第9話 多頭の怪物
「ガラム、マルクロニス。少し残ってくれ」
蒼馬の指示を受けて次々と執務室から出て行く者たちの中から、蒼馬はガラムとマルクロニスを呼び止めた。
ふたりはこれからガッツェンの街にいるセティウスと合流してから、旧ロマニア国領の東部へ赴かねばならない身である。蒼馬の指示を受けた者たちの中でも、今もっとも急がねばならない者であった。しかし、それでも蒼馬は伝えなければならないことがある。
「たぶん、焦土作戦を伝えても民どころか領主や騎士ですら従おうとはしないと思う」
蒼馬の言葉に、「そうなのか?」と怪訝そうな声を上げるガラムに対し、マルクロニスは「そうでしょうな」と返した。
ソルビアント平原のゾアンは獲物である牛を追って、住居である天幕を担ぎ、集落ごと平原を転々と移動して生活する。そのゾアンであるガラムにとって、危難が迫っているのならばそれを避けて移動するのは当然のことであった。
それに比べ、マルクロニスは貧農の出身である。この場にいる誰よりも農民たちの気持ちを理解していた。
「どうしても家屋や田畑を焼くのを拒絶された場合には――」
そこで蒼馬は言い淀む。
「――ふたりがやってくれ」
ガラムは鼻にシワを寄せ、マルクロニスは眉をしかめた。
「領主や騎士らは、たぶんできないだろう。だけど、やらなくてはならない。領主や騎士ができないのならば、ふたりが家と田畑を焼き、井戸を潰してくれ。そうなれば、さすがに民たちも避難せざるを得なくなる」
ガラムとマルクロニスから目を背けることなく、蒼馬ははっきりと告げる。
「これをエルドア国の王、木崎蒼馬が王命として下す。また、そのことを明確にしておく。――頼む」
いくらやむを得ないとはいえ、焦土作戦を実際に行うことは民や領主を蔑ろにする汚れ仕事である。それを承知した上で命じた蒼馬は、ふたりの名誉を守るために、その汚れは自分がかぶるものだと言い切った。
しかし、いくら蒼馬がそう言おうと、実行役であるふたりの名誉を完全に守ることはできない。
その負い目が、最後に付け加えられた一言である。
しばしの沈黙の後に、マルクロニスが重い口を開く。
「民からは、恨まれるなどという言葉ではすまなくなりますぞ」
それに蒼馬は「わかっている」とうなずいて見せた。
蒼馬の揺るがぬ意志にガラムはひとつ大きくため息を洩らす。
「俺が領主や民を説得して回ろう」
しかし、それに蒼馬は首を横に振るう。
「たぶん、無理だと思う」
古代ローマの名将クィントゥス・ファビウス・マクシムス。
彼はローマ最大の敵と呼ばれたカルタゴの名将ハンニバルに対して、焦土作戦による持久戦に持ち込んだところ、多くのローマ市民からの批判を招き、「クンクタートル(のろま)」という汚名をかぶることになってしまった。しかも、それは「トレビアの戦い」と「トラシメヌス湖畔の戦い」という、ハンニバルによって数万のローマ兵の犠牲を生んだ二度の大敗を経験してもなおである。
彼の呼び名であるクンクタートルが「のろま、ぐず」という蔑称から「細心、周到」という敬称に変わるには、五万以上の戦死者を出し、ローマ元老院の四分の一を失ったあの「カンナエの戦い」というローマ史上最大最悪の大敗を経ねばならなかったのだ。
蒼馬は自分が知る過去の事例を挙げた上で、ふたりに言う。
「それを思えば、たった一度も刃を交えることなく焦土作戦に踏み切った私への批判は、とんでもないことになると思う」
この蒼馬の予想は当たっていた。
蒼馬が焦土作戦に踏み切ったことが周知されると、ありとあらゆる地域と階層の人々からいっせいに批難の声が上がることになる。
それは蒼馬に対して親愛の度合いが高い王都ホルメニアとガッツェンの街も例外ではなかった。見損なったや臆病になったや西域を統一するだけで才能を使い果たしたなどの蒼馬への批難が公然とささやかれ、その中には「やはりどこの誰ともわからぬ奴を王にしたのが間違いだった」などとホルメアとロマニアの王家復興すら声高に叫ばれる始末であったのだ。
「だからといって聖戦軍とまともにやり合うわけにはいかない」
蒼馬は決意とともに拳を握り締めた。
今なお語り継がれる三度の大敗を喫しても古代ローマ帝国がハンニバルに抗し続け、ついには彼を打ち破れたのは、古代ローマ帝国が当時世界最強最大の国家だったからに他ならない。それに比べ今のエルドア国では、万を越える兵を損失する大敗など、ただの一度でも堪えられるものではなかった。
「どんなに恨まれようとも批難を浴びようとも、それでもこれがもっとも被害の少ない戦い方だと私は信じている」
蒼馬は決然と言い切った。
それにマルクロニスは大きくため息をついてから、ガラムへ目を向ける。
「大将軍閣下は領主や騎士への説得をお願い致します。無理とは思いますが、やらないよりはマシでしょう。そして、民への対応は、私に任せていただきたい」
マルクロニスの言葉に、自分ひとりで汚名をかぶるつもりなのかとガラムは批難を込めてマルクロニスを睨む。
「領主や騎士への説得は、エルドアの軍の頂点である大将軍閣下という権威が必須でしょうな。しかし、避けられぬとはいえ大将軍という看板が被る泥は少ない方が良い」
そこでマルクロニスは苦笑を浮かべる。
「私も良い年齢です。そろそろ人将の職を辞そうと考えていたところです。多少泥を被ったところでさしたる問題はありませんな」
嘘である。職を辞して軍属という盾を失えば、直接に有形無形の悪意に晒されかねなかった。
しかし、それをわからぬはずがないマルクロニスが、そう言うのである。蒼馬とガラムもそこに込められた決意と覚悟を否定することはできない。
だから、ガラムはただ一言「任せた」と言った。
そして、蒼馬はただ無言でふたりに頭を下げたのである。
◆◇◆◇◆
蒼馬が聖戦軍に対して焦土作戦による抵抗を決行するという報せに、エルドア国中が騒然とした。
蒼馬たちが予想したとおり――いや、それ以上の批判が巻き起こり、拒絶が叫ばれ、怒りが湧き上がったのである。
それはまさにエルドア国中が混乱の坩堝に陥ったかのようであった。
しかし、このとき押し寄せてくる聖戦軍もまた、早くも混乱の様相を呈し始めていたのである。
もともと聖戦軍はカーディナル帝国の諸王諸侯らからなる合従軍に、決起した一般民衆たちがそれに加わった雑多な混成軍である。
聖教が神敵に認定した破壊の御子の討伐と言う目標を掲げてはいるものの、それはお題目に過ぎない。参加した者たちはそれぞれに目的を持っていた。それは例えば諸王諸侯らは掠奪によって得られる財貨であり、騎士たちは褒美として得られる領地であり、貧農たちは自分らが耕す農地であり、熱心な聖教の信者たちは宗教的な満足でありと多岐に渡っていた。
また、その指揮系統も統一されてはいない。
まず、諸王諸侯らはカーディナル帝国に属するとは言え、それぞれが独自の軍事権を有する立場だ。当然ながら、彼らはカーディナル帝国皇帝ならばともかく、他の諸王諸侯の指揮下に入るのを良しとしない。如何に聖戦とはいえ聖職者のアウストラビス大神官が総大将に担ぎ上げられているのも、諸王諸侯たちが他の王の指揮下に入るのを嫌がったからに他ならなかった。
さらに自発的に参加している民衆や黒騎士や傭兵団に至っては、指揮系統どころか、その全体を把握しているものなど誰もいなかったのだ。
そのため聖戦軍には規律や統制といったものはなく、聖戦軍内での掠奪や暴行が横行し、諸王諸侯らによる野営地の場所の取り合いによる兵の衝突や騎士同士による道を譲れ譲らぬ程度での決闘騒ぎが頻発していたのである。
このような聖戦軍の無様な実態に、アウストラビス大神官は大いに憤慨していた。
そんなアウストラビス大神官をさらに激怒させる事態が起きてしまう。
それは渡りの神官ピーターによる神聖イノセンティア王国建国の報せであった。
アウストラビス大神官の逆鱗に触れたのは、マーディバル王国を征服したピーターが神聖イノセンティア王国建国の建前としたのが、「神がそう望まれた」という言葉である。
アウストラビス大神官の信仰は狂信的であるものの、どこまでも真摯なものであった。少しでも人間の神を理解しようと努めるアウストラビス大神官にとって、人間の神の神意を勝手に推し量り、それを口実とするピーターの行いは自らの欲望のために人間の神の意志を偽るという神への大逆であったのだ。
激怒したアウストラビス大神官は、破壊の御子よりもまずは大逆者ピーターを討つべしと言い放ったのである。
しかし、それに聖戦軍の諸王諸侯らが反対した。
豊かなエルドア国の掠奪を目的とする諸王諸侯にとって、すでに民衆聖戦軍によって荒廃させられた神聖イノセンティア王国へ攻め入ってもうまみが少ない。それよりも彼らは一刻も早くエルドア国へ向かいたかったのである。
聖戦軍の諸王諸侯らがこぞって反対すれば、さしものアウストラビス大神官といえど、我を押し通せなかった。
そこでアウストラビス大神官は、ピーターに対して即刻謝罪に来るように勧告し、それに従わなければ破門を宣言すると通牒を突きつけて反省を促すだけに留め、聖戦軍そのものはエルドア国へ向かわせざるを得なかったのである。
このように西域に攻め入った聖戦軍は、目的も指揮権も統一されておらず内紛すら抱えるなど、軍としては致命的な欠陥を有するものであった。
しかし、それでもなお数十万という人間の数は、それだけでエルドア国を十分に滅ぼせる脅威であることに変わりない。
聖戦軍とは、まさに一国を押しつぶせるほど巨大な多頭の怪物であったのだ。
◆◇◆◇◆
聖戦軍が上陸したミラトス国からエルドア国へと向かう途上にある八王連合国のひとつホーグナ国では、国の重鎮であるビルグリット伯爵の行動は早かった。
この老齢の伯爵は、聖戦軍が西域に侵攻してきたという報せを受けるや否や独断で巡礼者に扮すると供回りひとりだけを連れて、果敢にもミラトス国へ侵入したのである。
そして、慎重に息をひそめて聖戦軍の情報収集に当たる中で、アウストラビス大神官とその護衛である聖堂騎士団の軍列を間近とした際に、これぞ好機とばかりに軍列の前へと躍り出たのである。
「大神官様! 西域の聖教の信者をお救いください! 人間の神の慈愛を我らにお与えください!」
軍列の進行を妨げるような行いは、その場で問答無用に斬り捨てられて当然のものである。まさにそれはビルグリット伯爵の命懸けの賭けであった。
そして、ビルグリット伯爵は賭けに勝つ。
この騒動に興味を覚えたアウストラビス大神官によって、その前に引き出されたビルグリット伯爵は自身の身分を明かした上でホーグナ国は国王から臣民に至るまで一人残らず聖教に帰依したいと伝えた。さらにアウストラビス大神官直々にそこへ祝福を与えていただければ、これに勝る喜びはないと申し出たのである。
これにアウストラビス大神官は感激した。
この直前にはピーターが勝手に教王を名乗り、信徒たちの身勝手な行いに不満を抱いていたところである。そんなところへもたらされた国ひとつが聖教に帰依したいという話は、アウストラビス大神官にとって福音にも等しかった。
アウストラビス大神官はビルグリット伯爵とホーグナ国を賞賛し、祝福を与えることを快諾したのである。
さらにビルグリット伯爵はアウストラビス大神官に嘆願した。
「ホーグナの民は聖戦軍の英雄たちを聖教の同胞として迎えたいと考えております。しかし、同時にこれほどの大軍に恐れを抱いております。そんな民たちへ大神官様の御言葉を賜っていただけないでしょうか」
このビルグリット伯爵の物言いに、察しの良い諸王諸侯らは「まずい」と思った。しかし、彼らが止める間もなくアウストラビス大神官は上機嫌でこう言ったのである。
「もはやホーグナ国の民たちは、私たちの同胞であり兄弟である。我らがホーグナ国の民に狼藉を働くことも、ましてや害することなどあり得ない。心配するに及ばない」と。
それこそまさにビルグリット伯爵が望んでいた言葉であった。
聖戦軍の大義名分である聖教の大神官であるアウストラビス本人によって、ホーグナ国の安全が保証されてしまったのである。
しかし、それは聖戦軍にとっては失言であった。
アウストラビス大神官は、信仰に対しては誠実な聖職者であったが、決して軍人ではない。本国からの補給が困難な遠征において、力を背景とした糧食や資材の現地調達できないということが、どれほど軍に負担を強いるかと言うことを理解していなかったのである。
アウストラビス大神官より言質を取ったビルグリット伯爵は、その場からすぐさまホーグナ国への帰国の途に着いた。
それは事態を憂慮した聖戦軍の諸王諸侯らの暗殺の手から逃れるためでもある。
案の定と言うべきか、正体不明の一団に追われながらも何とかそれを振り切り、無事にホーグナ国へ帰還したビルグリット伯爵は、即日ホーグナ国の王に拝謁すると、事の経緯を説明し、聖戦軍への対応策を奏上したのだった。
これにホーグナ国王は独断専行を咎めず、むしろ良くやったとビルグリット伯爵を賞賛し、その献策すべてを承認したのである。
ビルグリット伯爵の献策とは、まず国中の城、砦、町、村、家屋のすべての門戸に聖教の聖印を描き、人々は聖教の信者であることを示した上で、街道沿いに人々を並べて歓呼をもって聖戦軍を迎えるというものだった。
すなわち人に壁によって聖戦軍の行軍路を限定し、みだりに村や街へ踏み入られないようにしたのである。
さらにビルグリット伯爵は狡猾であった。
聖戦軍全体への糧食や資金の提供は渋りつつも、聖戦軍の主立った王侯貴族や有力な将軍らに狙いを定め、美女と金貨を送り込み接待攻勢をかけたのである。
このビルグリット伯爵の手は功を奏した。
もともと自分たちが利益を享受できれば、他はどうなろうとかまわないと思っている者たちだ。ましてや被害を受けるのは、勝手についてきた民衆たちである。王侯貴族からすれば、彼ら民衆が如何に飢えようと困窮しようとも考慮にすら値しなかった。
ビルグリット伯爵は、アウストラビス大神官に続き、彼らからもホーグナ国での掠奪や暴行を禁じる言質を得たのである。
しかし、まともな統率すら取られていない聖戦軍だ。アウストラビス大神官や諸王諸侯らが禁じたからと言って、それに従わない者やそもそも禁じられたことを知らない末端の者たちによって掠奪や強姦や暴行が起きた。
それに対してビルグリット伯爵は、自ら兵を率いてそうした者たちを捕縛すると、聖戦軍の目の前で彼らを背教者や邪教徒や破壊の御子の内通者などと悪し様に罵りながら嬲り殺し、見せしめとしたのである。
宗教的熱狂に冒された聖戦軍の中で、背教者や邪教徒の汚名は死の刻印と同義である。同じ聖戦軍の人間からも石や棒をもって嬲り殺される姿に、聖戦軍の人々は恐怖した。
それでもなお自制できなかった一部の者たちによる掠奪や強姦や暴行も後を絶たず、また見せしめにされた者たちの友人や親族からの報復としてホーグナ国民への闇討ちなども発生した。
しかし、それでもホーグナ国全体を見れば、ビルグリット伯爵の方策は間違いなく国への被害を最小に抑えたのである。
だが、それは同時に聖戦軍を飢えたままエルドア国へ押しつけるものであった。
◆◇◆◇◆
「急報! 急報! 陛下にご報告いたします!」
聖戦軍への対策に追われるエルドア国の宮廷に、ハーピュアンの伝令兵が飛び込んできた。
「聖戦軍を名乗るカーディナル帝国が、我が国とホーグナ国との境にあるヒトゥウリ河を渡り、エルドア国内に侵攻して参りました! 聖戦軍は、その総兵数を百万と称しております! 実際には百万には及びませんが、それでも私が確認できただけで十数万から数十万に及ぶという大軍です!」
それまで侃々諤々と対策を議論していた場が、一瞬にして静まり返った。
その中で蒼馬は我知らずに握った拳に力を込める。
「……来てしまったか」
飢えた多頭の巨大な怪物が、ついにエルドア国に到達したのであった。




