したとの事!」
急速に体が冷えていく感覚に襲われた筒井順昭だったが、まだ自分には手元に大きな手札があることを思い出す。
「そ、そうだ。公方様だ。管領の兵と戦っている間に姿が見えなくなったが、京から出られぬ様道を塞いである。探し出せ!」
彼は足利義輝を探すよう命じたが、その直後に彼にその義輝から連絡が入った。
「近衛の屋敷に居られるとの事。只屋敷には刀を持たずに入れと」
「刀を持たずに?」
「公方様も刀は無しで会う、と」
「剣の指南を受けたと評判の公方様に丸腰で会うなど出来ぬわ」
筒井順昭は義輝が彼の首をとることで織田と三好相手の交渉材料にしようとしているとしか思えなかった。筒井が生き残るには公方の協力は必須のため多少脅してでも譲歩を引き出したい彼は、武装した兵を引き連れて近衛の滞在する屋敷に向かうこととした。
♢♢
屋敷には既に近衛の人間はいなかった。順昭は出入口を兵で固めると数名を連れて中に入った。屋敷の奥まった一室に座る義輝は、小姓も付けず腰に一本差した状態で瞑想しつつじっと順昭を待っていた。
「やはりか。天井裏にでもお抱えの和田を忍ばせていような」
口の中でぼそりと呟くと、順昭は部屋に入った。
「来たか」
「公方様、我等が共に生き残る最上の策を御持ち致しましたぞ」
「其方に管領代はやらぬ」
順昭が座るか座らないかのうちに、義輝はそう告げた。
「公方様、我々は貴方でない足利の一門も抱えておりまする」
「将軍を辞める気も無い。諦めよ」
「今のままでは少なからず責を問われますぞ?」
「其方の様な力のみを欲する者が畿内から居なくなる方が世の為だな」
順昭は内心腸が煮えくり返る思いながら、顔色を変えずに会話を続ける。
「公方様、慶寿院様も幕府が再び立ち直る事を望んでおります」
「母が大好きな幕臣なら近江に居よう。敬われたくば彼処に向かわれよと伝えておけ」
「公方の座を逐われましょうぞ。其れでも宜しいので?」
「逆賊の首を狩れば誰も文句は言うまい」
そう言うと義輝は片膝で立ち、腰の一本に手を伸ばした。
(不味い。剣で公方様に敵う筈が!)
兵を部屋の外に控えさせたことを後悔しつつ、せめてと刀を抜き、そして、
義輝の胸を袈裟に斬りつけることに成功していた。
「え?」
順昭の間の抜けた声が響く。鮮血が遅れて義輝の服を赤く染める。信じられないように自分の刀を見る。そして義輝の刀を見ると、その手に握られていたのは竹光と呼ばれる偽の刀。
「ば、莫迦な。公方様が、刀を持たずなど」
「く、く、く」
倒れ込みながら、義輝は笑う。
「態々刀を持たぬと、伝えたのに、己だけ刀を持つとは、な」
「あ、あ、あ、あ、あ」
「此れで、其方は、将軍殺しよ。織田に、斎藤に、三好に、討たれるが、良い」
「謀ったな足利義輝ううううっ!」
にやりと笑うと、最後に義輝はわずかに「すま……、か……けぃ……」とだけ呟いて動かなくなった。屋敷内部に順昭配下以外の人間はおらず、屋敷の出入口は彼らによって厳重に封鎖されていた。公方が死んだ今、それが誰の仕業かは誰の目にも明らかになる状況だったのである。
騒ぎを聞きつけて部屋に入った兵たちは、足利義輝の絶命した姿を見て驚愕した。主君は将軍殺しをやったのだと即座に理解できる状況であった。
「公方様は会談の途中で狐に憑かれた様に刀を振り回し、我が方の兵が数十人討たれた。故に我等は御諫めすべく公方様を討った」
「は?」
「そういう事だ。そういう、事なのだ。決して、公方様は黙って討たれてなどいない!」
「は、ははっ」
六角の死で気が狂った足利将軍足利義輝が筒井順昭を討とうとして返り討ちにあった。剣を習っていた義輝は集めていた名刀で筒井の兵を数十人討つも最期は討たれた。そんな筒井の発表は、将軍が筒井の暴虐を許さんと勇敢に戦った結果討死したという形に人々に受け止められた。
将軍殺しの汚名を一身に集めた筒井順昭は、一気に悪の象徴として人々に狙われる立場となる。
♢♢
大和国 興福寺
公方が討たれたほぼ同時刻。
興福寺のとある宿坊が燃えていた。勢いが強すぎて、外側では呆然と見ているしかできない坊主たちが集まっていた。
宿坊の中には2人。1人は眠る若き男性。名を覚慶。足利将軍家の血を引く者。
もう1人は和田惟政。近江から六角に連れて来られた後足利義輝に見込まれ、その数少ない真の家臣となっていた男。
「公方様、御依頼、確かに。然れど公方様のみを輪廻すら許されぬ獄炎の地に向かわせるなど出来ませぬ」
炎に周囲を囲まれながら、和田は一切動じない。眠らされている覚慶も、一切目覚めない。彼が公方からの極秘の手紙を預かったという名目で人払いをしていたため、誰も覚慶を眠らせる薬を盛るのを止められなかったし、付け火の邪魔もできなかった。
「足利の正統は絶え、新しき時代が始まりましょう。せめて、獄炎の地に某だけでもお付き合いさせて頂きたく」
彼は自分のためではなく、将軍の依頼とはいえ手にかけることになった覚慶のために経を唱え続けた。
炎は三日三晩消えず、その焼け跡には2人の遺体が横たわっていた。
足利義輝という人物は間違いなく優秀だったと思います。だからこそ、元服前後に義龍・信長という強烈な個性と才覚を示す人間が現れていれば大きな影響を受けていただろうと思います。
将軍でありながら独自の武力を持たず、将軍でありながら独自の財源も持たず、将軍でありながら己の治める土地もない。
そんな中で色々な現状を自覚すれば、無力感に囚われるのではないかというのが本作の足利義輝です。
ただし、彼はそれでも自分の為さんとすることを見定めてやりました。それは『足利の時代を終わらせること』。
人物造形では藤崎竜先生の漫画『封神演義』の王天君をモデルにしております。負けることが彼の望み。対立陣営のちぐはぐな諸々に、少しずつ義輝は関与しています。
そのあたりは次話以降に。




