第15話 予兆
「シェムル! 君が行ってくれ!」
突然の蒼馬の言葉に、シェムルは目をぱちくりとさせる。
「私が、か?」
「そうだ! 君がマーマンのところへ行って、彼女たちに参戦してもらうように促して欲しい」
戸惑うシェムルに、蒼馬は力強く断言した。
もはや西域の国政に関わる者たちの中で、エルドアの王佐の存在を知らぬ者はいない。蒼馬の第一の臣であり、蒼馬自身がその半身とすら認める王佐である彼女の意思は、今や蒼馬のそれと同一とさえ目されていた。
そんなシェムルならば、十分に蒼馬に代わる国の代表として認められるだろう。
それでいて王佐という地位は、蒼馬あってのものだ。彼女を知る者ならば決してあり得ないと承知しているが、万が一にもシェムルが聖戦軍を恐れてひとり逃亡したとしても、大勢に影響を及ぼすこともない。
「ちょ、ちょっとお待ちください!」
そう声を上げたのは、ゾアンの弓使いファグル・グラシャタ・シャハタである。
本来ならば蒼馬の護衛を務める彼に発言する権限はない。また、それをシャハタも重々承知しており、これまで護衛の任務を逸脱することなく務めてきたのである。
しかし、それでもなおシャハタは声を上げずにはいられなかった。
「御子様――いえ、王佐様が交渉に向かうのは、いかがなものかと……」
シェムルのその愚直すぎる性格は、交渉事には向いていなかった。
まずもって虚勢を張ったり、脅したり、なだめたり、情に訴えたりといった駆け引きができない。また、相手の真意や要求がどこにあるかといった腹の探り合いができるほど器用でもなかった。
さらには気が短く短絡的な性格は、もはや致命的である。実際に、先のソルビアント平原の反乱の際には〈尾の氏族〉のデール・ガルルク・バドゥを挑発してガラムかズーグと決闘させようとしたところまではいいが、蒼馬を侮辱されたとたんブチ切れて自身が決闘に挑んでしまっていた。それは結果としては、《静かなる尾》デール・ガルルク・シェンガヤの介入によって事なきを得たが、一歩間違えればシェムルは命を落としていただろう。
これが同じゾアンが交渉相手ならば、その愚直で短絡的な性格も、剛毅果断であると戦士の美徳として捉えられることもあるだろうが、他の種族が相手ではそうも行かない。
特にマーマンは七種族の中においては、腹黒でしたたかな種族とされている。それとシェムルを交渉させるなど破綻するのが目に見えていた。
「おい、シャハタ。それはいったいどういう意味だ?」
「そうおっしゃられても。――なぁ」
返答次第によっては殴るぞ、と言わんばかりのシェムルに、シャハタは慌てて隣にいたモラードに同意を求める。突然水を向けられたモラードは、その巨体に比して小さい目をぱちくりとさせた後、首をふるふると震わせた。
「おらに言われても、困るだよ」
ふたりの反応に全身の毛を逆立てて不満をあらわにするシェムルに、蒼馬は苦笑いを洩らす。
「私も交渉自体をシェムルに任せるつもりはないよ」
蒼馬がそう言った途端、逆立てていたシェムルの毛がしおれたように力なく垂れる。思わぬ臍下の君の裏切りに、唇を尖らせ、すねた目でこちらを睨むシェムルに、蒼馬は微笑みかける。
「私がシェムルに求めるのは、私の半身としての役割だ。私の代理としてマーマンに聖戦軍との戦いへの参戦を呼びかけ、その同盟を結ぶ。交渉自体は他の人ができても、私の代理は君しか務められない」
そこで蒼馬は「えへん」と咳払いしてからシェムルに告げる。
「私の第一の臣にして、私の半身たるファグル・ガルグズ・シェムルよ。私の代理として、マーマンとの交渉へ赴いてくれ」
誰よりも蒼馬を臍下の君として敬愛するシェムルにとって、これほどの殺し文句はない。
誰もがふたつ返事でシェムルがマーマンとの交渉に赴くことを承諾すると思っていた。
ところが、である。
シェムルは他種族にもそれとわかるぐらい顔をしかめ、腕組みをすると、「ぐむむむ」とうなり始めたのであった。
これには快諾してもらえるとばかり思っていた蒼馬も驚いた。
「ど、どうかしたの、シェムル? これこそ私の半身の役割じゃないか。私が誰よりも信頼して任せる重大な任務だよ?」
予想外の事態にわずかながら焦りを浮かべて言いつのる蒼馬をシェムルはジトッと据わった目で見やる。
「おまえ。そう言えば、私が一も二もなく承諾すると思っているだろう」
図星である。
蒼馬は、うっと言葉を詰まらせた。
その蒼馬の様子に、シェムルは鼻にしわを寄せる。
「心外だな。私はそんなに単純ではないぞ」
シェムルは、ちょろい。
そんな認識を共有するその場に居合わせた者たちの間に、微妙な空気が流れた。
しかし、その空気に気づかぬシェムルは、キッと眦をつり上げると、蒼馬の胸を人差し指で突く。
「いいか? おまえは私が目を離すと、ろくなことをしない。私はそれが心配で心配で、とてもじゃないがおまえの傍を離れられないのだ」
シェムルの剣幕に押されながらも蒼馬は抗議する。
「で、でも。シェムルが行ってくれないと困るんだよ」
「それはわかっている! わかっているのだが……」
シェムルは再び腕組みをすると、うなり始めたのである。
この予想もしていなかったシェムルの反応に、困り果ててしまった蒼馬は救いを求めるように、その場に居合わせた者たちを見回した。
「王佐様。どうか、私どもをお信じいただけないでしょうか?」
すると、蒼馬の求めに応じて、シェムルに呼びかけたのはエラディアである。自分へ目を向けるシェムルに対し、エラディアは自身の胸に手を添えて、決然と言う。
「この命に懸けて、決してあのような失態は二度と犯しません」
蒼馬は、小さく目を見開いた。
エラディアがそこまで言えば、いくら鈍い蒼馬とてシェムルが何を心配して悩んでいるか察せられる。
以前、同様にシェムルが傍を離れた際に、蒼馬はバルジボア王セサルに操られたガジェタによって刺され、危うく命を落とすところであった。
そして、シェムルは再び同じようなことが起きることを懸念していたのだ。
シェムルにとって蒼馬は、その身も心もすべてを捧げた臍下の君である。その臍下の君に向けられた刃はことごとく打ち払い、それができなければ我が身を盾にして守らなくてはならない。
それだというのに、ガジェタの凶刃によって蒼馬が瀕死の重傷を負ったあの一件は、シェムルにとって生涯最大の痛恨事である。
たとえそれが自身の不在の折とはいえ、シェムルはそれを言い訳にはしたくなかった。誰もが口をそろえてシェムルの責任ではないと言っても、シェムルだけはそんな大事なときにこそ蒼馬の傍にいなかった自分が許せないのだ。
それだけに、再び蒼馬の傍を離れることをシェムルは受け入れがたかった。
しかし、それと同時に彼女も馬鹿ではない。蒼馬の予想どおりに聖戦軍が軍を分けて海路を使ってジェボアから侵攻してくれば、エルドア国が窮地に陥ってしまうことぐらいはわかっている。そうならないためにも、何としてでもマーマンの協力を得なくてはならないのだと理解していた。
そのため、シェムルは否とも諾とも言えず、苦悶していたのである。
「ねえ、シェムル」
そんなシェムルが自身を想う気持ちに、胸が暖かくなるのを感じながら蒼馬はシェムルに語りかけた。
「私だって二度とあのようなことはゴメンだよ。でも、エラディアもシャハタもモラードも、二度とあのようなことが起きないように万全の態勢を整えてくれているから私は心配ないよ」
エラディアは微笑をもって、シャハタは力強くうなずき、モラードはコクコクと頭を上下に振って蒼馬に同意を示した。
それでもシェムルは「それはわかっているのだが」とまだ踏ん切りがつけられない。
そんな彼女に蒼馬は苦笑する。
「それにむしろ危険なのは君の方だ」
蒼馬の言葉に、シェムルは小さく目を見開いた。どういうことかと目で問うシェムルに、蒼馬は説明する。
「すでにジェボアの商人ギルドはこの国を見限っている。そんなジェボアへ行って、マーマンの島へ渡る算段をつけなくちゃいけないんだよ。命がけになるかもしれない」
蒼馬は口では命がけと言ったものの、実際にその危険性は極めて低いと考えていた。
ジェボアが聖戦の情報を秘匿して買い占めはしても、聖戦軍に足並みを合わせて侵攻してこないのは、あくまで彼らは儲けを優先する商人だからである。彼らは聖戦によって儲けるつもりであっても、自らが聖戦へ参加する危険を冒すつもりはさらさらないのだ。
また、ジェボアの商人ギルドは十人委員と呼ばれる十人の豪商たちの合議制を取っているため、必ずしも一枚岩ではない。十人委員の中には、苦境に陥ったエルドア国に恩を売りたいと考える者もきっといるはずである。
それならば、金さえ支払えばマーマンの島へ渡る船の手配ぐらいは容易だろうと蒼馬は考えていた。
しかし、それを証明する確たる情報がないため、あえてそれを秘したまま蒼馬はシェムルを説得する。
「それでも何としてでもマーマンの島へ渡り、テーテュース女王にこの国への支援を確約させなくっちゃいけないんだ。頼む。シェムル。君が――君だけが頼りなんだよ」
「どうしても私が行かないと駄目なのか? クソジジイとかではいけないのか?」
シェムルの提案に、蒼馬は「ダメだ」と即答した。
「この一刻を争う状況で、マーマンから提示される条件に一々私の確認や承諾を得るために伝令を行き来させる余裕なんてかけらもない。交渉そのものは他の人に任せられても、その場に国を代表する人がいなければ駄目なんだ」
そして、蒼馬はひたりとシェムルの目を見つめて言う。
「頼む、シェムル。君だけにしか頼めないんだ。君が行ってくれ」
その瞬間、シェムルの目がカッと見開かれ、全身の毛がぶわりと逆立った。
その身を駆け巡る興奮をなだめるように、シェムルは大きく息を吐く。
「そこまで臍下の君に言われれば否とは言えん。――わかった。我が臍下の君の代役として、マーマンのところへ行こう」
ようやく承諾が得られたことにホッと胸を撫で下ろす蒼馬の前で、シェムルは自分たちのやりとりを見守っていたエラディアたちへと向き直る。
「エラディアに、《穿つ牙》に、モラード」
シェムルの声に含まれた真摯な響きに、三人は我知らず居住まいを正した。
「この〈牙の氏族〉ガルグズの娘シェムルは、あなたたちへ請い願う。これにあるソーマは、私の臍下の君である。我が魂の主である。私のすべてである」
シェムルは三人へ深々と頭を下げた。
「それが如何なる敵であろうと、それが如何なる病であろうとも、それが如何なる災いであろうとも、それらから蒼馬を護って欲しい。それが叶うのならば、私は如何なる代償も支払おう」
この切実な訴えに、エラディアが三人を代表して答える。
「王佐様の代償など不要のものにございます。なぜならば、ソーマ陛下がご無事であられることは、私たちにとっても共通の願いなのですから」
◆◇◆◇◆
「やはり、私は心配でならない。私が行かなくても、どうにかならないのか?」
シェムルがマーマンのところへ赴くと決まったその翌日である。
マーマンと同盟を締結して一刻でも早く帰国したい。
そんなシェムルの意向から、いまだ太陽がその姿を表さず、ようやく東の空が白み始めたばかりという、この払暁のときに出立しようという彼女を王都ホルメニアの外まで見送りに来た蒼馬を前に、シェムルはこの期に及んで駄々をこね始めた。
以前のソルビアント平原の反乱のときの焼き回しのようなやりとりに蒼馬は苦笑する。
「だから、私は大丈夫だって。――それよりもシェムルこそ気をつけてね。小狡いジェボアの商人のことだから、聖戦軍とこの国を両天秤にかけてはいても、完全に敵対してこないとは思う。だけど、くれぐれも油断しないようにね。それと王都に寄ってテーテュース女王への贈り物を受け取るついでに、必ずソロンさんから助言を聞いて行くんだよ」
ソロンの名前にシェムルは盛大に顔をしかめる。
「ぐむむ……。あのクソジジイから助言をもらわないといけないのか」
根っからのソロン嫌いであるシェムルであったが、今は個人の好悪の感情などにこだわっている場合ではない程度は理解していた。シェムルは、自身の感情を振り切るように声を張り上げる。
「わかった! 贈り物を受け取る! クソジジイから助言をもらう! そして、マーマンと同盟を結ぶ! そうすれば良いのだろうっ?!」
「そうだよ。頼んだよ、シェムル」
そう言ってから蒼馬は顔を曇らせる。
「でも、くれぐれも無理はしないでね。マーマンには友好的な中立さえ保ってくれれば、同盟まで結べなくても良いんだ。それよりも君が無事に帰ってくれないと私が困る。何しろ、君は私の半身なんだからね」
「おまえこそ心配するな、ソーマ。すべて私に任せておけ!」
蒼馬の懇願するような言葉に、つい先ほどまで自分が駄々をこねていたのも忘れ、シェムルは自信満々に胸を張る。
「この〈牙の氏族〉、ガルグズの娘、シェムルは父祖の名誉と我が誇りにかけて、臍下の君であるおまえに誓おう! 必ずやマーマンたちと同盟を結び、西からの聖戦軍の脅威を食い止めて見せる、とな! だから、後方は心配するな! おまえは目の前の敵に集中しろ!」
シェムルの言葉は何の保証もないものである。
だが、蒼馬にとって如何なる保証よりも、シェムルの言葉ほど信頼できるものはない。
蒼馬は笑顔を浮かべる。
「わかった。頼んだよ、我が半身よ」
「任されたぞ、我が臍下の君よ! ――では、行ってくる!」
そう言うなりシェムルは踵を返すと四つ足となって駆け出した。その後を護衛となるゾアンの戦士たちが続いていく。
護衛のゾアンの戦士たちを引き連れて、西へ向かって駆けていくシェムルの姿を見送る蒼馬だったが、そのとき一陣の強い北風がふたりの間を吹き抜けた。その風に乗って舞い上がった砂塵が東の果てから顔を覗かせたばかりの朝焼けの陽を浴びて赤く染まる。
蒼馬は、その光景に目を見張った。
風の中で舞い踊る赤く染まる砂塵が、あたかも燃え上がる炎のように見えたのである。
その中へ消え去ろうとするシェムルの姿に、蒼馬は無意識に手を伸ばす。
「シェムル……!」
しかし、その声はシェムルには届かず、砂塵が吹き抜けた後には、すでに彼女とゾアンの戦士たちの姿は見えなくなっていた。
言い知れようのない不安と恐怖が胸の奥底から湧き上がるのに、しばし蒼馬はただ呆然とその場に立ち尽くすしかなかったのである。
そんな彼を嘲笑うように、どこからか少女の狂った笑い声が聞こえて来るような気がした。
◆◇◆◇◆
海洋交易国家ジェボアから南東へ四クイリ(およそ十二キロメートル)のところに位置する海のまっただ中に浮かぶ大きな島。
そこはセルデアス大陸に住まう七種族の中で海の王者と呼ばれるマーマンが住まう島である。
その島の岸壁に、ぽっかりと口を開けた洞窟。そこは島を訪れる他種族を迎え入れるための船着き場である。その船着き場から洞窟の通路を抜けたところにあるのが、「女王の間」だ。
不用意に立とうものならば足を滑らせてしまうほど滑らか磨き上げられた女王の間の床には、天井近くにある亀裂から流れ落ちてくる海水が人の足のくるぶしほどに溜まっている。その海水を蹴散らしながら、ひとりのマーマンが「女王の間」へと文字どおり滑り込んで来た。
「テーテュース女王陛下に拝謁いたします!」
そう声を張り上げたのは、長い銀髪を後頭部でひとつにまとめた凜とした顔つきの女性である。
彼女の名前は、オルガ。
この島のマーマンの戦士たちを束ねる戦士長である。
「……また、ですか。オルガ」
玉座となる巨大な珊瑚に座るマーマンの女王テーテュースは、目の前でひれ伏すオルガをうんざりとした目で見やる。
しかし、それも無理はなかった。
ここ最近、オルガは毎日のように謁見を求め、同じことを奏上するのである。融通が利かない堅物ではあるが、生真面目で戦士長としての職務を実直にこなすオルガの性格を認めているテーテュースであったが、この度重なる奏上はいくら何でも度が過ぎていた。
だが、オルガは女王の不興を買っているのは承知の上で訴える。
「テーテュース女王陛下には、ご再考を嘆願いたします!」
呆れるテーテュースの前で、オルガは昨日と変わらぬ口上を述べる。
「エルドアの王ソーマ様には、かつて末姫アドメテー様をお救いいただいたご恩がございます。また、それ以降も彼の方が興されたエルドア国とは交易によって結ばれ、それによってこの島は豊かになり、民の生活も向上――」
「それはもう聞き飽きました」
すでに、これまで何度となく繰り返されてきた文言に、テーテュースはうんざりした顔でオルガの奏上を止めた。それから、なだめるように穏やかな口調でオルガを諭す。
「オルガ。妾が何度も言ったように、すでに決したことなのです。かつて私たちは縁を持つ国に肩入れしたがために帝国によって故郷を追われ、この地まで落ち延びねばならなかった。その悲劇を繰り返すわけにはいかないのです。もう、諦めなさい」
それでも「ですが……」と言い募ろうとするオルガに、テーテュースは声に剣呑なものを含ませて言う。
「それを不服と申すならば、良いでしょう。おまえの戦士長の職を解き、追放せざるを得ませんね。――いえ。それだけにとどまりません」
そこでテーテュースは、チラリと女王の間の壁際へと視線を向ける。
そこにいたのは、先ほどから心配げにテーテュースとオルガのやりとりを見守っていた女王テーテュースの第三女――マーマンの末姫であるアドメテーであった。
「女王たる妾に逆らう罪は、おまえが後見人を務めるアドメテーにも累が及ぶと心得なさい」
オルガは、さっと顔を青くした。
彼女にとって異母妹のアドメテーは自身の命よりも大事な人である。急所と言っても良い。いくらエルドア国へ恩義があろうとも、我が身だけならばともかくアドメテーを巻き込むわけにはいかなかった。
「諦めなさい、オルガ」
そんなオルガにテーテュースは口調を和らげて語りかける。
「妾たちマーマンは、エルドア国と破壊の御子を見捨てるのです」




