第19話 覚書
「兄さん、今こそが商機なのです!」
ジェボアの街の目抜き通りに面するシャピロ商会の商館。その最奥にある商会長の執務室に、ヨアシュの声が響いた。
ヨアシュがシャピロ商会の本店とも言うべきこの商館に足を踏み入れるのは、兄のダニエルの召還に応じてジェボアに帰還したその日以来のことである。
そのときは帰還の報告と挨拶のために執務室を訪れたヨアシュを兄のダニエルは「急な帰還で疲れただろう」という言葉だけでジェボアの街の郊外にある別邸でしばらく休養するように告げたのだった。
突然の帰国の要請に、「これはジェボアで変事でも起きたか」と警戒していたヨアシュは、このダニエルの対応に警戒感を強めた。しかし、いくら問い詰めようともダニエルは何も答えず、半ば強制的にヨアシュはジェボアの郊外にあるシャピロ商会の別邸に押し込められたのである。それ以降、ヨアシュはシャピロ商会の使用人の監視の下で、外出を禁止されたばかりか外部との連絡までも絶たれ、今日に至るまで軟禁状態に置かれていたのだった。
しかし、そこは「メナヘムの秘蔵っ子」と呼ばれたヨアシュである。
その巧みな話術と鋭い洞察力とをもって使用人たちから蒼馬が聖教から神敵に認定されたことから聖戦の発動、そしてルイズベンの街が陥落したことまで、すでに粗方のこと聞き出し、把握していたのであった。
「今やエルドア国は聖戦軍を前に風前の灯火と言えましょう。今ならば恩を売りつつ、商会に有利に交渉が進められます。それだけではありません! エルドアの優れた産物を生み出すドワーフやエルフの工匠らを商会で取り囲む、またとない好機! 聖戦軍によってエルドアが滅びれば、彼らも破滅です。そうなる前に救いの手を差し伸べれば、今や大陸を席巻するエルドアの産物をシャピロ商会のものにすることができるのです!」
今日になって軟禁を解き、数ヶ月ぶりに顔を合わせたというのに挨拶もせずに一方的に商機を説く弟の商魂のたくましさに辟易しているダニエルの反応の悪さに、ヨアシュは別の解釈をする。
「エルドア滅亡後に聖戦軍から不興を買うのを懸念されているのならば、ご安心を。あくまで表に立つのは、シャピロ商会ではなく、この私。絶縁された放蕩な弟が勝手にやることです。――ああ、もちろん引き際も心得ております。ギリギリまでエルドアの富を引き抜いた後は、帝国の力が及ばぬ大陸の南にあるディノサウリアンの王国にでも身を隠します。何度か行きましたが、なかなか趣のある土地です。ほとぼりが冷めるまで、ゆっくりと堪能してきましょう」
ダニエルは深い嘆息を洩らす。
「無駄だ、ヨアシュ。すべて手遅れなのだ」
ヨアシュは否定的な兄の反応に、自分が知らぬうちに戦況が悪化したと捉えた。
「すでに聖戦軍がエルドアの王都を攻め囲んだのですか?」
「いや。――あれほどの大軍を擁する聖戦軍に対し、エルドアは奮戦していると言えるだろう。エルドアは持久戦に持ち込もうとし、今はボーンズの街で必死の抵抗を試みている」
主戦場が旧ロマニア国領の東部の街ボーンズならば、王都ホルメニアに至るまでには旧ロマニア国の王都ロマルニアなどの堅牢な要塞も数多く、またラビアン河という天然の障害まである。持久戦に持ち込むつもりならば、エルドア国はまだまだそう簡単には倒れないだろう。
それなのに、この段にあってエルドア国を切り捨てるのは早計だろうと訝しむヨアシュに、ダニエルは淡々と告げる。
「ジェボアは――いや、シャピロ商会はエルドア国を切り捨てると明確に示したのだ」
兄の言葉に、ヨアシュは拍子抜けしてしまう。
伝え聞く軍の規模に加え、人間の神の御子をふたりも擁する聖戦軍が相手では、いくらエルドア国でも滅亡は免れないだろうとヨアシュも判断していた。エルドア国を滅ぼした聖戦軍と良好な関係を構築する上でも、いらぬ敵意や不審をもたれぬようにシャピロ商会がエルドア国から手を引くのも当然である。
しかし、このようなときのためにヨアシュはシャピロ商会から放逐されているという体裁を取っているのだ。
それぐらいは蒼馬も承知のことである。
聖戦の脅威の前にシャピロ商会がエルドア国に対して断交を告げた後にヨアシュが商談に訪れても、蒼馬は当然のことと気にもしないだろう。
しかし、それぐらいは兄のダニエルも理解しているはずだ。それなのに手遅れとまで言うのに不安を覚えながらもヨアシュは言う。
「まさか、十人委員会でエルドアへの挙兵でも提議され、それに同調したのですか? まあ、それでもソーマ様ならばこちらの事情をご理解して――」
「帝国が破壊の御子の第一の臣であるゾアンの娘を討ち取るのに協力した」
自身の言葉にかぶせるように告げられた兄の言葉に、ヨアシュはしばし絶句した。
告げられた事実を脳が理解することを拒んでいる。
そうなるだけの内容だった。
ややあってからヨアシュは震える声で問う。
「まさか、王佐様を……?」
嘘であってくれという懇願が含まれた弟の言葉に、ダニエルは冷然と告げる。
「そうだ。エルドア国の王佐がジェボアに訪れるという情報を帝国に伝えた。そして、それを討ち取るという帝国の人間の回答に、それを秘して帝国の船が待ち構えるマーマンの島へエルドアの王佐を送り出したのだ」
ヨアシュは感情のままにダニエルが座る執務机を拳で叩く。
「なぜ、そのような暴挙を……?!」
「ルイズベンの港を得たことにより、帝国の船がここまでやってきたのだ。奴らの要求は聖戦への協力だった。もしエルドアに加担すれば、それは帝国と聖教――ひいては人間の神への反逆と見なし、エルドア国とともに滅ぼすと告げられた」
そこでダニエルは大きくため息を洩らした。
「我らジェボアの十人委員は、エルドア国滅亡は確定したと判断し、帝国に従うと結論した。我らは商人だ。エルドア国が滅ぼされ、たとえジェボアという国がなくなろうと、今度は帝国を相手に商売をすれば良いのだからな」
ダニエルはヨアシュの視線を避けるように顔を背ける。
「ただ、そう結論づけた十人委員会の中で、我がシャピロ商会に対して態度を明確にするよう求められたのだ」
ボルニスの街の時代から続くエルドア国との交易によって、シャピロ商会は十人委員の豪商たちの中でも頭ひとつ抜き出た商会となっていた。この要求は、そうしたシャピロ商会の発展と拡大に対する他の十人委員たちの嫉妬と警戒からのものであったのだ。
「そ、それで、シャピロ商会を頼ってジェボアを訪れた王佐様のことを帝国に売ったと……?」
ダニエルは無言で首を縦に振った。
ヨアシュは足下の重厚な大理石の床が抜け落ちるかのような衝撃を覚え、その場にがっくりと膝を落とす。
「大丈夫か、ヨアシュ!」
衝撃を受けてくずおれた弟を心配し、ダニエルは駆け寄った。床に座り込む自分を心配し、寄り添ってこちらの顔を覗き込む兄に、ヨアシュはその胸ぐらをつかみ取る。
「兄さん! 急ぎ十人委員会を招集してください! 十人委員の方々に、お伝えせねばならないことがあります!」
必死の形相で訴えてくる弟に、ダニエルは首を横に振るう。
「諦めろ。もはやジェボアはエルドア国を助けることはない」
「兄さん、違います!」
しかし、ヨアシュの意図は違っていた。
「破壊の御子を討つため、ジェボアも挙兵するのです! 急ぎ十人委員の方々を説得し、傭兵を集め、エルドアを攻めるのですっ!」
「何だと……?」
予想外の言葉に絶句するダニエルに、ヨアシュは目を血ばらして説得する。
「やるなら、徹底的にやらねばなりません! 万が一にもエルドア国が聖戦軍を退けた場合、ソーマ様が王佐殿を討った我らを許すはずがない! どのような怒りの矛先が向けられるかもわからない!」
ヨアシュは自身の想像に顔を蒼白にして身体を震わせた。
しかし、それにダニエルは理解できないとばかりに首を横に振るう。
「我らは商人だ。戦争で儲けることはあって、自身で戦争に加わる必要はない。また、他の十人委員も同様だろう。放っておけば滅ぼされる国にとどめを刺すため、何故わざわざ高い金を払って傭兵を集めねばならない」
ダニエルはヨアシュを安心させるように微笑んだ。
「万が一にもエルドアが生き延びたとしても、心配することはない。聖戦軍によって国土を荒らされたエルドア国にとって、その復興のために我らジェボアの商人ギルドの協力が不可欠。我らと事を構えるわけがない。いくら王佐だの、半身だのと言っていても、しょせんは臣下のひとり。それ相応の賠償金を支払い、謝罪をすれば、それですむ話ではないか」
ヨアシュを安心させようとしたダニエルの言葉だったが、かえってそれはヨアシュを絶望へと追い落とす。
十人委員の豪商たちも、そして兄のダニエルも知らないのだ。
破壊の御子が、その内に秘めた異常性に。
その仮面の奥にひた隠しにする狂気に。
そして、それらは王佐と呼ばれた、たったひとりのゾアンの女性によって封印されていたという事実に。
「ち、違うのです、兄さん! あなたたちは、破壊の御子と王佐を知らない! あまりにも知らなすぎる! あれは私たちの理解が及ぶものではないのです!」
必死に食い下がる弟に、ダニエルは眉をひそめる。
「落ち着け。おまえは混乱しているのだ。少し休むと良い」
いつもは飄々とし掴み所がない性格の弟が、これほどまで取り乱すのだから、よほどエルドア国の人々と親しかったのだろう。
ヨアシュの反応に、そんな見当違いの解釈をしたダニエルは使用人を呼ぶとヨアシュを無理矢理にでも休ませるように命じた。
それでも兄へ必死に訴え続けたヨアシュであったが、執務室を連れ出されると、もはや兄は自身の意見を汲み入れてはくれないと落胆する。そのまま使用人に連れられて、悄然と商館の廊下を歩いていたヨアシュだったが、客室の前を通りがかったとき、わずかに開いた扉の隙間から部屋に残された荷物に気づく。
使用人に、誰か客が訪れているのかと尋ねると、そこはシェムルが泊まっていた部屋だという。早く自室へ行くように促す使用人に少し時間をくれと断り、ヨアシュは客室へと足を踏み入れた。
部屋に残されていたのは、小さな雑嚢ただひとつである。大陸西域の覇権国家の王から、自身の半身とも讃えられる王佐が持つものとしては、あまりにも貧相な雑嚢であり、中身もまた高価なものなどひとつとしてない。それがあまりにも自分が知るシェムルの人柄らしいと、ヨアシュは微苦笑を浮かべた。
「ん? ……あれは?」
ヨアシュは客室に備え付けられていた文机の上に、小さな冊子のようなものが置かれていたのに気づいた。
何となしに、それを手に取り、開いて中を確認したヨアシュの顔に、痛烈な苦渋の色が浮かぶ。
それはシェムルが日々のたわいもない出来事をしたためた個人的な覚書であった。
その日に食べた食事のこと。新たに得た知見。友人知人との会話の内容。その日の天候。決まった様式もなく、ただその日にあった出来事をとりとめもなく書いただけのものである。
しかし、ただひとつ共通するのは、その中心には必ず蒼馬がいることだった。
ソーマが、こうした。
ソーマに、ああした。
ソーマは、そう言った。
ソーマへ、こう告げた。
ソーマなら――。
ソーマだと――。
ソーマのため――。
きれいな筆致で書かれた文章からは、如何にシェムルが私欲なく、ただひたすらに蒼馬のことを強く、そして深く想っていたかがひしひしと伝わってくる。
そして、これだけの感情を向けられた蒼馬も、同様であろう。
いや。シェムルがソルビアント平原で暗殺されかけた後の蒼馬の変調を聞けば、さらに根深いものすら感じさせる。
それだというのに、その相手をよりにもよってジェボアがだまし討ちも同然に奪い去ってしまったのだ。
ヨアシュは文机の上に両手を突くと、がっくりとうなだれる。
その脳裏には、箍が千切れ、バラバラになった桶の中から無数の蛸の触腕を持つ醜悪な怪物があふれ出す光景が思い浮かぶ。
自身の想像に恐怖で震えるヨアシュの唇から、か細い声が洩れた。
「海魔が、解き放たれる……!」




