第一巻・第二章-01
すやすやと、静かな寝息が聞こえる。
生徒会室から部室に戻った俺たちを待っていたのは、いつもと変わらない穏やかな空気だった。
「しかしながら、」俺の後ろについて口も開かずにいた数寄屋すみれは、生徒会長の前で緊張していたのだろう、部室に帰り着くや否や口を開いた。
「どうなのでございましょうか、このたびの依頼というものは」
「どうって言われてもな」
今回のマックの依頼、それは表面上俺たちにとって慣れ親しんだものだった。
「卒業生、OGの失踪って言われてもなぁ…、んなもん家出かなにかに決まってんだろ」
生徒会長から俺たちに下された捜査命令。二年前に卒業した女子生徒——今は大学に進学しているはずだから大学二年生のはずだ——が失踪したからどこに行ったのかを調べろ。難しそうに聞こえるだろうが、その実分かり易く簡素な事案だった。
「二年前に卒業したということは、その方が在籍していらっしゃったのは私たち一年生が入学する前のことでございますね。先輩は、その方のことをご存知でいらっしゃるのでございますか?」
「…、まぁ、いちおう」
「…、先輩?」
後輩記者は、背負っていた不安が解消されたのだろう、晴れやかな口調で捜査の第一歩を踏み出そうとしていた。そうだ、すみれにとってみれば”あの”名前はただの名前に過ぎない。聞いたこともない名前が出てきたというだけで、いったい何を彼女が感じることがあるだろうか。
だから、当然のように、すみれは俺が気を落としている理由を理解することは出来ない。それについて俺が何も説明していない、何も伝達していないのだから、自ずから理解するなんてことが出来るはずがないのだ。
「そうして言葉を濁すなど、らしくないでございますよ。なにか気がかりがおありでございますか?」
俺にとってみれば、生徒会長の口から出てきたその名前は、それなり以上に覚えがあるものだった。
二年前、俺は一年生で、彼女は三年生だった。佐川ゆかり、その名前は俺にとって忘れ難いものであり、ある種俺を縛る因縁だとも言うことが出来た。
いや、もう、なんでもない。『あのこと』は、もう過去だ。もはや取り沙汰されることもない、薄れ行く過去の記憶に他ならない。
ただ、俺が忘れることが出来ないだけの、一つの事実に過ぎないのだ。
「いや、なんでもない。昔ちょっとあってな、新聞部として知ってるってだけだよ。個人的なコネクションはもってない」
もちろんそれは、いつかかわいい後輩たちに伝えなくてはならない話だ。先輩のした愚かな過ちを間違っても繰り返さないように、教訓話にでもするべき出来事に違いはない。
「また今度、教えてやるよ。くだらなくてつまらない話だけどな」
でも今は、それを口に出したくはなかった。どこのだれが好き好んで自分の過去の失態を話したがるものだろうか。俺だってまだ、かわいい後輩たちに立派な先輩だと思われていたいのだ。
実際立派でなくっても、自分では己の愚かさを重々承知していても、でもそれでも、後輩からはよく思われたい。見栄を張りたいのだ、けっきょくはただそれだけのことなのだ。
「それより、問題はどう取材したもんかってことだな。二年前に卒業してんだ、行方の心当たりがあるって人だって、そうそう見つかりそうなもんじゃないぜ」
だから、『あの事件』については、ここで語るべきではないだろう。つまらない見栄で騙ることの許されるような事柄では、決してありえないのだから。然るべきときに、然るべきように、それは語られなくてはならないだろう。
それは、おそらく今ではないのだろう。だから今は、それは記憶の底に仕舞っておくべきなのだ。
「人間は、連なるものでございます故、取材を行なうことは不可能ではございません。少なからず難しくはあるでございましょうが」
「関係者ってなると、同じ大学に進んだ卒業生とかになるのか? 大学には、きっといくらでも友だちなりなんなりはいるだろうけど、急に行って話聞かせてもらえるとも思えんしな」
今は、目の前のものに集中するべきだ。出来もしないことに手を伸ばすよりも、自分にすることのできるものに目を向けなくてはならないのだ。
「とりあえず、動いてみるべきでございます。取材は基本脚で稼ぐものでございますから」
それでは、私は参ります。偉大な後輩殿は、そう言うと何の躊躇もなく立ち上がる。しかし俺はというと、その実まったく立ち上がるつもりはなく、どっかりと自分の椅子に腰を下ろしたまま目の前のコンピューターの電源を入れる。
俺は、取材をしない。いや、しないのではない、することが出来ないと言った方が正確か。
だから取材はもっぱら頼れる後輩殿に任せきりになってしまっている。取材は数寄屋すみれの仕事であり、記事の執筆が俺の仕事だ。記事が書けないすみれと取材が出来ない俺のコンビだ、二人揃って一人前という言葉がここまでしっくりくるのも、なかなかに珍しいだろう。
「俺は、俺に出来ることをするだけだ」
元気よく部室を飛び出して行ったすみれを見送って、俺は少しだけため息を吐いた。しかし、出来ることをするだけというのは、自分で言うのもなんだが、非常に聞こえの良い言葉だ。なんというか、過剰に前向きというか、ポジティブな言葉でネガティブな事実を覆い隠しているだけというか。
本当は、やれることもないし出来ることくらいはやっておくか、くらいの思いしかない。そんな、前向きに取り組みたいと思うようなことは決してないのだ。
だってこれは、過去に売られた恩を笠に着た生徒会長が下した戯れの捜査命令のようなものなのだから。どうして前向きに取り組もうなどと思うことが出来るだろうか。
そもそもからして、結果は見えているのだ。こういう事件はたいてい家出か駆け落ちと相場が決まっている。驚天動地の展開などありはしない。ただ人生に迷った気がしたり、許されぬ恋に生きた気分になりたいだけの女子大生が、軽率に家を飛び出した。ただそれだけのつまらない事件に違いないのだ。
「やるだけはやるけどな」
面白きことも無き世を面白く。そんなことを言った過去の偉人はだれだったか。つまるところ俺のようなゴシップライターに出来ることなんてそれくらいのことだ。
景気のいい電子音を響かせながら、ディスプレイに光が灯る。『ようこそ』軽薄な言葉が画面の中央に踊る。自動で起動された、記事を書くためにオリジナルチューンが施されたエディターの、手つかずのページの白が目に痛い。
結局のところ、目の前のディスプレイの中が俺の全てだった。俺はここから外に出られないし、出たいとも思わない。だから俺は、きっとこれ以上先には進めないんだろう。そもそもからして、取材に出られない人間が記者なんてものを名乗って良いはずがない。
『女子大生失踪 事故と事件の両面から捜査』
ぱちぱちと、何の気無しに見出しを打ち込んだ。しかし、じっと数秒それを見て、一度首を傾げてからカチカチと何度かバックスペースキーを押し込んだ。
『許されぬ恋に生きる女子大生、駆け落ちか!? 出身高校に激震!!』
うん、こっちの方がいい。ゴシップらしくて、ちょうどいいくらいにくだらなくて、ちょうどいいくらいに関心をそそる。適度に真実で、適度に虚構で、その混交具合がいい具合だ。
少しは面白くなるかもしれない。真実なんて、どうせくだらなくてつまらない、通り一遍の結末しか示してくれはしないのだから。