010「人の恋事」
「人の恋事」
・・・プールの縁から眺められる場所、水から出て少し歩けば手の届く距離・・・
私は水の中で膝を抱えて座り、アクリル硝子越しに2段ベットを眺めます。
今は無人のベット、夜の何時もの寝る時間になれば
下の段に重たくて大きいアブサン、細身で軽いお兄ちゃんは上の段で寝ているのです。
・・・日は沈んで真っ暗な部屋の中、桜は一人溜息を吐く・・・
深夜にならないと、お兄ちゃんとアブサンは帰ってきません
まだ未成年の私は、夜遅い時間に外に出る事は許されず、御迎えに行く事も出来なくて
携帯電話さえ持っていない、持たせて貰っていないので
只、只管、待つ事しかできないのです。
・・・桜は昼間の事を思い出しては、悔しくて涙を零し声を殺して泣いていた。・・・
私は腹立たしいのです。そして、妬ましいのです。
・・・水の中から出る事の出来ない桜から見た、視界の先・・・
お兄ちゃんとアブサンの周囲には、何時も見知らぬ女達が群がっているのです。
・・・嘲うかの様に、自慢するかの様に、女達は微笑む・・・
その位置は嘗て、私が居た場所なのです。
「妹」と言う「特権と免罪符」で守られた、私の為の場所だったのです。
・・・桜は誰にも聴いて貰える事の無い呟きを零した。・・・
桜が楽しみにしている毎週土曜日の夜
週1回だけ、故春とアブサンに夜更かしを許され
その上で故春とアブサンに、日常であった事を話して聞かせて貰える日
桜と故春とアブサンが
このマーフォーク家族同居可能物件に越してきて初めての
何時もとは違う、賑やかな御帰宅が為された
桜の思いを知ってか?知らずに…なのか?
夜遅く、メビナを連れた故春とアブサンが帰宅したのだった。
『おかえりなさい…』
水の中に居た桜は水から顔を出し
女性の姿を確認して、少し不機嫌そうに出迎える
故春とアブサンは泥酔したメビナを引き摺りながら『ただいま』とだけ言って
アブサンが、念の為に洗面器を取りに走り
故春が露出の高い服装のメビナに絡まれつつ、自分のベットにメビナを寝かせる
桜は『私だって、お兄ちゃんのベットで寝た事無いのに!』と
水の中で呟き、ブクブクと気泡を立てていた。
アブサンが冷蔵庫から、冷えた硝子のコップと冷たい水を出して来て
故春が、メビナに水を飲ませている
メビナがうわ言の様に
『私を紹介できない友達と遊びに行くから』『帰りが遅くなったから』
『私からの電話に出なかったから』『私の前では、携帯に出ないから』
『出る時は、トイレに持って行ったり…怪しい行動を取るから』と
色々こじ付けの様な説明をして
『だぁ~りんが、浮気してるかもなのぉ~』と繰返す
故春とアブサンが、大きく溜息を吐きながら
『確定していない内は、信じてやれよ』
明らかに、見るからに、面倒臭そうに対応している
最初『御隣なんだから、帰って欲しいです!』
『弱った振りしてお兄ちゃんに甘えるなんて卑怯です!』と
憤慨していた桜も・・・
故春とアブサンの対応と、メビナの様子を見て思い直し
『何かあったんですか?私に手伝える事はありますか?』
静かに声を掛けた。
『ん?じゃあ、メビナの服を脱が…』
アブサンがそう言い掛けた所で、故春がアブサンの後頭部を叩き
『さなくていい』と、故春が言葉を続ける
アブサンは『服がシワになったら、メビナが後で煩そうだと思わないか?
女の子に脱がして貰って、服を干しといた方が良いだろ?』と、言い
故春は『多少でも、一瞬でも、誤解されたら美味しくないから駄目』と、言う
桜はコントの様な出来事に一瞬、言葉を失い…
真剣に『他人様の恋人に誤解される様な事は避けるべきだ』と主張する
故春の「堅苦しい考え」に安心して、クスクス笑った。
更に夜も更け、故春とアブサンが風呂を済ませて
週末御決り談話会が、桜の居るプールサイドで行われる
普段から、1週間の疲れが蓄積している週1回だけの談話会
故春とアブサンは、応接セットのソファーに身を沈める
少し飲んで帰った2人は、何時もより眠そうで
桜は何時もと同じ様に、話せて嬉しいけれども悲しくなった。
暫くして・・・
故春が寝落ちし、アブサンが高い位置に有る自分のベットへと
故春を担いで運び、寝かせて戻って来て
『悪い…俺も限界の様だ』
倒れ込む様にして、ソファーで眠ってしまう
桜は水から出て、アブサンに手近にあった毛布を掛け
柱に配置されたリモコンで電気を消し、出来るだけ静かに水の中に戻って
目を閉じ、夜明けを待った。
午前10時過ぎ・・・
どう考えても朝帰りしたのであろう「隣りの住人」メビナの同棲相手の男性
桜のカードキーに印刷された写真を撮影した、メビナの彼氏の「フレルト」が
『すみません、御迷惑を掛けております』
女の子が好きそうな、可愛らしい包装紙に包まれた菓子折りを持ってやって来る
持ち込まれた菓子折りの商品は、コンビニの物ではなく
百貨店等の高そうな商品ではあったが…このマンションの立地的に考えて
彼が今日、何処の辺から遠征して帰ってきたか…が気になる所であった。
桜は、無遠慮にフレルトを見て
初めて出会った時の物静かな、薄い印象との違いに驚き
『実は、双子とかで…偽物の方が来てる、何て事は無いでしょうか?』
故春に小さく耳打ちして、故春を苦笑いさせる
そして、故春とアブサンは・・・
まだ「眠っているメビナ」と「事情を知らない桜」を残し、フレルトを連れて
『直ぐ、戻るから…』と、玄関の外へと出て行ってしまった。
桜は3人の不審な行動が、どうしても気になってしまい
黙って目を閉じて、集中して耳を澄ませる
マーフォークとしての聴力の御蔭で、微かに聞える3人の話声…
一際、大きい声を桜は聴き取ってしまう
聴いてはイケナカッタ事を聴いてしまった桜は、ショックを受け息を飲み込み
聴き取った言葉を声に出さずに反芻して
不安そうに、悲しく辛そうに…まだ、眠っているメビナを見詰める。
桜はついつい、もしも自分が同じ事をされたら…と、想像してしまい
怖くなって少しの間、プールの底へと避難する事にする
桜は連絡用の小さなホワイトボードに
「少し眠いので、ちょっとだけお昼寝をします。」と書いて、水中に戻る
正直に今、フレルトと仲良くする気にはなれなかった
それに、そんなフレルトと仲良くする
故春とアブサンに対して、嫌味を言ってしまいそうで怖くて
プールの底で膝を抱えて蹲る。