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山田柔道

便所の窓から...ババア!! (山田柔道)

作者: 山田柔道

 便座に座って雑誌「コミック快楽天」を読んでいたら不意に視線を感じ、勢いよく振り向くと便所の小窓から見知らぬババアがこちらを覗いている。小窓は十センチ四方の正方形で、およそ地上一メートル半の高さに、明かり取り用の透明な窓ガラスがはめ込みになっている。それがババアの皺だらけな浅黒い顔で隙間無く埋め尽くされている。ただ単に覗き見るには留まらず、可能な限り視界を広げるべく奮闘するが如く目をひん剥き鼻油を垂れ流し歯を食いしばっている。と、ババアと目があった一瞬、俺はこの世の物とは到底信じがたい修羅の表情を目の当たりにしたはずだが、自分は悪い幻覚を見ているのではないかと何度か強く瞬きをした直後、すでにババアは柔和な表情となって黄ばんだ歯を剥きだしにんまりと笑った。その瞬間、ババアが咄嗟に、小窓から顔を離したからであろう、幾筋かの白髪がはらはらと落ちて額に被さった。ババアは微笑むばかりで黙っている。にこにこにこにこ。俺は耳元を冷や汗が流れ落ちるのを感じた。自分の至極プライベートな排泄のひとときが土足で侵されたのであって、当然俺のほうからババアを怒鳴りつけるのが筋であり、実際にそうしようとも思っていたはずなのだが、喉から声を振り絞ろうとした既の所でババアのさながら仏の如き慈愛に満ちた表情といざ相対すると、ついさっきまでの恐怖に駆られた心の叫びはまるで消え失せて、次第に冷静な判断力を取り戻しつつあるのを感じた。その一部始終をじっと見守るかのようにババアは笑顔を絶やさず微動にしない。やはり先ほどの恐ろしく歪んだ容姿は錯覚であったのか。おそらくババアは何か別の目的で俺の家の裏を通りかかった途中、意図せずして小窓を覗き見たにすぎず、そこに偶然俺が卑猥な雑誌を読んでいたので、初めは思わず目を背けてしまったが、相手(つまり俺)が自分の存在に気づいている様子はなく熱心に雑誌を読み耽り何やら右手を熱心に動かしているので、その若い気質に触発されたのだろう、つい彼の行動の一部始終を寛容な心をもって見守りたい、あるいは長い間心の奥底に眠っていた乙女の感情が一瞬蘇り、若い男のエネルギッシュな一人遊びをついからかいたくなったのかもしれない。そうだ、いくら便所を覗き見たとはいえ、それは「魔が差した」の一言で許されるべき行為であり、俺も鬼ではない、すでに人生の最期を目前に控えた一老婆の過失に目くじらを立てて非難するような真似はできない。言うなればこれは誰の過失ともいえない、偶然の連鎖が巻き起こした取るに足らない日常風景の一環に過ぎないのだ。そう悟った俺はババアとの和解を示そうと、そっと微笑んだ。きっと彼女も何も見なかったことにして立ち去ってくれるだろう。ああ、わかってくれるとも。それから優しい言葉を投げかけようと、口を開いた瞬間、ババアの口元も微かに動いて、何か言葉を発しているのを確認した。相変わらず微笑みは崩さないままである。しかしババアの声が思いの外小さいせいか、一向に聞き取れない。いったい何を伝えようとしているのか読み取ろうと、俺はババアの厚ぼったい唇をじっと見つめた。気づかぬうちに、俺は便座から腰を上げ中腰になっていた。ババアはしきりに同じ言葉を繰り返しているようで、その度にひくついた笑いを挟んでいる。喉がぶるぶると震えているのが目に付く。いったい何がそんなに可笑しいのだろう。この二人きりの状況下で、彼女の笑いを誘う物といえば、さっきまでの俺の痴態に他ならない。しかしなぜ笑う必要があるのか。彼女なりの、場を和ませる方法なのだろうか。

俺はババアの唇しか見ていなかった。ある同一の言葉の呟きと、高らかな笑い声が交互に降りかかってくる。ババアの唇を一心不乱に見続けるという醜悪な体験が、かつて俺の身に訪れたことは無論一度もない。しかし我慢しなければならない。これは試練だと自分に言い聞かせて、必死に唇の動きを見定めて、脳内で音声を補完していった。唇の間から覗く真っ暗な咥内があたかも深淵なる闇であるかのような錯覚が始まった。深淵の奥底から、ある一つの言葉が昇りつめて来る。次の瞬間、小窓から顔を覗かせる老婆は自分を指さして、確実に、こう告げた。

「キモチワルッ・・・(笑)」

 一気に正気に戻ったような気がして、俺は再び便座に腰を下ろした。便座は生暖かく、少し湿っていた。手から「コミック快楽天」がするりと抜け落ち、床の上でバサバサとページがめくれた。紙上の猥雑なシーンが視界に入る。しかし、ここはもう俺一人の為の空間であった。誰にも邪魔されることはなく、排泄に勤しむことができる。それは人間としての生きる以上の性であり、最も孤独な行為である。俺は静かに力を込めていった。焦ってはならない。まだだ。まだ焦ってはいけないーーー。


 全ての後始末を終えた後に戻らねばならない世界こそ、現実に他ならない。俺はズボンを掃き直すと、「清算」するためにゆっくりと振り返った。小窓に彼女の姿はなかった。俺は水栓を「大」の方に回し、便所を後にした。玄関脇の戸棚の上の置き時計が、午前十字を示していた。大学の講義に出席するため、もう出発しなければならない時間だ。俺はパジャマを着替えるために、自室のドアノブに手をかけた。


 しかし案の定、自室のベッドの上で俺を待ち構えていたのは、やはりババアであった。なんとなくそんな気がしていた。ババアのような薄汚い人種がすんなりと帰るわけがないのだ。ベッドの足下にはババアの服と下着類が散乱していた。色褪せた前掛けに、ぴちっとした肌色のババシャツ、見るもおぞましいぶよぶよのブラジャーと、すっかりくたばったパンティー・・・。

 俺の枕に突っ伏していたババアがゆっくりと俺の方を仰ぎ見て、にんまりといやらしい笑いを浮かべたかと思うと、チョロッと舌を出しウインクを投げて寄越した。俺はそれをかわすことができず、もろに食らってしまった。身体が硬直してゆくのを感じた。胸の内側を無数の小蟻が這い回るような、得も言われぬ気色の悪い感覚に襲われた。すかさずババアが、ベッドからするりと抜け出てのらりくらりと身をくねらせ俺の方へ近寄ってくる。狂気の瞳を震わせて。ああ。骨と皮しかないケダモノだ。もう覚悟するしかない。彼女の細長い指先が俺の胸に触れて、そっと爪で肌を引っかく。両方の乳首をいじり倒し、それに飽きると彼女の両手はするすると俺の首もとへ伸びて、一瞬、彼女の表情がふっと和らいだかと思うと、それは狂気に満ちた笑顔へと変貌し、思い切り俺の首を絞めてきた。

「ああああああああああああああああああああああああああああああああ」

「ヒャッハアアアアアアアアッーーーーーーーーーーーーーギンモヂイイッッーーーーーー!!!」

断末魔を響かせる俺。快楽の咆吼を轟かせる老婆。そのとき、背後の扉が開く音がした。

「おばあちゃん、あんまりはしゃいだら心臓に悪いよぅ」

そこに佇んでいたのは、今年から中学生になる俺の妹だった。妹の言葉を耳にした老婆はぱっと両手を離し、俺は勢いよく咳込んだ。

「たたたたたた、助けてくれ春香!警察だ!警察を呼べ!このババア、俺を殺す気だァ!」

俺の必死の懇願も虚しく、妹はけらけらと笑い声を立てた。

「何言ってるのお兄ちゃん。藤原さんちのおばあちゃんじゃないのよぉ。おばあちゃん、もう長くないみたいだから、最期くらいエンジョイさせてあげようよぅ」と、ガッツポーズ。ああ、もう本当の本当におしまいだ。俺はこのまま逝かされる。つまらない人生だったけど、残念だなあ。実に残念だなあ。ああ残念だ。こんなに可愛い妹がいてくれたのが、唯一の幸せだったなあ。俺にはもったいないほどのよく出来た妹だったなあ。もう胸も膨らみはじめているしなあ。将来は綾瀬はるかにそっくりだろうなあ。いや、綾瀬はるかから顎の長さを切り取った超絶美人になるだろうなあ。まあ綾瀬はるかの顎は、あれはあれでチャームポイントだし、それでも顎がもっとすっきりした綾瀬はるかも見てみたいなあ。そういえば最近、綾瀬はるか、テレビで見ないなあ。嗚呼神様、一度でいいから綾瀬はるかと・・・・・・。

「フェッフェッフェ、こんなにいきり立ちおって・・・もどかしかろう、もどかしかろう?」

 下半身に衝撃が走り、俺は、意識を失った。夢のなかで俺と綾瀬はるかは、エキストラの見守るなか、横浜駅西口ビブレ前の広場で素っ裸になり愛を交わし続けた・・・。



こうして、ふたりのあいだには、りっぱなあかんぼうがうまれました。

しあわせになって、よかったね。

おしまい。






※これは横浜市保土ヶ谷区のとあるアパートの一室で、実際に起こった出来事です。


2013/06/14批評会用

三年 山田柔道

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