6節 書き換え
杏が次に起きたのは、3日後だ。通常の人間は、どんなに疲れていようが3日間も眠り通すことはないが、杏にとって3日後に目覚めることはかなり早い出来事だった。3日前に大量に摂取した動物の血のお陰だろう。
しかし杏は、目覚めてみて愕然とする。冷蔵庫に入れておいたはずの動物の血が、霖が用意した血が全てなくなっていたのだ。
「血はナマモノだ。腐りやすいから、捨てておいた」
夏来が言うことは一見、真っ当のように聞こえる。
「……私は、血を司るシャドウ・コンダクターよ。たとえ腐ってる血でも私の体内に入れば新鮮なものになる。それくらい、ご存知でしょ」
「ああ……そうだったか。悪い、忘れていた」
杏はあからさまに顔を歪め、夏来の傍から離れる。
「待て、杏。飲むなら動物の血ではなく、俺の血にしておけ」
夏来は杏の腕を掴み、離さない。
「動物よりも人間、人間の中でもシャドウ・コンダクターの血は良く効くんだろう?」
「私は吸血鬼じゃないって言ってるでしょ! もう最低! 出てってよ。霖に戻って来てもらって!」
眠ってばかりではなく、自由に動ける自分がとても嬉しかった。それをどうして、杏の苦しみを知っているはずの夏来がそんなことをするのだ。
「杏。俺たちは5年もの間、一緒に暮らしてきただろう? 来たばかりの男よりも俺を頼りにした方がいい」
「そうね。でもこれからの5年間は気の使い手、口無霖で結構です」
「杏!!」
「?!」
夏来は杏を廊下の冷たい床に押し倒し、乱暴に唇を奪った。暴れようにも、普通の人間すら殺す力の無い杏に、シャドウ・コンダクターの男を相手に抗えるはずがなかった。
杏の口内に夏来の舌が滑り込み、奥へと逃げる杏の舌を絡め取る。
「いや! なにすんのよ!!」
やっと唇を解放され、杏は喚く。
「杏……好きだ、愛してる。ずっと、こうしたかった。ここに派遣されていた5年間、ずっと我慢していた。杏は寝てばかりだからいくらでもチャンスはあったと思うだろ? 違う。派遣は2人だ。もう1人のシャドウ・コンダクターがいたせいで、俺は我慢せざるを得なかった……なのに、どうして俺の後任から派遣は1人になったんだ。口無が憎い……」
「は……?」
「どうだ? 口無とはもう済ませたのか? お前はこんなに綺麗だからな。1つ屋根の下で暮らしていて、口無が我慢出来るはずがない」
「お前……」
夏来の右手が、杏の頬から首筋、更にその下へと移動する。杏は身を強張らせ、誰でもいいから助けてほしいと切に願った。
「ベリアル! 助けて!!」
名を呼ばれたコウモリが、杏の影から飛び出して夏来の顔面を引っ掻く。夏来は思わず顔を両手で覆い、杏はその隙に逃げる。
「この……吸血鬼の下僕如きが!!」
“ぐっ”
ベリアルの翼を掴み、廊下に叩きつける夏来。杏はハッとして走り戻り、夏来からベリアルを奪い返す。
「やめて!」
同じく血が欠乏しているベリアルも本来の力を出せず、夏来には掠り傷を負わせる程度の攻撃しか出来ない。杏はベリアルを抱きかかえ、寝室に逃げ込む。
“杏……すまない。我の力が、もっと強ければ”
「違う。お前のせいじゃない。お前は、私の単なるワガママに付き合わされてるだけなの……」
寝室でガタガタと震える杏。杏たちシャドウ・コンダクターが恐れるべき相手は影人のはずなのに、どうして同族を――しかも組織の仲間を恐れなくてはならないのか。
コツ、コツと近付いてくる夏来の足音。意志とは関係なく悲鳴が漏れる口を押さえ、杏は必死に打開策を考えていた。
(このままでは、あいつのものにされちゃうか、殺されるかだわ……)
コツ。足音が、寝室の扉の前で止まる。杏は、一か八か大声を張り上げる。
「来ないで! その扉を開けるなら、私の血をあんたに飲ませて絶対命令拘束を発動させるわよ! 命令内容は、自害かあるいは謀反を起こして組織に処罰されるか――どちらが良いかしらね!!」
かなり震えた大声だった。これが夏来に通じるかわからないが、杏の血に絶対的命令拘束力があるのは事実だ。
(さぁ、どうなる……?)
杏はベリアルをギュッと抱き締め、異常なくらいに流れる冷や汗を感じていた。
「――杏」
扉の向こうから聞こえるのは、意外にも落ち着いた夏来の声だった。
「お前の気持ちはよく分かったよ。本当は、こんなことしたくないが……気をつけろよ」
「……なにが?」
それっきり、夏来の声は聞こえなくなった。気配で、夏来がこの館にいないのが分かる。杏は拍子抜けしたように寝室から廊下に出て様子を窺う。誰もいない。
「なにを気をつけろっていうの……」
意味がわからない。
“杏。これはまずいことになったぞ”
ベリアルが外を見ろと言う。何気になしに玄関扉を開いた杏の瞳に写ったのは、種々様々な武器を携帯して館へ向かってくる――死刑囚たちの姿であった。その数、約5000。
「…………」
“やりやがった。村人たちの思考を操作し、吸血鬼退治に出向かせるとは”
「…………」
“あの男、女を手に入れられないなら殺してしまえと考える糞野郎だったぞ……何が気をつけろだ!!”
「…………」
杏は静かに扉を閉め、俯いた。
*