9節 研究結果
あの吸血鬼の村にいた時と同じく、しばらく目覚めることのない眠りについた杏を霖は見下ろしていた。
“霖様ぁっ。ちょっと手伝ってよー。私1人で大量の吸血鬼を相手なんて無理よぉ。ま、派手に戦って良いなら話は別だけど”
窓から顔を覗かせた女悪魔――サキュバスの填魁は、ベッドの上で死んだように眠る杏に気付き、目を伏せる。
“……杏お姉様、またあの時に逆戻りしたの? しかも今回は、状況が最悪だけど……”
「勝算はある。杏姉さんを絶対に死なせやしない。当然――僕も死ぬわけにはいかない」
“死ぬのは、樫八夏来ただ1人ね?”
填魁の言葉を聞き、霖は声をあげて笑う。
「死ぬ? いいや、夏来さんには生きて地獄を味わってもらう」
“……あの方法、試すのね”
霖は軍服の胸ポケットから2本の試験管を取り出す。中では、赤い液体が揺らめいている。
「絶対的命令拘束力……それの、思わぬ抜け道だ」
血液入りの試験管を月光に翳し、霖は妖しく微笑んだ。
霖の謀いにより吸血鬼の襲撃を受けた和雪亭は、針の使い手樫八夏来の手で吸血鬼の墓場と化していた。
屍を踏みつけ、怒りに狂う夏来の視線の先には、サキュバスを従えた口無霖の姿がある。
闇夜を支配する漆黒の髪に仄暗い灰色の瞳、血色の悪い肌と唇は、思えばどこか吸血鬼に似ている。加えて思考はひどく冷酷で、憐れみという心を微塵にも持っていない。全ての行動を緻密に計算し、非情なる精神で感情の無い刃を振るう。
「どの面を下げて戻ってきた……わざわざ俺に殺されに来たのか。いや、お前に限ってそんなことはないか」
霖の表情は、月の光が逆光になって分かり辛い。
「姉は死んだか? 俺は5年もの間、あの女と共に過ごした。貴様よりも杏のことは熟知しているぞ」
夏来を見下ろしたまま、微動だにしない。夏来は吐き捨てるように笑い、奎芯を差し向ける。
「杏に言われた。俺が貴様に劣っている部分は、鬼畜さだと。だがその指摘を撤回させてもらう!!」
奎芯による針の雨が霖と填魁を襲う。填魁は悪魔の翼を広げ、波動を放って針を吹き飛ばす。
「鬼畜さでは僕の方が勝ってる、か。姉さんも酷いこと言うな……」
夏来は、吹き飛ばしきれなかった針を両手でなぎ払う霖に高速で接近し、顔を鷲掴みにして後頭部を地面に叩きつける。
「死ね! 俺から杏を奪い、あまつさえ罠にハメやがったクソガキが!!」
頭が地面にめり込み、生温い液体が流れ出す。このままだと、頭蓋骨が破壊されるだろう。
“霖様っ!”
填魁の悲鳴。霖を助けようにも、翼に突き刺さった針が地面にまで達し、身動きが取れない。
「貴様のシャドウ共々、裏切りの名を被せて葬ってやる。そうすれば俺の地位は更に上がるだろう。そうだな、杏の死体はミイラにでもして部屋に飾らせてもらおうか。もちろん血は全て保存し、俺の思い通りの世界を作る。総帥の座だって、夢ではないかもしれない――」
「……笑える」
「なんだと?」
霖は片足で夏来の腹を蹴り上げ、血濡れた頭を抑えながら上体を起こす。
「残念ですが、杏さんの血を使って世界支配なんて不可能な話ですよ。他者が杏さんの血を誰かに飲ませたところで、絶対命令の効力は発揮しない。杏さん自身が命じないことには、発動しないのですよ」
「はっ、小賢しい研究結果か。しかし、それが今更なんだと言う? 杏が俺の支配下にある事実に、僅かな違いも無い!」
夏来は両手に針の槍を握り、自慢の攻撃である高速の突きを披露する。
「……っっ」
霖は素早く立ち上がり、刀――空破を構えるが槍を受け止めることだけで精一杯だ。波動を放つ隙も無いほどに、速い突き。
「これがお前と俺の格の違いだ! いくつもの難関な任務を1人でやり遂げようが、どれほど一目置かれた存在だろうが、事実、俺の方がこんなにも強い!」
建物の壁に追い詰められて逃げ場を失った霖の身体は、磔にされるように左肩と右腰に槍を突き刺されていた。血が噴水のように飛び出し、足元を赤く染める。杏が喜んで飲んでいたものが、冷たい地面を這ってゆく。
「心臓を狙わなかったことを感謝しろ。お前はこの状態のまま、組織に引き渡されるのだからな」
霖の腹を蹴り、血が吐き出される様を見て夏来は高笑いをあげる。そして霖の顎から滴る血を指で拭い、舐めた。
「これが杏を虜にした忌々しい血か……。ただの鉄臭いだけの体液ではないか」
がっくりと力無くうなだれる霖の姿を見て、夏来は完全なる勝利を確信する。油断し、コルクが引き抜かれる音が耳に届かなかったこと――それが最大の誤算であったと気付いたのは、すでに空になった試験管が霖の右手に握られていた時だ。
「ごほっ」
「吐いちゃダメですよ。ちゃんと胃におさめてくれませんと」
霖は槍に貫かれたままの身体を壁から引き剥がし、多くの血を流しながらも夏来の口を塞ぐ。夏来は自分に飲まされた液体が何であるかを瞬時に推理する。
「はっ、バカめ! 俺の思考を操作して杏に刷り込んだ命令を解除させようとしているのだろう。だが俺は解毒剤を所持している。これを飲めば、貴様の命令など」
しかし、喉を流れる液体が、組織が常套手段としている乳白色の薬とは何か違うような気がする。
「まさか。これは……いや、だがそうであっても、貴様の研究結果では」
足払いを食らわされ、地面に倒れる夏来。その視界には、身体半分を血塗れにした霖の、勝ち誇ったかのような冷徹な笑顔――。
「夏来さん。貴男に、絶対命令を下します」




