4節 世界の真実を語り合う
「おはようございます、杏さん。朝食は、何になさいますか」
居間のテーブルには、ワイングラスに注がれた血が複数、所狭しと並べられていた。杏は目を丸くし、やがてクスクスと笑い出す。
「説明して下さる? 口無霖」
「はい。こちらより、猫の血、犬の血、牛の血、羊の血、ゾウの血、トラの血、ライオンの血……などなど、合計20種類です。ちなみに人間の血は含まれておりません。もちろん、シャドウ・コンダクターの血も」
「この地域がサファリパークになってたなんて、初耳だわ」
「多くは填魁に狩りに行かせました。好都合なことに、貴女は多くの時間を眠っている。だから僕には、時間がたくさんありました」
「ありがとう。でも、血以外の食事もとるのよ、私は」
「ええ、理解しています。杏さんは吸血鬼ではありませんから」
血の臭いで充満した居間からダイニング・ルームへと案内された杏は、一流ホテル並のフルコース料理を見て驚く。
「これ、貴男が作ったの……?!」
「まさか。組織からシェフを派遣して頂いたのです」
「驚いた……そうでしょうね。でないと、貴男はあまりにも完璧すぎちゃうもの」
「……完璧?」
杏は霖に振り返り、にっこり微笑む。
「気の使い手の噂は聞き及んでいます。どんな難関な任務でも1人でやり遂げてしまうと。コンダクターとしての強さからも周囲から一目置かれ、その年齢ですでに組織の上層部からお声が掛かっているとか」
「…………」
「そんなエリートの貴男が、吸血鬼の世話係なんて不本意な任務でしょうけど、それでもこんなに一生懸命尽くして下さってる。賞賛に値するわ。組織にはそう報告しておきます」
「止めて下さい」
「ん?」
「僕は、ただ……」
言いかけたところで、遠くから感じる鋭い気配に霖と杏は同時に同じ方角を見る。
「気付いた?」
「ええ、また影人のようです。すぐに片付けてきますよ」
霖は洋館を飛び出し、影の気配を感じる村の裏口へと走った。
“なーんか、褒められちゃったわねぇ”
「…………」
“うふふ、霖様は、そんなに褒められた人間ではないわよねぇ”
「…………」
“何故なら”
村の裏口には、ヒューマン型から始まり、スパイダー型やコンドル型、種々様々な形態に変貌した影人が集結していた。
“霖様は、組織を裏切ってるもの――”
「おかえりなさい」
返り血をいっぱいに浴びた霖の帰宅に、杏は目を凛々と輝かせる。だが、これではいけないと自分を律し、霖から目をそらす。
「シャワー、浴びたら?」
「……ええ、そうします」
熱いシャワーで、脳天から浴びた血を洗い流す。しかし、血はなかなか落ちない。かなりの量を浴びていたらしい。
“あの子、やっぱり吸血鬼よねぇ”
排水溝に流れる赤い湯が次第に薄くなってくる。
“吸血鬼じゃないって言って頑張って自分を誤魔化してるみたいだけど、本能にまで抗えるのかしら。影人が本能に抗えないように、あの子も結局は”
湯を止め、浴室から出る。居間では、グラスに注がれた血をまるでワインのように口に含む杏の姿がある。いつもなら力尽きて眠っている頃合いだが、動物の血のお陰でだいぶ長い間を起きることが可能になっているようだ。
“貴様には感謝するぞ”
どこからともなく、声が聞こえる。しかし填魁のものではない。天井を見上げると、逆さに吊り下がっているコウモリがいた。声は、それから発せられている。
「僕に?」
“何の目的があってのことかは知らぬが、我が主人の為に人間のものでない血を集めてくれた。これで多少の期間は、寝てばかりの人生から解放されるだろう”
「目的……そうですね。僕は、杏さんとお話しをしてみたいのです」
新しい軍服に着替えた霖は、杏が座るソファの向かいの椅子に座り、いくつか質問を投げかける。
「杏さんはシャドウ・コンダクターとしての使命を果たしたことはありますか?」
「つまり、影人を始末することね? まだ数えるほどしかないわね……それも、全部ベリアルが一方的に殺してる。勿論、世界の為じゃなく血を吸いたいが為。まぁ間接的には世界の為になるのでしょうけど……」
「杏さん自ら影人に手を下そうとは思わないのですか」
「わからない。でも私には、影人を殺せるほどの力は……無い」
「それは人間の生き血を飲まないから、能力が発揮出来ないのですよね」
「能力を発揮しようとも思わない。私は、吸血鬼じゃないもの……」
人間の血が全ての力の源。しかしそれを拒否する杏にシャドウ・コンダクターとしての活躍を期待するのは難しい。だから組織は、<杏の血>だけを欲している。
「ねぇ、霖……教えて。どうして私は血を司ってるの?」
「…………」
「血さえ司っていなければ、普通の人間であれば、私は、皆と同じように暮らしていられたのに……」
グラス内で揺れる血。普通の人間はこんなものを飲まない。なのに、これがなくては生きられない自分。杏は、自分の能力を呪っていた。
「……僕たちは、神に選ばれし人間だと、そう聞いています」
「神……ね」
神は世界を2つ創った。片方は我々が住む表世界。もう片方は影が住む影世界。2つの世界は1つの天秤の上に成り立ち、両者の重さは均等でならなくてはならない。少しの傾きも致命的で、傾きが進むと天秤はバランスを崩し、崩壊――世界が滅亡するという。
世界を崩壊へと導く悪玉が影人と呼ばれる存在である。自分の影に身体と魂を乗っ取られたヒトの意だ。影が表世界側のヒトを乗っ取るとはつまり、影世界から人間1人分の重さが消失し、天秤が表世界側に傾くということ。これが世界の傾きだ。だから影人は発見次第すぐに始末して、傾きを修正せねばならない。
ヒトが影人化する理由は、現在解明されているだけで3通りある。
1、強い負の感情を長期間に渡り抱くこと。
1、影人と非現実的な取引をすること。
1、影人に影響されること。つまり、感染。
以上のどれか1つにでも当てはまれば、ヒトは影人化する。
影人化することを防ぐには、己を律することが大事だという。負の感情に惑わされず、己を強く持っていれば影は乗っ取れない。しかし、それも影響による影人化は防げないとされている。どんなに健康でも、強い感染力を持つ病原菌の前では無力だということだ。
影人と一言で表現してもその形態は様々で、ヒトの姿のままの影人をヒューマン型、ヒト以外の姿に変貌する影人を変貌型と呼ぶ。変貌型の中にも名称は数多くあり、新しい形態が出現する度に記録は更新され続けている。
その影人を始末出来るのがシャドウ・コンダクターと呼ばれる特異能力者であり、自分の影を具現化して自由に操ることが出来る。それぞれに司る属性が異なり、並外れた身体能力と併せて自分に合った戦法で影人を殺す。
世界に散らばるシャドウ・コンダクターたちを統括しているのがシャドウ・システムであり、通称、組織と呼ばれている。表には決して姿を現さず、秘密裏に影人を始末している。組織の人間は各国の学校や役所、警察庁、果ては政界など様々なところに入り込み、裏から世界を操ってシャドウ・コンダクターが影人狩りをしやすい世の中を作り上げている。
それはつまりどういうことかというと、第三者――影人でもシャドウ・コンダクターでもない、普通の人間――の記憶・思考・情報を操作し、騒がれないようにすること。世界人口の約9割が第三者で占められる中、このようなコントロールは非常に重要といえる。
「世界の真実を知らない第三者は、偽りの平和の中を生きねばならない。でも私は、それが一番幸せだと思うわ。知らないことこそが、至上の喜びよ」
何故なら、世界の真実はあまりにも辛すぎるから。
「私は、神になど、選ばれたくなかった」
世界を救うヒーローなんて、荷が重すぎる。そもそも、救世主であるはずなのに邪悪な属性を司っている自分という存在の矛盾に、杏は苦しめられてきた。
「そういう貴男は? 霖はどうして、組織に属しているの? やっぱり、世界を救いたいから?」
「ええ、世界を救うことがシャドウ・コンダクターの使命でもありますし――……それに僕は、研究をしたいのです。この世界は未知に溢れている。世界の真実を知っている僕たちですら、知らない真実を」
「ふうん……なんだか、科学者みたい」
「研究をすることが幼い頃からの趣味でした。現在は、ヒトが影人化する過程――思考、肉体、魂の変化を克明に記録したいと考えています」
知りたくないという杏に対し、霖は知りたいという。両者の意見はすれ違い、交わることはなさそうだ。
「ふふ、シャドウ・コンダクターって変人ばかりねぇ。私も他人のこと言えないけど、貴男も朧も総帥も、相当な変わり者だわ」
「それに対して反対意見はありませんよ。特に総帥は、シャドウ・システムのトップだ――筋金入りの変人です」
杏と霖は吹き出すように笑いあう。まだまだ話し足りないという互いの世界論。しかし霖の内ポケットにて震える通信機が議論を遮断する。
「……朧?」
通信機の相手について、杏が予想を立てる。霖の表情を見ると、どうやら当たっていたようだ。
「はい。口無霖です」
霖は小型の通信機を耳に当てる。
『りっちゃーん! 任務中悪いんだけどさぁ、ちょっとだけ本部に戻って来てくれなぁい? 』
「理由は」
『戻って来てから話すよぉ。とにかく急用なんだ。お願いねー』
そして通信は一方的に切られた。また影人が現れるかもしれないのにどうしようかと迷う霖に対し、杏はにっこり微笑む。
「組織からの命令は絶対なんでしょ? 戻る以外の選択肢はあるの?」
「ですが、影人が……」
「霖が集めてくれた血がこんなにあるわ。いざとなったら、ベリアルに飲ませて戦わせる」
だから、心配しないで戻りなさいと言う杏に対し、霖は頭を下げる。
「すみません。すぐに、帰って来ますので」
霖は庭に出るなり填魁を召喚し、姿をヒト型の悪魔サキュバスから翼の生えた人面ライオン――マンティコアへ変化させて、その背に飛び乗った。
「填魁。シャドウ・システム総本部――ヴェル・ド・シャトーへ」
空高く舞い上がるマンティコア。飛び去る霖とシャドウを、杏は洋館の窓からずっと見つめていた。
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