3節 あなたの気持ちがわからない
陽が落ち、杏はハッと慌てたように腕時計を見る。
「まずいっ……7時過ぎちゃってる!」
霖と夜の7時に宿屋で落ち合う約束をしていたのだ。杏は立ち上がり、未だフラつく頭で夜のサゥルナを走った。
「ご、ごめんなさい……」
宿屋マートンの201号室の扉を開けると、机に向かって報告書をまとめている霖の後ろ姿があった。霖は杏が帰ってきたことに気付くとペンを止め、立ち上がる。
「心配していましたよ。何か問題でもあったのですか」
「ううん……! ちょっと、時間を忘れて観光しちゃってただけ」
霖は「そうですか」とあっさり納得すると、椅子に座り直して報告書の作成を続行する。
杏は気付かれないように溜め息を吐き、羽織っていた布をベッドの上に置く。そして自身もベッドに腰掛け、まだ治らない最悪の気分のまま横になる。
「……杏さん」
ウトウトしかけていた時、報告書の作成を終えた霖が杏の顔を覗き込んでいた。
「あ……ごめんなさい、寝てたかも……」
杏は上体を起こし、何用かと霖に尋ねる。
「いえ、気分が悪そうだな、と」
青白い顔は元々だが、それでも心配されるとは余程様子がおかしいらしい。
「もしかして、血が足りなくなってきたのでは?」
「それは……大丈夫。霖の血を飲んでから、まだ4日しか経ってないし」
「でもそれは貧血の症状ですよ。遠慮せず、飲んでください」
霖は同じくベッドに腰掛ける。杏はうっすらと笑い、「いいの?」と問う。
「ええ、どうぞ」
「…………。あの」
「なにか?」
どうぞ、と言うクセに霖は血を出そうとしない。手の平でもどこでも良いのだが、肉を裂いてはくれないのだろうか。
杏が迷っていると、霖は軍服のファスナーを下げて首筋を出す。
「ここから、どうぞ」
「えっ?!」
驚いた。霖は、杏に噛み付けというのだ。まさしく吸血鬼のように。
「……貴男、意地悪なのね」
「そうでしょうか」
杏はベッドに腰掛ける霖の前に立ち、少し中腰になって唇を霖の首筋に近付ける。そして発達した犬歯をぶすり、と白い肉に突き刺した。
「っ……」
霖の身体がピクリと反応する。多少の刺激はあったらしい。杏は悪いなと感じつつ、手っ取り早く血を吸い上げることにした。
「杏さん……」
「!」
あと20ミリリットルくらいで切り上げようとした時、霖の両腕が杏の背中と腰にするりと回された。
「りっ……」
「構わず、飲んでいてください」
「…………」
背中と腰に回された腕には次第に力がこもり、杏は血を吸い終えた後でも霖から離れられなくなる。
「霖……どうしたの」
「命じても、良いですか?」
「え?」
「杏さんは、相手に自分の血を飲ませて絶対的命令拘束力を発揮することが可能だ。だが逆に、杏さんが吸った血の相手からも絶対命令拘束を受けると……言ってましたよね」
「……ええ」
杏の心臓は、今までにないくらい早く鼓動している。霖とこんなに密着していては、バレてしまうではないか――と顔を赤くする。
「杏さんに、僕の――」
「…………」
霖は言葉の1文字1文字をゆっくりと紡ぐ。杏はその終着点が待ち遠しく、逸る気持ちを誤魔化すように霖の首筋に顔をうずめる。
「――いえ、止めておきましょう」
しかし霖の言葉に終着点はなかった。杏は霖の顔を見上げる。霖はいつもの素っ気ない表情のまま、両腕の力を抜いてゆく。そして軍服のファスナーをスッと上げ、首筋に空いた2つの穴を隠した。
身体を解放された杏は、言いようのない虚しさを感じていた。
「どうして? さっき、血を吸われたばかりの時が、命じる絶好のチャンスだったのに……!」
立ち上がり、背を向ける霖に対し、杏は叫ぶ。
「絶対命令拘束は強力な武器です。世界支配すら夢ではない。でも僕は、それに頼りたくない」
霖は窓辺に立ち、サゥルナの町並みを見渡す。
「僕は……己の力で相手をねじ伏せることを至高の喜びとしています。杏さん。それは貴女も、例外ではないのですよ」
「それって……つまり……」
こちらへ振り返る霖。月明かりに照らされた霖の姿は、妖しい美しさがあった。
「僕は貴女を研究したい。その為には、妻になって頂かなくては」
それは、素直に喜べない言葉だった。
「私を研究するのに、わざわざ妻にする必要は無いでしょ……」
杏は霖に背を向け、再びベッドに突っ伏す。瞳から流れ落ちる涙の理由もわからないまま、眠りの世界に逃げ込んだ。




