花火花
君との関係は、ぼくの一目惚れではじまった。
街角で花のようにたたずんでいた君の姿を見つけたぼくは、居ても立ってもいられなくなり、たまたま手に持っていたコンビニのビニール袋(カップラーメン、ゼリー、エナジードリンク)を君に向かって投げつけた。出し抜けに投げつけられたというのに、君はビニール袋を宙でわしづかみにし、そのなかからゼリーだけを抜き去ってぼくに投げ返した。あまりの出来事にぼくはビニール袋(カップラーメン、エナジードリンク)を取り損ねて落としてしまう。地面に散らばるカップラーメンとエナジードリンクを拾うことも忘れ、ゼリー片手に立ち去る君を見送った。
その日からぼくは君のこと、あとゼリーのことを忘れることができなくなった。街中を走り回って探したが、君もゼリーもどこにも見つからない。コンビニにもスーパーマーケットにも、驚くことにゼリー専門店にも、君はいないしゼリーはないのだ。
もう君もゼリーも諦め、帰宅して部屋の掃除をしていたところ、本棚の隅で空になったゼリーの容器を持った君をみつけたのだ。ようやく再会できた喜びでぼくは手に持っていた夢十夜を君に投げつけた。唐突に投げつけられたというのに、君は夢十夜を宙でわしづかみにし、そのなかから第一夜だけを切り取ってぼくに投げ返した。一番好きな夜を取られたショックでぼくは発熱し、風邪をひいてしまったのでまた君を見失った。
不良好な視界を見据え、その先にある不鮮明な将来と対峙しながら、病院に向かったぼくは、医師から下された「ああこれは独善的な恋ですね」の診断と、その病に効く薬を持って道を歩いていたところ、電信柱の陰に君の姿が見えたので、すかさず手に持っていた薬を投げつけた。君は読み散らかした第一夜で薬を打ちはらい、にこりとも、にやりとも、つかない笑みを浮かべて路地へとかけていった。ぼくは溝に転がり落ちた薬を拾おうか迷ったが、病魔に侵されるよりも、このまま君を見失ってしまう方がこわかったので慌てて後を追った。
路地を走る君の背中はとても近くに見えた。少し手を伸ばせば簡単にその肩に触れ、君を止めることができるような気がした。でも、いくら手を伸ばしても君には決して届かず、ぼくと君との間にある曖昧なゼリーのようなものに触れるばかりだった。
だからぼくは君にあらゆるものを投げつけ、颯爽と前を行く君を引き止めようと試みた。庭先に置かれた植木鉢を通りざまにつかみ君に投げる。君は後ろを振り向きもせずに踵で蹴り砕く。車庫の手前に転がっていたペットボトルを走り抜けながら拾い上げ君に投げる。君は曲がり角を曲がるついでにキャッチして道端にあったゴミ箱にそれを捨てる。ポストの上に乗っかっていた牛乳瓶を投げる。君に届かず地面で砕ける。散らばったガラス片が君のふくらはぎに目視できないほど小さな傷をつける。そこから真紅の血が一筋だけ垂れる。その誘惑的な色合いを見て鼓動が高鳴る。小さな太陽を収めたかのように胸が熱くなり、その熱は膨縮を小刻みに繰り返しながら脈伝いに体内をめぐる。血管を流れる血液は煮えたぎり、ふき出した汗で肌が焼けただれる。外気との温度差で体力は瞬時に尽き果て、こぼれ出るとぎれとぎれの息で、咽喉に水ぶくれができ、舌は干乾び、ぐちゃぐちゃにただれたくちびるから滲み出す粘液と付随する痛みを堪えながら、ぼくは言葉を絞り出し、それを君に投げかけた。
まるで火花のよう 瞬間で散った花の夢
まるで花のよう 百年間咲いた火花の夢
そのどちらも選べずにいるならば
自らの熱で枯れ燃えてしまえ
口にした言葉に火がついて、それは大気をにじにじ焼きながら君に向かって飛んでいく。君は背後から一直線に迫りくる火球をものともせずに塀をひょいと乗り越えてしまった。目標を見失った火球は塀に衝突し、閃光放ち打ち砕け、辺りに幾百の火の粉散る。その多く路面焦がして燃えて去り、いくつかが路傍の雑草に飛び火して燃え続ける。火はエナメルに輝き、青々とした葉の表層を貪り喰って命脈奪い、黒炭になるまで喰らい尽くすと新たな糧を求めて舌を伸ばし、近隣の草へと燃え移る。
路側帯と並行するようにして伸長していく火は、植物から得た栄養で少しずつ身を肥大させる。膨らむ身体で傲慢に大気を取り込み、強欲な熱で焼灼していくが、その欲望強さは実直な十字路の反感を買い、それ以上の進行を困難にさせる。しかし窮地こそ次なる想への機になり得ると、火粉飛ばして遠方まで自ら運ぶ。
空に散り散り舞う火粉、向こう見ずの風とともに思い思いに離散する。あるものはブロック塀の隙間に根差した苔、またあるものはゴミ捨て場に累積した雑誌、電信柱に張られたビラ、電線を綱渡ってさらに遠くへ移動する、慎ましく身支度を整えた老女の袖、やつれた青年が穿いたジーンズの穴縁、女子大生が片時も離さないスマートフォンのストラップ、離職を告げられずにいる初老男性のネクタイの最先端、追い求めたアイドルの恋愛に研ぐナイフの刃こぼれ、下ばかり見て歩く子どもの視線のさらに先にある不透明な輝き、それぞれが新たなる場所で身を燃やしてひろがっていった。
その拡大を過去として振り返れば瞬く間、現状として認知すれば燃え寄る様は百年の時、いずれにせよ、街は一瞬で燃え、百年燃え続けた。
二六年間暮らした家は一分で燃え果てた。そこにあった書籍の山は三〇秒で燃え、無意味な文字がつづられた紙の束はさらに早く燃え去った。部屋を満たす火炎と黒煙を淡々と眺めながら、想いが強いものほど早く燃えることを知り、自分の身体がなかなか燃えない理由をやっと理解して、ようやくぼくは腰を上げ、窓から身を乗り出して屋根へとよじのぼる。
そこでなにかしようと思ったのか、なにか探そうとしたのかも思い出せない不確かな自己意思に対して、眺望する街で燃え盛る炎は毅然とし、泥濘を押しひろげて花開く紅蓮のように明確な状態へと向かっていた。
強固な意志を示して街を焼却する様を、一時は粗雑で無骨な解体のように感じていたが、数時間経って瞳から余分な潤いが抜け去ると、それは建造物の骨子を慎重に紐解く緻密な作業の連続であり、幾千幾億もの繊細な工程の積み重ねであると知る。一度知ってしまうと、無駄を限りなく排除した燃焼は絶対的な事象で、まるですべての物質は燃えるためだけにそこに配置されているという思いをよぎらせ、規則性を欠いた街の情景も、整然と羅列された暗示へと変異した。
晴天を 突き上げる
蝋燭のような 給水塔 ゆれ
小さな影法師たちの
かくれんぼ
弛んだ電線から溶け出した
稲妻のとどろき
隣人との気まずいあいさつ
蚊柱 さかのぼる 火柱 螺旋
黒い木葉の風 ふぶき
折れた松葉杖で徘徊する老人
瓦解した団地の積み上がった骨片をまさぐる
焼死体の家族団欒
くすぶり続けるかげろうの透明な羽
散る花から
散る泡沫の
火花
一様に炎にくべられて、立ち昇る黒煙ですら洗練された形状で、上空で吹き荒れる熱風で大気に紛れる揺らぎも、厳密に規定された理のように粛然と世界へ同化する。
いつまでも燃え尽きることのできないぼくだけが、世界から取り残されていた。乾燥した眼球では泣くこともできず、少しでも早く燃えようと、小さな火が燃え移った人さし指で地平線を左から右になぞる。
摩擦で指先の皮膚が裂け、その裂傷に染み入った火が青い果実の皮をむく加減で肌を一枚一枚焼き落としていき、その下にある骨肉へと至ると豹変し、熱の刃で痛めつけるように鈍重に抉り出す。
傷口からあふれ出した悪臭がぼくなのか。
ぐじぐじと耳障りな焼け音もぼくなのか。
脳へ去来する不快な感情すらもぼくであるのなら、なんと不要な物体だ。
燃えてしまえばいい。燃え尽きてしまえばなおいい。想いが重なれば重なるほど、ぼくの燃焼は早まる。対照的にぼくは悠然とした意識につつまれる。まるで大草原で空を仰ぐような平穏な心地に浸りながら、燃えている街の上空を見上げる。空は地上の火炎に焦がされて赤黒く夕焼け、皮膚病のようないびつな黒ずみを不均一に散らせて夜空となった。
浮かぶ星々も瞑目して黙とうし、まぶたから僅かにもれた光だけが淡く輝く。感傷的な彼らが眼下で燃える街に胸を打たれて物語など語り出さぬよう厳重に監視する。物語ることのできない星たちは、蓄積する一方の感情に身もだえするかのように微動し、まばゆい光を拡散させて他の星と交信する。輝きのみの交流は、さぞかし綺麗で心地よいことだろう。でもぼくは、そんな輝きにこめられている感情など理解したくもないから、夜空から視線を下げて燃える街を見る。そこに理想などなく、あるのはただ、破壊的で破滅的で、でもとても、狂おしいほど美しい暴力だ。
ぼくはその光景を百年間見続けた。百年と一日目に、まるですべてが夢だったかのように街から火が消え、火が消えたそこにはもう街はなく、堆積した灰が絨毯のように地平線の果てまで、ひろがっているだけだった。
ぼくは消えてしまったもののことを思い出そうとした。しかし、なにも思い出せなかった。それでも執念深く、記憶のなかを探すことで、それは芽吹きとして目前の灰からあらわれた。
これが探していたものだろうか。ぼくの期待を一身に引き受けた芽は、着実に茎を伸ばしていき、ぼくの鼻先まで来るとふっくらとした蕾を生み出し、それは一周の輪となり紅い花を咲かせた。
その鮮やかな色彩にひかれて、どこかから虫が飛んでくる。虫は躊躇うかのように花の周囲を旋回し、やがて決意を固め、そっと花弁に止まった。そして一瞬にして燃えて黒い屑になり、そよ風に浚われていった。
ぼくはそれを羨望の眼差しで見送り、周囲にただよう焦燥もろとも大きく息を吸って胸にとどめ、それを花に押し付けるようにして地に倒れ伏す。
鋭い痛みが胸を貫き、痛みは次第に熱を帯びる。熱はぼくを身体から引きずり出して、空高く突き上がる。
まぶたが細かく痙攣し、下まぶたと打ち合わさり、ちかちかと火花が散る。瞬いては消え、また瞬いては消えるその花を、ひとつ、ふたつと勘定する。そうすることで消えてしまう花を明瞭なかたちで記憶する。いつしか記憶は花にまみれ、広大な花畑となってぼくに残る。ぼくの背丈をゆうにこえる花畑は、視野の隅々まで埋め尽くす。厚ぼったい花弁や滑らかな葉、しなやかな茎に身体を絡め取られたぼくは、身動きがとれないまま、呼吸と想像だけで生きていく。
花弁どうしの擦れる、さらさらの音がそこら中でひびき渡る。耳を澄ませてその一音一音を味わう。どれも美しい音色で、なつかしくて聴き入っていると、草葉をかき分け、こちらへと近付いている物音に気付く。迷いなくこちらへと接近してくるものをぼくは待ち構える。
草陰から現れたのは君だった。
ぼくと目が合うと邪気のない笑みを浮かべ、こちらへとまっすぐ歩み寄り、ぼくに絡みついた茎や草花を白い手で取り払う。そして、目眩んでしまう真紅のくちびるをぼくに寄せ、まるで炎のように食んでいく。
花びらのような歯列に挟まれ
熱い舌になぶられ
蜜よりも甘い唾液に混ぜ合わされ
まるで君に焼きつくされ
ようやくぼくは
君を引き止められたような気がしたんだ。
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