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第一巻・第二章-03

 佐川ゆうか、19歳。

 私立明京大学文学部文学科に通う女子学生で、俺たちの母校である県立白石高校の卒業生である。

 高校時代、彼女は文芸部に所属していた。読書を愛するもの静かで清楚な女性だったと、少なくとも俺は記憶している。美人、だったかもしれない。しかしあか抜けた様子もなく、いっしょにいて楽しい異性という印象はまったく受けなかった。正直に言ってしまえば、深い関係になったのでもなければ記憶に残るような人物ではなかったように思う。

 目立つようなこともない、どこにでもいる本好きな女性。彼女についての特徴といえるものをすべて集約してしまえば、つまりはそれだけの人間だった。それならばこそ、如何に俺が新聞部に所属する人間として他の人よりも多くの生徒のことを記憶しているとしても、わざわざそんな”面白くもない”卒業生に対して記憶の容積を割くようなことはありえないだろう。

 それならば、彼女が俺の記憶の中に残っている——もっと言ってしまえば、むしろ忘れることが出来ず焼き付けられている——のかと言えば、彼女は在学中にたった一度だけどんな生徒よりも人目を惹いたことがあったからである。それは、俺にとってみれば青天の霹靂のようなものだった。ゴシップライターが追いかけるのは、叩けば面白くなりそうな人間以外にはいないわけだから、そんな”面白くもない”先輩を意識することすらしていなかったわけなのだから。

 勉強でも運動でも、人より秀でたところはない。言い方は悪いかもしれないが、凡百な人間でしかないはずの彼女がどうしてそのように鮮烈な記憶として焼き付くことができるかと言えば、察しの良い人間ならば詳しくは知らずともおのずと答えを絞り込むことはできるだろう。

 彼女はあの瞬間——少なくともあの瞬間だけは、どんな人間よりも人目を引いた。彼女のことを何も知らない人間であっても、その噂だけは聞き及んでいたに違いあるまい。間違いなく、あのとき彼女は在校生全ての注目の的だった、他でもない俺がそうなるように仕向けたのだから。俺がゴシップライターとしての本能に従って嗅ぎ付けたネタを、その本性に則って書き立てた。だからこそ彼女は注目の的になりえた、いや、なってしまったと言った方がここでは——彼女の立場に立って考えるならば、適切なのかもしれないが。

 当然だが、目立つと言っても、良い目立ち方ではなかった。どちらかといえば悪評に近く、だからこそ俺のようなゴシップライターの目に留まった。つまり、有り体に言ってしまえば、大変な事件があったのである。


…………


 人間というものは、本来的に破滅というものを求めていると、少なくとも俺は思っている。

「ささら、ほら、ささら、寝てはいけません、起きるのですよ」

 しかしそれは、自らを含め身近な人間のそれではない。俺は同時に、そうも思っている。

「ん〜…、それはいったいどうしてなのですか、すみれちゃん…、ささらはもう起きていられないのですよ……」

 本質的に破滅というものは醜悪なものだ。そもそもからして目にして心地よいものではありえないし、滅び行くものの足掻きほど見ていて胸が悪くなるものもそうありはしないだろう。

「どうしてと言われましても、それはこれから報告会が行なわれるからに決まっているのでございますよ。昨日メールを送ったではありませんか、見てはいないのでございますか?」

 しかし、人間はむしろそうしたものに惹かれるものだ。見たくないもの、見てはならないもの、知るべきではないこと、知ってはいけないこと。そうしたものをこそ知覚したい、認知したいと思う性質が人間という生物にはあるのだ。

「ささらの携帯電話さんは…、今はきっとどこか暗いところでお休みしているのです……」

 だから、人の不幸は蜜の味なんていうのは嘘っぱちだ。人の不幸は、言ってしまえば珍味のようなもので、別においしくはないけど一度食べてしまえば癖になるようなものなのだ。だから誰もがどこかで求めていて、誰もがどこかで敬遠しているものなのだ。

「また失くしてしまったのでございますか? いけませんよ、連絡を取れなくなってしまっては、親御さんもご心配なさるでしょうに」

 だが、破滅というものは、同時に人を選ぶものでもある。誰もが簡単に摂取することが出来るものではなく、不用意に触れてはひどく胸を悪くすることだろう。当然だ、破滅するということは、一人の人間の蓄積した歴史が終焉を迎えるということなのだから。

「あ、ダメ、ダメです…、ささらはもう眠さに勝てそうもありません…、ごめんなさい、すみれちゃん……」

 だから他人の破滅に直接触れるということは、つまりは純度百パーセントの不幸の原液を飲み下すようなものだと言わざるを得ない。そんなことをしたい人間は、そもそもからして居はしない。誰だってそんな苦しいことをしたいとは思うまい。

「がんばってくださいませ、ささら! 眠っては、眠ってはなりませんのですよ!」

 そしてだからこそ、俺のような人間がいる。他人の不幸、他人の破滅をゴシップとして薄めて、脚色して薄めて、原液から比べればずいぶんと飲みやすいものにするのが本来的な俺の役割だ。普通だったら誰も触れたくないような失敗、不幸、破滅に、自分から進んで触りにいっては薄めて薄めて薄めて、誰でも楽しく愉快に飲み下せる何かよく分からないエンターテイメントにしてしまうのが、つまりは俺の本分だ。

 誰もがテレビでも観るかのように、誰もが新聞でも読むかのように、それなりに身近な人間の不幸でも一笑に伏して飲み下せるようにする。不用意に触れるべきではないそれを、そんな『愉快なもの』にしてしまうのが俺の有り様で、ゴシップライターという人間の生態なのだ。

「先輩、すみません、ささらが眠ってしまいました。もうしわけございません」

 それが何を引き起こすかは知っている。それが何を巻き起こすかは知っている。どんな人間でも、そんなことをすればある程度以上に『大変なこと』が起こるということは容易に想像し、理解することが出来るだろう。そして俺は、それを明確な一つの事実として、一つの明白な経験知としてよくよく理解している。

 その危険、その倒錯、その愉悦、その歓喜。俺はある意味で、その『大変なこと』についてのあらゆることをもはや知り尽くしていた。だからいつでもそれから手を引くことを考えていて、そして同時にそれから身を引くことなどもはや出来ようもないのだということを考えていた。

 それは、何より俺が、俺という人間が、他人の破滅という不穏な甘露を浴び過ぎてしまったからだろう。もはやそこから脱することは出来ず、永劫それに浴し続けなければ生きているという実感を得ることすら出来ないに違いない。だから俺は、どこか歪んでいて、真っ当に生を全うすることのできない人間なのかもしれないと、最近はどこか絶望にも似た感覚として己を理解することがほとんどだ。

「なんだ、コントはもう終わりか」

 畢竟、ゴシップライターはジャンキーの集まりのようなものだ。もはや普通のニュースを書くことすらもできない、記者とも言うことの出来ないような頭のイカれた連中なのだ。そしてそれを狂わせたのが、破滅という劇薬なのだ。

 他人の破滅に集り、それを弄び、嘲笑い、食い物にする人間が、どうしてまともな人間だろうか。破滅という濃厚すぎる蜜を啜り過ぎたのだ、常人が薄めて薄めて飲むようなそれを浴び過ぎたのだ。その中毒者となっていて、いったい何の違和感があるだろうか。

 人間というものは、本来的に破滅を求めている。しかしそれは、自らを含め身近な人間のそれではない。

 俺は、ゴシップライターという存在こそがその証明であり、そしてその反証であると、そう考えている。

「もうちょい観ていたかったんだけどなぁ」

 デスクに向かいながら、俺はちらりと数寄屋すみれに目を遣った。今日も今日とて仮眠用ベッドに横になっている芹ささらと、それをゆさゆさと揺すりながら眉根を下げている数寄屋すみれの戦いは、おそらく今日もこれでお仕舞となるだろう。基本的に芹ささらという生物は、一度眠りについてしまえば数時間目を覚ますことはなく、今日もこのまま俺たちが帰る時間まで——下手をすれば帰る時間になってもなお目を覚ますことは無いだろう。

 だからそうして起こそうと努力すること自体が、もはやナンセンスなのかもしれない。起きないものは起きないのだ、俺にとってそこに努力を割くことはどこか無駄なように思えてならないのだ。もちろん、眠り姫にいろいろな経験を積ませてやりたいと思う気持ちは、あるにはあるのだが。

「先輩、私は決してお遊びでささらを起こそうとしているのではないのでございます。この案件はやはり新聞部全体の問題なのですから、そこにはやはり新聞部一同が一致団結して取り組むべきだと思っているのでございますよ」

 線の細い眼鏡のフレームをかちりと上げ、困ったように下がっていた眉根をキッと上げ、すみれは大真面目な顔でそう俺に宣言する。案外こういうところで、部活への熱というか、集団活動への意欲というか、そういうのが強い娘なのだ、数寄屋すみれという少女は。

「まぁ、ささらが起きないのはいつものことだ。あんまり無理して起こさなくてもいいぞ」

 欠伸をしながら、俺はすみれの言葉を適当に受け流す。いつものことなのだ、そんなことで目くじらを立てる意味がどこにあるというのだろうか。

「そんなことより、取材報告頼むぜ、担当殿?」

 話をしながらも、俺はパチパチとキーボードを撃って記事の校正を進めていく。印刷〆切は数日先に迫っているのだ、そうそう手を止めている余裕もありはしないのだ。

 有能な取材屋である数寄屋すみれから生徒会長からの依頼に関する取材報告を初めて受けたのは、つい一昨日のことでしかない。俺としてみればその取材に手を割くことは無駄だと考えているわけで、すみれにはそれ以外に取り組んでほしい取材があって、依頼の件に関してはあまり入れ込んでほしくないというのが正直なところだったりもする。

「はい、先輩、先日と本日を用い、生徒会長氏にお話を伺って参りました」

「ほう、マックに。あいつ、まだなんか隠してることでもあったのか、くそったれめ」

 画面からは目を離さず、手を止めることもなく、俺は少しだけ思考のリソースをすみれの話を聞くことに割く。いったいあの野郎が何を隠していたかは知らないが、すみれの手に掛かればすべて丸裸にされたことだろうざまぁみやがれ。

「少しだけ、新しい情報を得ることが出来ましたのでご報告致します」

 スクールバッグから手帳を取り出しながら、すみれはそう言った。文字数を減らして増やして、文体を整えて言葉を足して引いて。記事の体裁を整えながら、俺はぼんやりと思考を走らせる。

「件の女性、佐川ゆうかから、生徒会長氏は手紙を受けとっていたそうでございます」

「は? それ、マジかよ」

 ついに悪の総本山、エリック・マクダウェルも年貢の収め時ということか。よもやそんな重要な情報の伝達を怠るとは、どうしたというのだ生徒会長よ。

「その手紙を生徒会長氏は、佐川氏の推定失踪日の翌日に受けとったのだそうでございます。つまるところ、佐川氏の遺した最後の言葉ということになるのでございましょうか」

 長々と数寄屋すみれの提示した手紙の内容は、大枠で言って四点に集約された。『警察に伝えないでほしい』、『親には伝えてある』、『死んだことにしてもらって構わない』、『君だけには伝えたかった』。この四点が、つまりはすみれが全文読み上げた彼女からの手紙の一部始終にちがいない。

 そして俺は、その手紙の全文に耳を傾けながら、一つの明確な確信を持つに至った。それはひどく単純な事実であり、言葉にしてしまえば簡単なことでしかなかった。つまり、佐川ゆうかという女は、身の回りのあらゆる全てを捨てて逃亡したのだということだ。

「先輩、数点伺いたいことがあるのでございますが、よろしいでしょうか?」

「あぁ、俺に分かることなら、なんなりと」

 分かり切っていたこととはいえ、ここまで明確で決定的なものが提示されたとなると、これはもうほぼ間違いなく確定と言っていいだろう。だいたいそもそも、これから拉致されたり殺されたりしそうになっている人間が、こんな手紙を悠長に書いている余裕があるだろうか。

 いったい彼女に何があったのかは分からない、どのような問題が発生したのかは分からない。しかし一つだけ確かなことは、彼女はここではないどこかに向かって、ここにあるものを全て置いて去っていったということ。たった一人で夜逃げしたのか、男と連れ立って恋の逃避行でも決め込んだのか、とにかくどこかへ行ってしまった。

 だから、彼女はどこかで生きている。ここではないどこかで、清々した顔で息を吐いていることだろう。学校か、家族か、金か、男か、女か。事ここに至っては、そのいずれが彼女を彼方へと追いやったのかということ以外に感心をそそるものはないし、そもそも俺はそんなことに興味などありはしない。

「生徒会長様と件の女性とは、いったいどのようなご関係でいらっしゃったのでしょうか」

 嗚呼、なんと無駄な取材だったか。文字通り時間の無駄で、労力を割いたこと自体に後悔するような非道い案件であった。分かり切ったことだが依頼だからと割り切って取材をさせたが、驚愕するほどの無体な結末だ。こんな結末を導くとは、本当にあの悪魔も年貢の収め時ということなのかもしれない。

 なぜよりにもよって、依頼主たるあの男の手の内から決定的な証拠が提示されるというのか。それならば一番初めに、それを前提として提示すれば良いだけの話ではないか、そんな手抜かりをするのは奴らしくないとすら思ってしまう。

「たとえば、懇意にしてらっしゃったとか、過去に恋人関係でいらっしゃったとか」

「それは、少なくとも、俺は聞いたことはないな。そもそもマックはほとんど個人的な情報を公開しないんだよ」

 というか、失踪の翌日に受けとったってことは、俺たちに依頼するよりも前にその手紙を保有していたということだ。なんだあいつ、彼女からの手紙なんてもんを持ってるってのに、最後のカードを切ってまで俺たちに依頼してきたっていうことなのか。いったいなんだってそんなことをしてきたんだ、あいつは。

 依頼するまでもないだろう、そんなこと。馬鹿でも分かることだ、それが奴に分からないわけがない。それともなんだ、そこまで含めて俺たちへの嫌がらせってことなのか。しかし奴は、自分が醜態を晒すことを嫌う。だから、いくら仲良しの俺が相手だとしても、本来的にそんなことをするとは考えられない。

「それに、あの性悪に彼女なんていてたまるか」

「しかし生徒会長様は、多くの女子の支持を集めていると聞きます」

 それじゃあ、やはり、この依頼には何か意図があるというのだろうか。ただの嫌がらせで奴が自らを貶めるなんてことをするはずがないのは、奴の性格から見てもこれまでの様子から見ても、どうしようもなく明らかだ。

 それならば、そこにある意図とは何だ。また、根本が見えなくなった。なぜこんなことを調べさせようとしている。お前は彼女からの手紙を受けとった張本人だろう。お前こそが真実を知っていて然るべきではないのか。

 お前は何を知っていて、何を知らなくて、何を知ろうとしていて、何を知らずにやり過ごそうとしているんだ。エリック・マクダウェル、人を使おうというならば、それくらいは提示して然るべきだとは思わないのか、お前さんは。

「百歩譲ってあいつに彼女がいるってんなら、俺には十人ぐらい側室がいないとおかしい計算になるぞ、ミレー」

「先輩、それは計算がおかしいのでございますよ。大丈夫、先輩には私とささらが居りますよ」

 分からないから知りたい。よく見えないから見たい。そういう意図で依頼してきたものだと、俺はすっかり思い込んでいた。しかしどうやらこれは、そういった類いの問題ではないらしいということが、残念ながら見えてきてしまった。

 俺は奴に借りがある。だから奴からの依頼を断ることはできない。だがしかし、だからといって奴に命令されるまま目を瞑ったままで崖の縁を全力疾走することが出来るほど、俺は奴に対して従順というわけではなかった。

「私とささらが、後輩として友人として、いっしょに居ります故」

「恋人にはなってくれないのな、別になってくれなくていいんだけど」

 今一度、奴を問いつめる必要があるかもしれない。いったい俺たちに何をさせようとしていて、いったい俺たちに何を望んでいるのか。そんな根本的なことすら開示せずに、俺たち新聞部を動かすことができると思ったら大間違いなのだ。


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