1節 互いの血を
両親が影人化して、1週間が経つ。弟は相変わらず研究に没頭し、姉はというと吸血鬼を憎んでいる町人が恐ろしく、口無家から一歩も出歩くことが出来ずに缶詰め状態に陥っている。
「凄いことが判明しましたよ!!」
居間のソファにて、暇そうに寝転がっていた杏の元へ霖が走り寄ってくる。
「夫婦は現在、共にゴブリン型へ変貌しています。しかしそもそも何故、影人に様々な形態が存在しているかという話です」
「……うん」
「影人の形態は、基本的には生前の姿・記憶・思考のまま一切変貌しないヒューマン型がポピュラーです。なのに、見るもおぞましい化け物型へと変貌する影人は、一体何が原因なのか……です」
「……うん」
「…………。聞いてます?」
気怠そうに仰向けに横たわる杏の顔を覗き込み、霖はムッとする。そんな弟の表情を見た杏は、プッと吹き出すように笑う。
「な、なんですか」
「ううん。霖も表情豊かになったなーって」
「はい?」
「最初に出会った頃の貴男には、表情がなかったもの。ずっと素っ気ない表情。なのに今では、笑ったり悲しんでくれたり、今みたいに怒ったりしてくれる」
「……それは姉さんのお陰です。僕も杏さんと出会う前は色々あったので。組織を裏切ったこともありましたし」
「?! え!!」
杏は飛び起きる。霖の口から出た言葉の中で、こんなに驚いたことはない。何故なら、組織は裏切り者に容赦ない。即刻、処刑されるはず――。
「無論、裏切りを察知される前に組織に戻りましたので、事なきを得ましたが」
「ど、どうして裏切ったりしたの……」
心臓がバクバクと激しい音を立てる。
組織の裏切り者、ひいては世界の裏切り者となる。杏は祈るような気持ちで霖を見つめる。
「そんなに悪いことは考えていませんでしたよ。ただ、急ぎすぎたのかもしれない」
「?」
「世界の均等を保つ為、組織のような生温いやり方では遅いと考えていたのです。だから、この世界を第三者などではなく、シャドウ・コンダクターが正々堂々と統治すべきだと――ある集団と手を組んでいました」
「…………」
「でも、止めました。理由は簡単です。結局のところ、シャドウ・システムのやり方が一番、世界の為になるとわかったので」
「そ、そう……良かったわ」
どうやら霖はすでに改心している様子だ。杏はホッと胸を撫で下ろすが、心臓の鼓動はまだ少し、早い。そんな中、家のインターホンが鳴る。町人が、両親を訪ねてきたのだ。
「何かご用ですか」
応対に出たのは霖だ。町人は霖を見るなり「おぉ」と驚く。
「まさか、リンくんかい? いやー、大きくなったねぇ。帰って来てるとは思わなかった」
「たまには実家も良いものだと思いましてね」
「はは、そりゃそうだ。ところで、ヤスタカさんは在宅かい? リンくんも吸血鬼が戻ってきた話は聞いただろう。そのことについて話し合いがあってね」
「父と母は2週間ほど前から揃って旅行中です。帰ってくるのはまだ先かと」
「えっ? 1週間前、庭掃除をしているアヤメさんを見たんだがなぁ……」
「…………」
居間に戻ってきた霖は、空になった瓶をゴミ箱に捨てていた。
「薬を使ったの? 何かまずいことでもあった?」
「夫婦が不在であることを怪しまれたので、旅行中であるという情報を刷り込んでおきました。ま、永遠に帰って来ない旅行ですがね」
霖の言い回しは、妙に怖い。杏は苦笑いを浮かべ、なんとなしに眺めた通信機が震えたことに驚き、床に落としてしまう。
「びっくりした……なんてタイミングなの。――はい、影操師ナンバー342、杏です」
『ヤッホー、あーちゃーん! 元気してるぅ?』
通信機から聞こえてくるのはいつもの陽気な声だ。杏はこちらを見つめる霖に対し、小さな声で「朧よ」と言う。
「ぷっ、元気よ。何?」
『りっちゃんの任務は後どれくらいで終わりそう?』
「え? んー……」
任務自体はもう完了しているが、霖が個人的に始めてしまった研究がまだまだ終わらない。
「まだ少し、かかりそう……」
『そうー。じゃ、あーちゃんだけでも本部に帰って来れる?』
「えっ?」
『いやさー、委員会があーちゃんに任務を下したいんだって』
「私に、任務??」
霖はハッと顔を上げ、杏を見る。
『うん。詳しい任務内容は帰ってから話すけどさ、これは組織内における、あーちゃんの信頼を得る為の重要な任務だよ、っとだけ言っておくねん』
「そう……わかったわ」
『あ、マジー? じゃ、待ってるね!』
通信は可ノ瀬の陽気の声と共に切られる。
「任務を……杏姉さんにですって?」
「ええ。これは組織からの信頼を得る為の重要なものだ、って」
「なるほど。それは断れませんね」
「霖……」
「組織の命令に従うことが、属す者の仕事です。行ってください」
「……ありがとう」
「でも、本部までは送らせてください。道中、何があるかわかりませんし」
「え、でも」
「まぁ夫婦なら6日間くらい放っておいても大丈夫でしょう。重要な変化は、影人化してから3日のうちに終わりましたから。それに」
霖は両手をするりと杏の背中に回す。
「しばらく別任務で離れ離れになるのです。少しの間でも、貴女と一緒にいたい」
杏も両手を霖の背中に回し、力を込める。
しばしの抱擁の後、人目を避ける為に家の裏口からこっそりと出た2人は、霖が召喚したマンティコア――填魁に跨って空へと舞い上がった。
「おかえりー! あれぇ? なんかあーちゃん、出掛ける時より更に綺麗になったね! 何かあった?」
3日後。シャドウ・システム総本部――ヴェル・ド・シャトーにて、杏の帰りを首を長くして待っていた可ノ瀬が両手をブンブンと振っていた。
「何もないわよ」
「ほんとかなぁー?」
可ノ瀬はニヤニヤと笑い、隣りに立つ霖を舐め回すように見る。
「で? 委員会からの任務内容とは如何ようなものなのでしょうか」
霖は少し気分悪そうに尋ねる。可ノ瀬はニヤニヤとした表情を崩さないまま、ジェスチャー付きで話し始める。
「んー。吸血鬼退治」
「?!」
杏と霖は顔を見合わせる。
「あ、一応言っとくけど、あーちゃんのことじゃないよ。日本列島最北端の島――霜蘭島にさ、吸血鬼が出て人間の生き血をすすってるって噂があるんだよねぇ。それを影人の仕業だと判断した委員会は、吸血鬼には吸血鬼をって感じであーちゃんを選んだっぽい」
「私、吸血鬼じゃないのに……」
選任された理由に納得はいかないものの、本物の吸血鬼を引き合いに出し、自分は吸血鬼ではないと証明する良い機会かもと思い直す。
「その任務、引き受けるわ」
「決まりだねぇ。ちなみにこの任務にはボクも参加する」
「あら! それは心強いわね」
「あははぁ。そう言ってくれると嬉しいー。あ、さくちゃんも参加するよぉ。なんだかボクにとっては両手に花って感じの任務でラッキー」
さくちゃんとは、山茶花さくらのことだ。吸血鬼退治の任務には、杏、可ノ瀬朧、山茶花さくらの3人が任命されていた。
「出立は明朝! 準備しといてねぇ。ボクはあーちゃんが任務に参加することを委員会に報告に行ってくるよぉ」
可ノ瀬がいなくなり、杏は準備に取り掛かる為にS地区にある自室へ向かう。
「気をつけてくださいよ。生きる為に血を求める杏さんとは違い、吸血鬼はただ快楽の為だけに人間の血を吸うバケモノですから。あと、僕以外のやつに血を吸われたりしないで下さい」
「大丈夫よ。ふふ、霖は心配性ねぇ」
杏は吸血剣ヴォレミアを影の中から取り出し、刃の切れ具合を調べる。
「任務期間がどれほどになるかはわかりませんが……これを」
霖は自分の血が入った小瓶を3個、机に並べる。
「任務期間2週間を想定しています。念の為、1個多くしておきましたが」
「ありがとう。あ、じゃあ私も」
杏も自分の血が入った小瓶を3つ、霖に手渡す。
「私が恋しくなったら、これ飲んでね」
「……それなら、3つじゃ足りませんよ」
霖は受け取った小瓶を机に置き、杏の首筋に歯を当てる。
「ん……やっぱり僕には無理ですね、杏さんほど犬歯が発達してないので」
「ちょっと。私を吸血鬼呼ばわりしないで頂戴」
「ふふ。杏姉さんは、僕だけの吸血鬼なんです」
杏は手本を見せるように霖の首筋に噛みつき、霖は杏の首筋をナイフで切りつけ、血をすすった。
「絶対命令……しておこうかな。姉さんが、無事に帰って来るようにと」
「それ、命令じゃなくて願望でしょ? 願われなくとも、私はちゃんと帰るわよ」
「良かった。では、帰ってきたらあの返事を聞かせて下さいね……」
明日から、杏の初任務が始まる。10年前からずっと世話をされる側だった杏は、ここに来て初めて世界の世話をすることになる。任務地は霜蘭島。吸血鬼退治。霖は遠く離れたローマの田舎町で研究。2人は、出立のその時まで片時も離れることなく、互いの体温と血を感じ合っていた。




