第12話 リュッベン攻囲戦3-五本指
人間の神の御心に従い、邪教徒を打ち倒して、我こそが栄えある人間の神の勇士とならんという者は名乗り出よ。その勇敢なる者には、富と栄誉がもたらされ、喜びの野への道が切り開かれるであろう。
掠奪の限りが尽くせると思っていたルイズベンの街が落とせず、早くも食料がなくなり飢餓が起こり始め、暗澹たる空気に包まれていた民衆聖戦軍の人々にとって、それは福音のように聞こえた。
そうして、その呼びかけに応じてルイズベンの北に集まったのは、三千人にもなろうという人数の男たちである。
彼らは期待と興奮とで、我こそが勇者となり富と栄誉を手にせんと当初は気炎さえ上げていた。
ところが、集められた男たちの前に現れた男の第一声で、その期待と興奮に冷や水が浴びせかけられる。
「俺様が、クロゥ・カァン・バグルダッカである!」
カーディナル帝国において、《暴君》の暴虐ぶりを知らぬ者はいない。集まった男たちの心情としては、天国の門を叩いたつもりが、それが地獄の門だったようなものである。
顔を蒼白にする男たちを前に、クロゥは満面の笑みで宣う。
「勇士たちよ。よくぞ、集まってくれた。人間の神への信心も篤く、勇敢なる者たちがこれだけいれば、あのような邪教徒どもの街など簡単に落とせよう!」
すでに二十日も経過しているにもかかわらず、街へ攻め入るどころか河を越える見通しすら立てられずにいるというのに、それを簡単に落とせると公言するクロゥに、男たちはどよめいた。
クロゥは暴君として知られた男だが、それと同時に数々の戦いで帝国に勝利をもたらしてきた戦巧者としても知られている。
そのクロゥが、そう言い切るのだ。
何かすごい策でもあるのだろう、と男たちは期待した。男たちの代表が「恐れながら」とクロゥに尋ねる。
「私たちは人間の神の忠実なる下僕として命を惜しみません。すべては大公閣下のご指示に従いましょう。――それで、私たちはどうすれば?」
「ふむ。そうだな――」
クロゥは腕組みすると、顎髭を撫でさする。
それからおもむろにルイズベンの街を指し示した。
「あそこにある、物見櫓はわかるか?」
クロゥの指し示す方を見れば、確かに河を挟んだ対岸に築かれた土塁の向こう側に、聖戦軍の動きを見るために建てられた背の高い物見櫓が見えた。
あれが何かと目で問う男たちに、クロゥはニカッと笑う。
「あの物見櫓に向けて、とにかく真っ直ぐ突っ込め」
沈黙が舞い降りた。
予期せぬクロゥの言葉に唖然とした男たちだったが、言葉の意味が理解されていくに従い、徐々にざわめき出す。
それでも笑みを崩さないクロゥに、男たちの代表が恐る恐る尋ねる。「恐れながら大公閣下。船も橋も見当たりませんが、私たちは河をどう渡ればよろしいのでしょうか?」
「うむ。安心しろ。俺様が調べたところ、あそこだけは水深も浅く、歩いて渡れる深さなのだ。俺様も援護してやろう。恐れず進むが良い」
クロゥは、ニコニコと笑いながら答えた。
男たちの代表は嫌な予感を覚える。
「そ、それでは武器はどうすれば? 私たちは剣も槍もございません」
「そこらの棒きれを拾え。それがなければ拳があろう。人間の神の御加護があれば、棒きれすら伝説の名剣となり、拳は城壁すら打ち破る巨鎚となるであろう」
変わらずクロゥはニコニコと満面の笑みで答えた。
男たちの代表はさらに食い下がる。
「防具! 防具がございません! たとえ武器があっても防具がなければ……」
それにクロゥはしばし思案する。
「そうだな。――よし、上着を脱げ」
唐突に上着を脱げと言われた代表は、素っ頓狂な声を上げる。
「う、上着をですか?」
「そうだ。早くしろ」
ようやくこのときになって男たちの代表は、こともなげに答えるクロゥの満面の笑みの中で、自分らを見下ろす目が無価値のゴミを見るような冷めたものであることに気づいた。
恐怖にかられた代表は大慌てで上着を脱いだ。
「脱いだ上着の裾を固く縛れ。それが終わったら襟ぐりから、土を入れろ。次に左右の袖を結んで輪を作れ。それを首から掛けろ」
代表はクロゥに言われるがままに脱いだ上着に土を詰め、それを首から掛けた。
「見ろ。立派な胸甲の完成だ!」
クロゥは空々しく拍手を打つ。それに合わせて周囲にいたバグルダッカ大公国軍の騎兵たちも手を叩き、はやし立てた。
これには男たちの代表も思わず抗議の声を上げる。
「い、いくら大公閣下とはいえ、これはあまりの仕打ちではございませんか!」
クロゥは、ついっと指を一振りする。
すると、後ろに立っていた長男のジュルチが無言で腕を振り上げた。その手に握られたのは、赤子の頭ほどもある鉄球が先端につけられた鈍器の柄である。鉄球には鉤状の突起と、その反対側には鳥の曲がった嘴のような刃がついていた。その刃を向けて鈍器の鉄球が男たちの代表の頭に振り下ろされる。
何十個もの卵をいっせいに叩き割ったような音とともに、男たちの代表の頭が叩き潰された。
血と脳漿を撒き散らしながらくずおれた代表の死体を指さし、クロゥは「どうだ」と言わんばかりに声を張り上げる。
「見ろ! 頭は潰れたが、胸甲のおかげで胴体は無事だ!」
無茶苦茶な言い分である。
しかし、もはや誰も抗議の声を上げることができない。
さらにクロゥは招くように人差し指をクイクイッと動かすと、ジュルチは従兵から受け取った短めの槍――投槍を父親へ手渡した。
クロゥは投槍の感触を確かめるように二度三度振るう。
それから鋭い吐息とともに投槍を投じた。
山なりの曲線を描いて飛んだ投槍は、最後列でこっそり逃げようと背中を向けていた男に命中する。投槍は男の身体を貫通し、そのまま地面へ突き立った。まるでピンで留められた標本の虫のようになって絶命した男の死体に、同じように逃げようとしていた男たちは背筋を震わせる。
クロゥから男までの距離は直線でおよそ五十メルト(約五十メートル)ほどであった。それを助走もつけずに上半身のひねりと腕の力だけで無造作に投げ、それでいて人体を貫通させる、その威力。
そして何よりも、間には数百人もの男たちが壁のように立っており、そのわずかな隙間からしか見えなかった目標へ正確に投槍を命中させられる力。
投槍を投じたばかりの右手の甲で、人間の神の御子であることを示す刻印をギラギラと輝かせながら、クロゥは獰猛な笑みを浮かべる。
「胸甲がないと、こうなる」
それからクロゥは恐怖に顔を青ざめさせる男たちへ向けて言う。
「みんな、俺様の言うとおりにやってくれるだろうな?」
もはや誰からも否やは上がらなかった。
◆◇◆◇◆
「真っ直ぐ突っ込め。躊躇ったり、目標から逸れたりすれば、それは人間の神への信仰心がない背教者と見做す。――わかったな?」
棒きれと土嚢の胸甲で武装した男たちに向け、クロゥは野良犬でも追い払うようにぞんざいに手を振る。
「さあ。さっさと行ってこい」
しかし、男たちは互いの顔を見合わせるばかりですぐには動こうとはしない。クロゥはため息をつくと、右腕を大きく振り上げる。それを合図に後方にいたバグルダッカ大公国軍の騎兵らが、いっせいに音を立てて弓に矢を番え、それを引き絞った。
それを背にしてクロゥは、歯を剥いた笑みを浮かべる。
「行け」
その一言で男たちは悲鳴を上げ、尻に火が付いたようにして目印の物見櫓に向けていっせいに走り出した。
「目標から逸れるなよ! 真っ直ぐだ、真っ直ぐ物見櫓を目指せ! 河を渡れる浅瀬は、そこしかないぞ! それ、行け行け!」
やけっぱちの鬨の声を上げて涙目となってルイズベンへと駆けていく民衆聖戦軍の男たちの背中へ向けて、手を叩いてはやし立てていたクロゥだったが、脇に控えていた長男のジュルチの問いかけるような視線に気づく。
「あぁん? どうかしたか?」
ジュルチは何も答えなかったが、その目が一瞬だけ民衆聖戦軍の男たちが真っ直ぐと向かう河に向けられたのに、クロゥは察する。
「ああ。あの河に人が渡れる浅瀬があるのか気にしているのか?」
父親の言葉にジュルチは無言でうなずいた。
伝令兵で状況を確認したり、斥候を放って偵察したりはしていたが、ここへは昨日到着したばかりである。その後も別段、河の深さを確かめるなどはしていなかった。
「そんなものは――」
長男の疑問にクロゥは歯を剥き出しにした笑みを浮かべる。
「――これからできるに決まっているだろうが」
それからクロゥは配下の騎馬軍団に振り返る。
「さて、哀れな愚民どもを援護してやろうか。――始めさせろ」
ジュルチは無言のままコクリとうなずくと、その太い右腕を大きく上げた。
するとバグルダッカ大公国軍の騎兵たちが、いっせいに馬を走らせ始める。騎兵たちの馬の鞍に結ばれた長い紐の先には束ねられた枝葉が縛られており、それを引きずりながら彼らは大きく円を描くようにして馬を走らせた。
すると、馬蹄と引きずられる枝葉とによって砂塵がもうもうと巻き上がる。それがさらに強い北風に煽られて、瞬く間に黄土色の強大な積乱雲のようになってルイズベンの街へと流れて行った。
その途中で砂塵の雲に追いつかれ、呑み込まれた聖戦軍の男たちはたまったものではない。
小さな石や大きめの砂粒がバシバシッと音を立てて当たり、後頭部や背中が痛みを訴えてくる。そればかりか、いくら後方から吹き付けてくるとはいえ、あまりの砂塵の濃さにまともに目も開けられず、ほとんど前が見えなくなってしまった。
おそらくは河の対岸から迎撃の矢が飛んできているのであろう。風を切って何かが飛んでくる音とともに、時折苦鳴の声と人が倒れる音が聞こえて来る。
しかし、それでも男たちはクロゥ怖さに、砂塵の雲の中からうっすらと見える物見櫓の影を目標にひたすら前へと進んで行った。
そして、ついに先頭集団が河に到達する。
男たちは水を蹴立てて河へ足を踏み入れたが、ほんの五歩も進む間に河は深さを増して水は腰まで及んだ。
本当に渡れる浅瀬が続いているのか。
先頭を駆けていた男は、そんな疑念とともに踏み出した足が川底を捉えられずに水面に倒れ込んだ。突然のことに息を止める間もなく水を飲んでしまった男は恐慌状態に陥った。川底が断崖のようにして急激に深くなった河の深みに落ちてしまったと理解する余裕もなく、男はただ闇雲に手足をばたつかせ、水から出ようともがき、あがく。
しかし、首から提げられた胸甲とは名ばかりの土嚢が重しとなって浮かび上がるのを許さず、また男も恐慌状態のあまり土嚢を首から外すということすら考えつかなかった。
さらにそんな男の上に後ろからついてきていた男たちが次々と降ってくる。同じくもがき苦しみ振り回された男たちの手足に胸を突かれた男はわずかに残っていた肺の空気を吐き出してしまう。そして、その代わりに大量の河の水が男の肺へと流れ込んだ。
それに刺激を受けた気管や肺は反射的に咳き込もうとするが、流れ込む大量の水の前には無意味な痙攣を繰り返すだけにしかならない。
そして、そんな苦悶の中で男の意識は次第に消え去り、その身体は川底へと沈んでいった。
◆◇◆◇◆
地面に寝転がり高いびきを立てて昼寝をしていたクロゥは、自分の顔にかかった人影に目を覚ます。
「んあ? そろそろ頃合いか?」
脇に立つジュルチが無言でうなずくのに、クロゥは上半身を起こすと大あくびをしながら身体を伸ばした。
「ふたりを呼んでこい」
寝ぼけ眼をこすりながら父親に命じられていったんその場を離れたジュルチは、程なくしてふたりの男を連れて戻ってきた。
「おまえたち、準備はできているか?」
クロゥはやってきたふたりに問いかける。
「ああ。いつでも行けるぜ、親父」
そう答えたのは、ふた振りの曲刀を背負った若い男である。日に焼けた褐色の肌に、切れ長の目、細い眉、すうっと通った鼻梁。黙って真面目な顔をしていれば女たちが騒ぐであろう野性的な美男子であった。
だが、その整った顔の下からは隠しきれない性根の野卑さと軽薄さがにじみ出している男の名は、ノフシュ。クロゥの次男である。
「愚民どもを馬蹄で踏み潰すのは慣れている。それに適度に土嚢も入っているんだろ? なら、問題ないさ。――なあ?」
ノフシュが同意を求めたのは、一緒にやってきたもうひとりの男であった。
ひょろりとした長身痩躯の男である。その高い背を猫背に丸め、異様に長く太い腕を地に着けんばかりにだらりと下げた男は、仮面のように表情をピクリとも変えぬ面長の顔の中で、皿のように丸く大きな目だけをギョロギョロと忙しなく動かしていた。
ノフシュに問われたその男は、固くへの字に結んでいた口をわずかに動かし、ボソボソと言う。
「ああ。二の兄貴の言うとおりだ。問題ない」
男の名前は、ムーハイヌン。クロゥの三男である。
息子たちの答えにクロゥは地面の上であぐらを掻いていた膝をひとつ打った。
「よし。ならば、おっ始めるぞ」
そう言って立ち上がった父親に、ノフシュは下卑た笑みとともに尋ねる。
「なあ、親父。中に入ったら、俺たちの好きなようにしていいんだろうな?」
「当然だ」
クロゥは間髪を入れずに答えた。
「殺し、犯し、奪う。それこそが戦というものだ」
ノフシュは軽薄な口笛をひとつ吹くと、舌なめずりをして見せる。
「ありがてぇ。――おい、ムーハイヌン。あんまり女を殺すなよ。女は俺のもんだからな。そろそろ補充しないとならねぇんだ」
このノフシュは、父親のクロゥに輪をかけた好色漢である。これまで犯した女の数は千は下らないとノフシュは豪語するが、これを聞いたバグルダッカ大公国の領民たちは誰もが口を揃えて「そんな少ないはずがない」と言うのだから、その好色ぶりが知れよう。
そんなノフシュへ弟のムーハイヌンはボソボソとした声で抗議する。
「二の兄貴は女を使い潰しすぎだ。俺だって欲しい」
ノフシュはただの好色漢ではない。刃物で女の肌を切り刻み、その血にまみれて女を犯すのが趣味という根っからの加虐性欲者でもあった。
弟の抗議にノフシュは舌打ちする。
「てめえよりは長持ちさせてるよ。女は俺のものだ。代わりに、ガキはおまえにくれてやる」
兄の言葉に、ムーハイヌンは皿のようにまん丸の大きな目を細い糸のように細め、固くへの字に結んでいた唇を耳まで裂けるように吊り上げる。
それは異様な笑みであった。
誰もが生理的な嫌悪を抱かざるを得ない異様な笑みであった。
「ああぁ。小さい子が良い。肉の柔らかい、幼い、小さな子が良いなぁ」
そして、このムーハイヌンは女子供の柔らかい肉を矢で射る感触に喜悦を覚える変態であった。
このいずれも父親にも負けず劣らずの異常性を発露させる長男ジュルチ、次男ノフシュ、三男ムーハイヌン。
さらに帝国の地に残してきた長女と四男を加えた五人のクロゥの子供たち。
彼らはいずれも戦場においてはバグルダッカ大公国軍の騎馬軍団を率いる将であり、悪逆無道なるクロゥの意思を実行する暴君の手先――暴君の《五本指》と呼び、恐れられる者たちであった。
クロゥは息子たちと騎兵らに向けて大きく両腕を広げ、獰猛な笑みを浮かべてみせる。
「さあ、戦だ! 戦だ! 思う存分、殺し、犯し、奪え!」
クロゥの息子たちとそれに率いられるバグルダッカ大公国軍の騎兵たちは、興奮と欲望に目をギラつかせたのだった。
◆◇◆◇◆
「いったい何がどうなっていやがる」
前から吹きつける砂塵混じりの風を前に、手で目庇を作って目を細め、胸の内で小さく悪態をついたのはルイズベンの街の筆頭騎士である。街の南側に築かれた土塁において騎士や従兵に民兵まで加えた五百あまりの兵の指揮を執り、これまで二十日以上にわたり聖戦軍の猛攻をしのいできた。だが、今朝から始まったのは、これまでにない聖戦軍の攻撃である。これには筆頭騎士も不安を覚えずにはいられなかった。
しかし、そんな不安を吐露するわけにもいかず、表向きには豪胆に振る舞う。
「これはただの目くらましにすぎん! いつもどおり矢と投石で渡河しようとする帝国の奴らを追い返せっ!」
筆頭騎士の命令で、兵たちは吹きつけてくる砂塵に苦心しながらも、必死になって矢を放ち、石を投げる。
視界が利かないため戦果は確認できない。しかし、砂塵の向こう側から聞こえてくる悲鳴や苦鳴は予想よりも多く、十分に効果が上がっていると思われた。
だが、油断はできない。同じく聞こえてくる激しい水音が、徐々にこちら側に近づいてきているのだ。
これは敵がいよいよ損害を顧みず、数に任せた総掛かりで攻めてきたな、と筆頭騎士は判断する。
「敵は泳いで河を渡って来ているぞ! 民兵たちは、そのまま投石を続けろ! 騎士と従兵らは槍を持て! 奴らを迎え撃つぞ!」
これまで渡河途中で撃退できていたため、これまで聖戦軍と直接に干戈を交えたことはない。それに不安をにじませる兵たちに、筆頭騎士は努めて明るい声を上げる。
「恐れることはない! 敵は流れる河を横断して泳いできたのだ! 体力を使い果たし、満足に立つこともできん! そんなヘロヘロの弱兵など、子供とて倒せよう! 手柄をあげよ! 最も敵を多く倒した者は、今晩は俺がおごってやるぞ!」
この筆頭騎士の鼓舞に兵たちも奮い立った。
いつ敵が押し寄せてきても迎え撃てるように、ルイズベンの兵たちは槍を握りしめて待ち構える。
ところが、なかなか敵がやってこない。そればかりか聞こえてくる敵の悲鳴や苦鳴も次第に減っていき、さらには砂塵も次第に薄れはじめていた。
総掛かりの攻めではなかったのか、それとも攻めを断念したのだろうか。
そんな希望とともに、砂塵が晴れて明らかになった河の状況を確認した筆頭騎士は、絶句する。
何と、河に一本の橋が架かっていたのだ。
いや、それは橋ではない。よくよく目を凝らして見れば、それは積み重なった人の死体の山が河を横断し、対岸とこちらを結んでいたのである。
「あいつら人の死体で道を作りやがった……!」
この常軌を逸した光景にルイズベンの騎士や兵たちが茫然自失となる中で、甲高い笛のような音が響き渡った。
音に惹かれてそちらへ目を転じれば、そこにいたのは五百ばかりの騎兵の一団――バグルダッカ大公国軍と、その先頭に立つ、鏑矢――飛翔する際に音を出す矢を放ったばかりの弓を持つ暴君クロゥ・カァン・バグルダッカその人である。
放たれた鏑矢が発した音の意味は『殺せ』。大陸中央では『死神の口笛』と呼び恐れられるバグルダッカ大公国軍の総攻撃の号令である。
「行くぞ! 俺について来い、救いようがない下種ども!」
クロゥの次男ノフシュが大声を張り上げて馬を走らせると、それに続いてバグルダッカ大公国軍の騎兵が一斉に走り始めた。
人の死体を積み上げて道を作るという常軌を逸した惨状に我を失っていた筆頭騎士だったが、騎馬部隊が押し寄せてくる光景に我に返る。
「矢だ! 矢を放てっ! それと誰かあの河の死体の山を崩――」
そう叫んだところで、筆頭騎士がのけぞるようにして後ろに倒れた。
あまりに突然の出来事に何が起きたかも理解できぬまま倒れた筆頭騎士に目を向けた部下の騎士は、筆頭騎士の被っていた兜の後頭部から一本の矢が生えるようにして飛び出ているのを見つける。
それは普通の矢ではなかった。通常の矢は肉に食い込んだ矢が抜けにくくなるように、返しのついた鏃がつけられる。ところが、その矢につけられたのは返しのない逆涙滴型の鉄の鏃であった。
しかし、それも当然である。ルイズベン側の矢の射程距離よりも遙かに遠くから放たれてなお、頭蓋骨ばかりか鉄兜までもまとめて貫通する驚くべき弓勢では、どこに当てようと人体も防具も貫通してしまうため鏃の返しは不要なのだ。
その矢を放ったクロゥの三男ムーハイヌンは、ニタァと気味の悪い笑みを浮かべると、さらに矢継ぎ早に矢を放って次々とルイズベンの兵を射殺していく。
ムーハイヌンより遅れて、ようやく射程距離に入った他のバグルダッカ大公国軍の騎兵たちも対岸に向けて矢を放った。狙いもつけずに飛距離を稼ぐために山なりの曲射で放たれた矢は、あくまで牽制のためのものである。バラバラと降り注ぐ矢には勢いもなく、ルイズベン側の被害はほとんどなかった。
しかし、戦いなれしていない民兵を多く抱えるルイズベン側は、たったそれだけで兵たちが怯えて引っ込んでしまう。
そして、その隙をついてノフシュが死体できた道へと馬を乗り入れた。
木や土ではなく、死体が折り重なってできた道である。水の詰まった堅い革袋の上で馬を走らせるようなもので、普通ならば激しく揺れる馬上から振り落とされるか、馬ごと転倒してもおかしくなかった。しかし、ノフシュは振り落とされるどころか、まるで馬上で踊るかのように上半身を上下左右に振り、今にも崩れそうな馬のバランスを取るのを助けてやるという驚きの馬術を披露する。
その姿は、まさに人馬一体。
そして、死体の道を渡りきったノフシュは手綱を捨てて背負った双剣の柄に手をかけながら、小さく「ハッ!」と掛け声とともに馬の腹に小さく蹴りを入れる。するとノフシュの愛馬は一跳びに土塁を跳び越えた。
「野郎には用はねぇ! 死にくされっ!」
空中で抜き放った双剣が、唖然とこちらを見上げるルイズベンの兵の首を刎ねる。さらに二筋の白銀の煌めきが弧を描く度に、ノフシュの周囲では鮮血が噴き上がり、断末魔の叫びがほとばしった。
そのノフシュに続き、バグルダッカ大公国軍の騎兵たちが次から次へと土塁を跳び越えてやって来る。
彼らも剣や槍などを振るい、雑草を刈り取るように次々とルイズベンの兵を殺していく。それどころか彼らの乗る馬までもが後ろ足で蹴り上げ、噛みついてくる。
このバグルダッカ大公国軍の猛威に、決死の覚悟を決めていたルイズベンの兵たちもたまらず算を乱して逃げ始めた。
「逃げるなっ! 踏みとどまれ! ここを抜かれれば街は落ちてしまうぞ!」
必死になって逃げる兵たちを押しとどめようと声を張り上げた騎士だったが、その頭が被っていた兜ごと吹き飛んだ。
それをなしたのはクロゥの長男のジュルチが騎馬ですれ違いざまに振るった鈍器である。頭部を失い、その場に落ちるように膝からくずおれる騎士の死体には一瞥もくれず、ジュルチは次の獲物を求めて馬を走らせた。
そうしてバグルダッカ大公国軍の狩り場と化した土塁の内側に、クロゥが悠々と馬を乗り入れる。
必死に抵抗する者も、逃げようとする者も、武器を捨てて命乞いをする者も関係なく鏖殺していくバグルダッカ大公国軍の騎兵たちの働きにゲラゲラと笑うクロゥの足下から声が上がる。
「こ、この外道め。……呪って、やる。呪ってやるっ!」
それは致命傷を負いつつも即死には至らなかったルイズベンの名もない兵士であった。仰向けに倒れた兵士は流れ出る大量の血を吸わせながら、消えつつある自らの命を贄として、クロゥを呪う。
自らを呪う怨嗟の声に、クロゥはニヤリと笑う。
「その台詞は聞き飽きた」
クロゥは地に横たわる瀕死の兵士の脇へ馬を進める。
もし視線が物理的な力を持つのならばクロゥの身体を射貫いたであろうほどの恨みのこもった目で睨みつけてくる兵士をクロゥは馬上から見下ろしながら乗馬の首筋を叩く。
するとクロゥの愛馬は心得たとばかりに片方の前脚を上げた。
「だが、その呪いとやらを目にしたことは一度もない」
その言葉とともに振り下ろされた馬の前脚が、瀕死の兵士の頭を踏み潰した。
この日、ルイズベンの街は暴君によって陥落させられたのであった。
今回の話を執筆中に、「第60話 ベルテ川の戦い7-英雄対凡人(前)」から使用していた愛機のポメラDM200の2代目がご臨終のため、後継機種のDM250に購入。
不具合なのかDM200と反応が少し違うので、ちょっと執筆しづらい。
でも、決して安いものじゃないので、これからも小説執筆を頑張ります。




