第2話 暴君
クロゥ・カァン・バグルダッカ。
鮮血大公。狂王。虐殺大公。拷問者。人食い公。そして、暴君。
そうした数々の異名は、その性は粗暴にし、血と色を好み、暴虐を能くすると評された彼の所業を端的に示していた。
帝国の北西部に広がる広大な草原を領有するバグルダッカ大公家の成り立ちは、他の選帝大公家とは大きく異なる。他のヴィーヘルム大公家とワイザン大公家が、皇祖ロムスの子息たちを先祖とするのに対し、バグルダッカ大公家の先祖は、皇祖ロムスの時代に猛威を振るっていた騎馬民族の族長であった。
大陸中央の覇権を巡って戦いに明け暮れていた皇祖ロムスが、騎馬民族を味方に引き入れるため、自身の娘を嫁がせ、さらには公子としての身分まで与え、身内として引き込んだのがバグルダッカ大公家の始まりである。
この異例中の異例とも言える待遇から、当時の騎馬民族の騎兵の力が如何に強大であり、皇祖ロムスがそれを渇望していたかがわかるだろう。
そうした勇猛な騎馬民族の血が成せる業なのか、歴代のバグルダッカ大公家は領民を領民とも思わぬ苛政を敷くことで知られていた。
そして、クロゥの統治はそれへさらに輪を掛けて苛烈なものだったのである。
領民には重税と過酷な労役を課せるばかりか、面白半分に狩りの獲物にする。わずかでも反抗すれば臣下であろうと容赦なく拷問に掛けて責め殺した。
しかも、その悪行は領内に留まらない。気に食わなければそれが同じ帝国に属する国の王にすら非道を働き、欲しければそれがどこの誰のものであろうと力尽くで奪い取る。
それがクロゥ・カァン・バグルダッカという男であった。
許しも得ずに円卓の間に押し入った上に我が物顔で円卓へ真っ直ぐ歩き出したクロゥに、その進路上にいた官吏たちは関われば一大事とばかりに慌てて席を立ってその場から離れる。
しかし、クロゥは譲られた席には見向きもせず、その逞しい身体からは思いも寄らない軽やかさで円卓の上に飛び乗った。そして、土足のままのしのしと円卓の上をその中央まで歩いたクロゥは、そこで音を立てて腰を下ろし、あぐらを掻いて座り込んだ。
そのクロゥの振る舞いに、普段の冷徹ぶりをかなぐり捨ててフリッツ宰相は露骨に顔を嫌悪にしかめる。
「バグルダッカ大公殿。貴殿は、椅子も知らぬ野蛮人か? いったい何をしに来た?」
フリッツ宰相がバグルダッカ大公クロゥを蛇蝎のように嫌悪しているのは、帝国上層部では知らぬ者はいない周知の事実である。
知られている限りでもこれまで皇宮内でクロゥへの暗殺未遂騒ぎが三度起きていた。そのいずれもクロゥへの個人の怨恨によるものとして処理されていたが、それを裏で糸を引いていたのがフリッツ宰相であるというのが、皇宮でのもっぱらの噂である。
そして、それは真相をついていた。
一方でクロゥは、そんなフリッツ宰相の反応を楽しんでいる節がある。返り討ちにした暗殺者の死体を御前会議に持ち込んだり、ときにはわざわざ生け捕りにした者を皇帝や宰相の前で惨殺して見せたりするなど蛮行に及んでいたのだった。
「何をだぁ?」
そして、このときもクロゥは、これ見よがしに自分の右耳の穴に指を突っ込んでかっぽじると、爪の先に取れた耳くそを吹き飛ばして見せた。
「帝国の未来を協議する御前会議。選帝大公家であるバグルダッカ大公家の当主である俺様にも参加する権利はあるだろう」
「どの面を下げ、言っているのだ」
フリッツ宰相は憎々しげに言った。
確かに選帝大公家の当主であるクロゥは御前会議に出席する正当な権利を有する。しかし、これまでクロゥは帝国の未来など知ったことかとばかりに、御前会議へ参加することなどまれであったのだ。
フリッツ宰相の憤りなど、どこ吹く風とばかりの態度でクロゥは言う。
「仕方なかろう? 毎度毎度、埒もない繰り言ばかりの会議など時間の無駄だからな。その間に女でも寝台に引き込んで楽しんでいた方が、まだしも有意義な時間の使い方というものだ」
帝国にとって大事な政を与るフリッツ宰相にとって、それを議論する御前会議を女色にふける方が有意義などとは侮辱以外の何ものでもない。
怒りに震えるフリッツ宰相の反応を楽しみつつクロゥは言う。
「さっきも通路まで聞こえてきていたぞ。皇帝陵の造営をやめるだ、やめないだなどと愚にもつかないことで言い争っているのがなぁ」
クロゥの挑発的な物言いに、フリッツ宰相は皮肉で返す。
「これは驚いた。暴君と名高いバグルダッカ大公殿が、もしや民草を思いやり皇帝陵の造営を中止せよと言われるのかな? 貴殿がそれほど慈悲深いとは、帝国宰相たる私も寡聞にも聞いたことはなかった」
敵対する自分が推し進めた皇帝陵の造営を批判しに来たのだろうと言うフリッツ宰相に、クロゥはわざとらしく驚いた表情を作る。
「まさか! 皇帝陵の造営自体には、俺様も反対はせんぞ」
フリッツ宰相と同様に思っていた御前会議の出席者たちはクロゥの意図が読めずに、わずかにざわめいた。
そうした反応に、ニヤニヤと笑いながらクロゥは続けて言う。
「小心者のくせに誇大妄想に取り憑かれ、自身を皇祖とともに巨大な皇帝陵に弔おうとしたアホな先帝はともかくとして、帝国の宰相閣下であらせられるフリッツ殿が、見栄だけで皇帝陵の造営などすまいよ」
皇帝と帝国の首脳陣らがそろう御前会議において、公然と先帝を侮辱するクロゥにフリッツ宰相は顔をしかめ、オードは眉をひそめ、その他の出席者は聞かなかった振りをした。
「バグルダッカ大公閣下!」
その中にあってクロゥを糾弾したのは、随行員の青年である。オードがとりなしたといえ、もはや死罪は免れようがない彼は皇家への最期の忠誠を示さんと声を張り上げる。
「如何に選帝大公家といえど、先帝に対して非礼ではありませんかっ!」
これにクロゥは、ぎょろりと横目で青年を見やった。
それだけで目と鼻の先に、いきなり猛獣でも現れたかのように青年は息を呑み、我知らず後じさってしまう。
そんな青年に、クロゥはニカッと笑って見せた。
「俺様に対して、その物言い。気に入った!」
そう言うなりクロゥは円卓からひらりと降りると、両腕を大きく広げて青年へと満面の笑みをたたえて歩み寄る。
「勇気ある者には、俺様の接吻をくれてやろう!」
青年を始めとしたその場に居合わせた誰もがクロゥの言葉の意味を理解できず、呆気に取られてしまう。
そして、その間にクロゥはその逞しい両腕で青年の身体を抱き締めると、本当に自身の唇を青年のそれへ押しつけたのである。
我に返った青年はクロゥの抱擁から逃れようと必死に身体をもだえさせるが、少女の細い胴ほどもあるクロゥ太い腕の拘束からは逃れられない。
想像すらできなかった展開に、誰もがただただ困惑するだけであった。
しかし、次の瞬間、そんな彼らの耳に湿った生木を引き裂くような音とともに、凄まじい悲痛の叫びが飛び込んだ。
いったい何事かと目を転ずれば、そこにはこちらに背を向けて佇むクロゥと、その足許で抱擁を解かれた青年が自身の顔を両手で覆いながら悲痛の叫びを上げて床でのたうち回っていた。
フリッツ宰相が怒声を上げる。
「クロゥ! 貴様、何をしたっ?!」
クロゥはおもむろに円卓の方へと振り返る。
フリッツ宰相らは、ぎょっと目を剥いた。
満面の笑みを浮かべたクロゥの口許から胸元にかけて真っ赤な血で赤く染まり、その口には咥えられた薄茶色の布のようなものが、だらりと垂れ下がっていたのだ。
クロゥは音を立ててその太い首を大きく横に振るう。
すると、口に咥えられていたものが弧を描きながら円卓の上にベチャリッと音を立てて落ちた。
「ひいぃぃっ!」
円卓に落ちたものの正体を見たクラヴィス皇帝は悲鳴を上げて椅子から転げ落ち、フリッツ宰相とオードを除いた円卓に座っていた者たちも椅子を蹴倒して立ち上がる。
円卓の上に落ちたのは、人間の鼻であった。
より正確に言うのであれば、上唇から鼻を含めた額にかけての人間の顔の皮である。
クロゥは接吻と称して青年の上唇を歯で咥えると、力任せに顔の皮を剥ぎ取ったのだ。
顔面を蒼白にして立ち上がったクラヴィス皇帝は、皆から顔を背けて早口でまくし立てる。
「ち、ち、ち、朕は気分が悪い、ので、へ、へ、へ、部屋に帰る! あ、あ、あ、後は良きにはからえ!」
そう言うなり侍従たちも後に残してクラヴィス皇帝は足早に円卓の間を出て行ってしまう。置いてきぼりを食った侍従たちが、慌てて皇帝の後を追った。
「さぁて、話の腰を折られちまったが、皇帝陵の造営は――」
多くの者がその惨劇に顔色を失っているのにも頓着せずに話の続きを口にしたクロゥであったが、すぐに言葉を切り、後ろで苦鳴を挙げてのたうち回る青年を肩越しに煩わしそうに見やる。
「おい。俺様がしゃべっているんだ。黙らせろ」
クロゥの言葉が向けられたのは、彼にともなって円卓の間に入った禿頭の巨漢――クロゥの第一子ジュルチ・カァン・バグルダッカである。
まるで拳闘士のように、半裸で鋲を打った皮の胸当てだけを着けたジョルチは無数の刀創が刻まれた顔をピクリとも動かさず、床でのたうち回っていた青年の上に馬乗りに跨がった。
そして、青年の首根っこを左手で押さえつけると、ジョルチは巌のような右拳を青年の顔面へと叩き落とす。肉を打つ湿った音とともに青年の苦鳴が上がった。青年は必死に抵抗するが、そんなものはお構いなしにジョルチは右拳を振り上げては落とし、振り上げては落とすのを繰り返す。
三度目の拳で青年の苦鳴は途絶え、五度目からは殴打の音が挽肉を叩くような音へと変わっていく。それでもジョルチは、ただ黙々と作業をこなすように右腕を振るい続ける。
その身の毛もよだつ殴打音を背に、クロゥは口を開く。
「頭の良い宰相殿は、皇帝陵の造営にかこつけて余った人の整理と物の売買を促進したかったのであろう?」
クロゥの言葉に、フリッツ宰相はわずかに目を見開いた。
フリッツ宰相の反応を楽しみつつ、クロゥは話を続ける。
「ここ十数年は戦らしい戦もない。そのおかげで愚民どもは雑草のように増えちまいやがった。だが、土地は有限だ。増えた愚民どもに割り当てられる土地などあるはずもない。新たに耕地を開拓しようにも、めぼしい土地はすでに開拓済みだ。さらにはここ数年は冷夏もあって、穀物の出来も悪いと来た」
クロゥは、ひょいっと肩をすくめて見せる。
「おかげで巷には、職と食にあぶれた連中が溢れかえっている。人間という奴は暇になると、ろくなことを考えんものだ。それに働かなくとも腹は減る。暇で腹を空かせた連中は、ろくでもないことを実行する」
このとき、帝国は戦争の減少と農業と医術の進歩もあって、人口過剰な状態となっていた。そして、その土地に収用しきれなくなった余剰人口は、土地を追われ、流民となって帝国中に溢れかえっていたのである。
そうして流民となった者たちの末路は決まっている。
帝都を始めとした都市で物乞いとなって慈悲にすがるか、身売りして奴隷に落ちるか、はたまた野垂れ死するしかない。それが嫌ならば野盗か山賊となって、かつての自分と同じ境遇の者たちを食い物にするしかなかった。
そのため、今や帝国各地では無法者たちが増え、それにともない治安は急激に悪化していたのである。
さらには、そうした状況に不満を覚える民も増え、酒場では帝国を批判するささやきが聞かれ、街角には帝国の政治を批判する落書が見受けられるようになっていたのだ。
「宰相殿は、そうした愚民たちを狩り集めようとしたのだろう?」
クロゥの指摘は、正鵠を得ていた。
巨大な皇帝陵の造営には、多くの人足を必要とする。諸侯諸王らに労働力として人足を拠出させるのにかこつけさせ、そうした浮浪者たちを狩り出し、皇帝陵の造営地に人足という名目で収容することでフリッツ宰相は治安の安定を図ろうとしていたのだ。
その意図を見抜かれて驚くフリッツ宰相へクロゥはさらに言う。
「また、皇帝陵の造営においても、その資材に帝国全土から取り寄せたものを用いることで皇家の権威を示すという建前で、帝国各地――特に地方から石材や木材などを取り寄せている。それはいったん諸侯諸王や商人らから造営費として供出させ、中央に集めた金を地方へと還元するとともに、そうしたものを運ぶために街道を整備させることで人や物の動きを促進しようとしたのだろう?」
これだから、この男は侮れぬ。
自身の意図を読み切ったクロゥに対して、フリッツ宰相は胸の内でそう吐き捨てた。
その振る舞いから、クロゥはただ粗暴なだけの獣のような男に思われている。しかし、その獣は人並み以上の奸知を兼ね備えていた。そうでなければただ選帝大公家というだけで、この男はこれほど恐れられてはいないのだ。
改めて警戒を強めるフリッツ宰相の前で、不意にクロゥは破顔する。
「だぁが、それも失敗しちゃ何にもならんがなぁ」
クロゥはゲラゲラと笑い転げた。
痛いところを突かれたフリッツ宰相は臍を噛んだ。
人足集めで人狩りをすれば、多くの民に不安を与えてしまう。また、皇帝陵の造営費を拠出させた諸侯諸王や商人らからも不満を買っていた。
しかし、それでも皇帝陵の造営による経済振興策が実り、明るい兆しが差し込めば、それらも押さえ込めるはずだったのだ。
だが、それも今や砂上の楼閣である。
経済振興どころか今では物の売買が完全に冷え込み、税収は落ちるばかり。民衆の不平不満は募る一方で、もはやそれは怨嗟の声にすらなっていた。
このようにフリッツ宰相の経済振興策が失敗した大きな要因のひとつは、貨幣不足である。
このとき帝国は金銀をはじめとした貨幣鋳造に用いる貴金属の保有量が危機的状況にまで落ち込んでいたのだ。
市場という生き物にとって血液にも等しい貨幣の不足は、至る所で商取引の停滞を招いてしまった。そればかりか不足する貨幣はそれ自体の信用の下落を招いていたのである。
この事態に、フリッツ宰相は苦渋の決断として下したのが、貨幣の改鋳であった。
現状出回っている貨幣を回収するとともに、それまで金や銀の含有率が96%以上であったもの70%まで大幅に減らした新貨幣へと改鋳したのである。
これにより貨幣の枚数はかさ増しされ、一時的には帝国の国庫は潤った。
だが、その直後に帝国経済を襲ったのは、貨幣価値の大暴落――すなわちインフレーションである。
その暴落は凄まじく、貨幣に含有されている貴金属の価値以下まで帝国の貨幣の価値は下落してしまったのだ。
そのため、含有する金銀の価値より下がった貨幣を溶かして貴金属を取り出すという行為が横行し、さらなる貨幣不足を招いてしまった。
もはや帝国のインフレーションは歯止めがかからない状態となってしまったのである。
それにともない物価はうなぎ登りに上昇し、それは貴賤を問わず帝国中の人々の生活に直撃した。
その中でも、もっとも被害を受けたのは、領地を持たない騎士や官吏たちである。
彼らは領地からの収入を得られない代わりに国や領主から俸給を得て生活していた。ところが、俸給がそれまでと同じ枚数の銀貨であっても、その価値が大暴落したことにより実質の収入が大幅に減ってしまったのだ。
そうした生活に窮した彼らの間では、特定の商人らに便宜を図って賄賂を要求したり、商売に嫌がらせや難癖をつけて金品を脅し取ったりすることが横行した。
本来ならばそれらを取り締まるべき王や領主たちも、彼らに相応の俸給を与えられていないという負い目から見て見ぬ振りをし、その中には自らもそうした行為に加担する者まで出る始末である。
しかし、むしり取られる商人とて、ただ泣き寝入りするはずもない。損失分は売買される商品の金額に上乗せするのは当然であった。結果、さらなる物価上昇を呼び込むという悪循環が、このとき帝国全土で起きていたのである。
まさに帝国にとってもフリッツ宰相にとっても痛恨事と言えよう。
苦虫を噛みつぶしたような顔をするフリッツ宰相へクロゥはニヤニヤと笑いながら提案する。
「帝国の財政は、もはや火の車だ。徳政令でも出すか?」
徳政令とは、借金に苦しむ民衆を救うために賃借の契約を破棄させる法令である。しかし、その実は政府による借金の踏み倒しに他ならない。
フリッツ宰相は否定する。
「徳政令など、論外だ」
帝国では過去にも財政難に陥った際に徳政令を発布したことがある。それによって当時の帝国の財政は一時的には助かったが、それにより多くの商人らが首をくくることになってしまった。また、弊害として資金の貸し渋りや商取引の低迷が起こり、その痛手は数十年経った今でも苦い教訓として残っている。
そうした先人の失策を知るフリッツ宰相に、徳政令はとうてい打てる手段では無かった。
そして、それを承知で提案してくるクロゥに、フリッツ宰相は皮肉で返す。
「おまえのところのように無理が押し通せると思わないでもらいたい」
フリッツ宰相が言うのは、かつてクロゥが商人らの借金を踏み倒した事件のことである。
節制という言葉すら知らないようなクロゥである。また、彼が後妻として迎え入れた年若い妃も浪費家として知られており、バグルダッカ大公家は多くの金貸しらから莫大な借金を抱えていた。
その借金の返済を催促されたクロゥは、ある日借金をしている商人らに「好きなだけ銀を掴み取りさせてやるので証文を持ってやってこい」と伝えたのである。
あの暴君が本当に借金を返済してくれるか疑わしく思った金貸したちだったが、招待を拒否して後で難癖をつけられてはたまらないと、恐る恐るクロゥの屋敷を訪れたのである。
そうして訪れた金貸したちを迎えたのは、炉にかけられた大きな坩堝の中でドロドロに溶けた銀であった。
「さあ! 好きなだけ掴み取るが良い」
満面の笑みを浮かべて言い放つクロゥに、怯える金貸したちの中からひとりの男が「これはあまりに無体だ」と抗議したのも当然であった。
しかし、その勇敢だが無謀な金貸しは、「遠慮をするな」とクロゥによって無理矢理に両腕を溶けた銀の中に入れられて重度の火傷を負わせられてしまい、後日その火傷が元で死んでしまったのである。
その惨劇を目の前で見せつけられた残りの金貸したちは、ひとり残らずその場で証文を破り捨てると這々の体で逃げ出すしかなかったのも当然であろう。
「まあまあ、おふたりともそう険悪にならずともよろしいではないでしょうか」
険悪なやり取りをするふたり――より正確に表現するならば一方的に敵視するフリッツ宰相と、その反応を面白がっているクロゥとの間を取り持つ発言をしたのは、聖教三大神官のひとりベニートだった。
ひとりでは歩くのもままならぬくらいぶよぶよに肥えた身体と、無数の吹き出物で覆われ顔は、まるで巨大なガマガエルようようである。先程から暑くもないのに湧き出る汗をしきりと手巾で拭いながら、ベニート大神官はおもねるように言う。
「ともに帝国を支える重鎮。仲良くいたしましょう。人間の神も、きっとそう仰せられる」
フリッツ宰相は、「どの口でほざく」と内心で罵倒した。
このベニート大神官は、金糸銀糸で華美な装飾を施された神官服に、首から下げているのは宝石をあしらった人間の神の聖印、丸々とした芋虫のような指にはめられた大粒の宝石のついた指輪からもわかるように、人間の神よりも金貨を篤く信仰していると陰口を叩かれている大神官である。
先のクロゥの借金の踏み倒しにより、多くの金貸したちは他の王侯貴族からも借金を踏み倒されるのを恐れた。とはいえ、金を貸さないことには商売にならない。
そこで金貸したちが頼ったのが、聖教であった。
金貸したちは貸し出す際に、借り手に返済を聖教に保証させ、神へ誓約させることで借金を踏み倒されるのを避けようとしたのである。
しかし、ただで聖教の権威を借りられるわけがない。喜捨という名目で手数料を納めなければならなかった。
そして、その莫大な手数料によって財をなし、大神官の地位を買ったのが、このベニート大神官なのである。
そんなベニート大神官にとって、ことの発端となったクロゥは恩人と言えるだろう。言葉だけで仲裁するふりをするぐらいは安い物であった。
そんな意図が透けて見えるベニート大神官を蔑んだ目で見やるフリッツ宰相に、クロゥは意外なことを告げる。
「この帝国の難局を打破できる手があるぞ」
ざわりとその場がざわめいた。
「……バグルダッカ公。この場で下らぬ冗談は許されんぞ」
そのような手があれば、とっくに打っている。
そう言わんばかりのフリッツ宰相に、クロゥはニヤニヤとした笑みをたたえて見せた。
そのクロゥの態度に、フリッツ宰相と同じくただの皮肉か嫌がらせ目的の発言と思っていた御前会議の参加者たちも、本当に打開策があるのではないかとクロゥに目を向け始める。
そうして注目を集めたクロゥは、ことさら一音一音を区切るように次の言葉を告げた。
「西域だよ」
クロゥの言葉に、さらにざわめきは大きくなる。中央の人間としてごく普通に西域を辺境と見下す多くの者たちは、クロゥの意図がわからず互いに顔を見合わせ、ささやき合う。
例外はフリッツ宰相とオードぐらいなものであった。
そんな彼らを前にクロゥは得々と説明する。
「そもそも、ことの元凶は金銀の不足だ。では、その原因は何だ? それは、大陸の西域だろう」
クロゥの言は正しかった。
これまで大陸の中央と西域の関係は、資源豊かな西域から資源を中央が輸入し、進んだ文化と技術の産物を中央が西域へと輸出するというものだった。
ところが、その関係がここにきて逆転していたのである。
地金だった貴金属は繊細な工芸品に変わり、木材は雅な家具や調度品となって西域から輸出されるようになった。
また、資源ばかりではない。鮮やかな色彩の薄い硝子の器や黄金酒と呼ばれる琥珀色の酒や染みひとつ無い純白の布地など、大陸中央でも見られなかった高い技術の産物が次々と西域から輸出され、それらは帝国の市場を席巻したのである。
そうした西域のものの中には、聖教では亜人類と蔑んでいたエルフ、ドワーフ、ゾアン独自の意匠を取り込んだ調度品などもあった。しかし、それすらも今や西域風と呼んで、王侯貴族ばかりか聖教の神官たちまでもがもてはやす始末。
大陸中央では、まさに西域風が一大流行となっていたのである。
「それをおまえが言うのか」
フリッツ宰相は憎々しげに言う。
それも無理はない。今、大陸中央を席巻する西域風の流行の火付け役は、誰であろうクロゥの后であったのだ。
もともと極度の潔癖症と入浴を好むクロゥの后が西域からもたらされた石鹸をいたく気に入って愛用していたところ、選帝大公家の后が珍重するものならばと広まったのが切っ掛けだったのである。
フリッツ宰相の指摘にも、クロゥは悪びれずに返す。
「仕方なかろう。愛する后の我が儘だ。男ならば叶えねばなるまい? だが、さすがの俺様も、薔薇と薬草の精油入りとかいう石鹸ひとつが金貨一枚もしたのには、驚いたわ」
輸送手段が限られた時代である。西域から商品を輸入するにも莫大な労力と費用がかかってしまう。当然、それは商品の価格に上乗せされ、大陸中央では西域のものは大変高価なものであった。
そして、それを購うために帝国からは大量の金銀が西域へと流出してしまっていたのである。
「破壊の御子ソーマ・キサキは、やりすぎてしまったのだ」
そう述べるのは破壊の御子研究の第一人者であるマーチン・S・アッカーソン教授である。
「彼の改革と技術革新が、西域を富ませたのは間違いない。だが、そのあまりに急激な変化に、世界は追いつけなかったのである。その変化がもっと緩やかなものであれば、帝国にも新たな産業を起こすなど別の選択肢があったかもしれない。
だが、飛躍的に発達した技術と、分業化による大量生産体制によって生み出された西域の産物は、帝国に選択の余地すら与えず、その経済と産業の基盤をズタズタに引き裂いたのである。
石鹸戦争とは、言わば破壊の御子ソーマ・キサキが意図せずに仕掛けた経済戦争が事の発端とも言えるだろう」と。
経済戦争と言う言葉自体がない時代ではあるが、フリッツ宰相もまた西域こそが現状の帝国の混乱の大きな要因であることは理解していた。
「すでに西域からの輸入にかける税を上げている。だが、それでもこの流れは止まらん。これ以上、何をしろと言うのだ?」
西域から輸入される硝子にしろ布にしろ、その品質と生産力はもはや中央のものでは太刀打ちできなくなっていた。いくら関税を引き上げても、今度は密輸が蔓延り、手に負えない状態である。
「宰相殿よ。今や帝国には、金もなければ土地も不足している。余っているのは人と不満だけだ」
クロゥは、歯を剥いて笑う。
「余ったものは、ないところへ押しつける。ないのであれば、あるところから持ってくる。これが世の道理であろう?」
クロゥの言わんとすることを察したフリッツ宰相は眉をひそめる。
「西域へ遠征しろというのか?」
「ご明察!」
クロゥは人を小馬鹿にするニヤニヤ笑いを浮かべて手を打った。
「余った愚民どもを兵にして西域へ攻め入り、帝国から流出した金銀を奪い返すのだ。南の荒れ果てたトカゲどもの土地とは異なり、西域は今やこの中央にまで穀物を輸出するほど肥沃な土地。それを愚民どもに分け与え、税を取る。さすれば、人と金の問題は解決する!」
円卓の場がどよめいた。
そこに「お待ちいただきたい」と遠征に異を唱えたのは、オードである。
「かつてバグルダッカ大公殿を総大将として征南軍を起こせたのは、度々ディノサウリアンが南の国境を脅かし、帝国領内を侵していたからです。彼らを誅伐するという大義名分があればこそ諸侯諸王らは賛同し、民もまた立ち上がった」
オードは大いに懸念を示すように、顔をしかめて見せた。
「しかし、その征西に如何なる大儀があり、名分があるのでしょうか?」
オードの言葉に、フリッツ宰相らは難しい顔になる。
クロゥが提案は、確かに帝国が抱える現状の問題の多くを解決する手段ではあった。
だが、ことはウワラルプス山脈を越えた向こうにある西域への大遠征である。それほどの大遠征ならば王侯貴族ばかりが声を張り上げても、民がついてこなければ達成できるものではない。
多くの人をひとつの目的のために動かすには、たとえ言いがかり、屁理屈であろうとも大義名分が必要なのだ。
しかし、だからといって西域へ大遠征をしなければならない理由が、帝国の窮状であるというのを明かせるはずもない。そのようなことを明かせば、かえって民心の不安を煽ってしまい大遠征どころか、その前に帝国が崩壊してしまう。
だが、クロゥは得意げに答える。
「おう。爺さん。それよ、それ。そのために今日は遅れてきたのだ」
すると、ちょうどそこに扉の向こう側から入室の許しを乞う声がした。それにクロゥは勝手に「入れ、入れ」と答えると、入ってきたのは侍従のひとりである。侍従は円卓の間を小走りに駆けてフリッツ宰相の傍へ行くと、彼に何やら耳打ちした。
「……! 何だと?」
フリッツ宰相は驚きに目を見張った。
「丁重にお通ししろ。粗相があってはならん」
フリッツ宰相の言葉に、クロゥを除いた御前会議の参加者は一様に訝しんだ。皇帝を傀儡とし、事実上の帝国最高権力者であるフリッツ宰相が、ここに訪れた何者かへ敬意を払っているのだ。
いったい誰が訪れたのかと誰もが注目する中で、侍従は再び小走りになって扉の脇に駆け戻ると、そこで姿勢を正し、小さく咳払いしてから声を張り上げる。
「アウストラビス大神官様のご来訪にございます!」
その声とともに開かれた扉の向こうにいたのは、人の良さそうな柔和な笑みに目を細めた神官服の男――アウストラビス大神官その人であった。
フリッツ宰相「何とか経済振興策で帝国の経済を立て直さねば……」
蒼馬「知識チートで作ったものを帝国にバンバン売って儲けるよぉ~」
クロゥ「うはははは! これは良いものだ。どんどん買うぜ!」
フリッツ宰相「ちょ、待って! お金が、お金がなくなる!」
蒼馬「(≧∇≦*)うひょー! 硝子にウイスキーに布に石鹸も飛ぶように売れる! ガッポガッポ儲かるよ! 知識チート万歳!」
クロゥ「うははは! それも買ったぁ!」
フリッツ宰相「帝国財政、死亡確認っ!」
フリッツ宰相&クロゥ「西域、滅ぶべし」
蒼馬「(;゜Д゜)!ふぁ?」




