第177話 密書
ロマニア国の王都ロマルニアの郊外にある創造神を祀る神殿の近くにある酒場。
神殿への巡礼者を相手にするその店の片隅に、陰鬱な表情で嘆息を洩らすひとりの男がいた。
その男は、つい先日までエルドア国との最前線となるマサルカ関門砦に兵士として務めていた男である。男は兵役が間もなく終わると言うときにトゥベリウス将軍に率いられてエルドア国の陣地を焼き討ちに行き、そこで罠にかかって捕虜となってしまった。
焼き討ちに行くのが後数日遅ければ、兵役を終えて無事に帰国できたのに。
このときは自分の不運さに神を呪わずにはいられなかった男である。
しかし、幸いなことにピアータ姫の兵を名乗ることで無事に解放されることになった。
無事に砦へ戻れることに神へ感謝の祈りを捧げずにはいられなかった男であったが、感謝するには少し早かったようである。解放される直前になって、何故か彼ひとりだけが不審な点があるとしてエルドア国の兵士に連行されたのであった。
「おまえは兵役の期間が終わっており、砦に戻ればすぐにロマニア国に帰ると聞きましたが、それに間違いはありませんか?」
連れて行かれた先で待っていたのは、美しいエルフの女であった。
おそらくは情報源となったであろう部隊長である騎士の顔を思い浮かべ、男はありったけの罵詈雑言を胸の内で吐き散らしながら、エルフに対しては神妙にうなずくことしかできなかった。
ひざまずく男の前に、エルフの女は小さな革袋を放り投げる。
「おまえは金が欲しくありませんか?」
男の膝の前に落ちた小さな革袋の口から、音を立てて銀貨がこぼれ落ちた。ただの雑兵に過ぎない男にとっては、それは目にしたこともない大金である。
殺されるかもという恐怖も忘れ、男は一も二もなく首を何度も縦に振るう。
それにエルフの女は「よろしい」と言うと、男へ薄い木箱を差し出した。
「おまえに命じます。これをロマニア国のピアータ姫へとお届けするのです。報酬として、その銀貨を与えましょう」
訳もわからないまま箱を受け取った後で男は、あっと気づく。
男は兵役でやむなく兵士になっただけの、しがない農民である。当然、一国の王女であるピアータと面識もなければ、彼女への伝手などありはしない。このようなものを渡されても、どうやってピアータ姫へ届ければ良いかわからなかった。
それを正直に言うとエルフの女は「わかっている」とばかりにうなずいてから言う。
「今、ピアータ姫は王都の郊外にある創造神を祀る神殿で巫女として修行をしております。万人に門戸を開放している創造神の神殿ならば平民であろうと入ることはできましょう。何とかしてピアータ姫にお渡しするのです」
つい先日まで自分らを率いてエルドア国と戦っていたピアータが俗世を捨てて巫女となったというのには、男も驚いた。
しかし、それならば自分でもピアータへ手紙の入った箱ぐらいは渡せるだろう。
男は、そう思った。
それに馬鹿正直に渡さなくても良い。どこか適当なところで箱を捨ててしまっても、このエルフの女がそれを咎めようにもそのとき自分はロマニア国にいるのだ。どうにかできるわけがない。いや、それよりも何か重要そうなこれをロマニア国の偉い人へ売りつけてさらに金を稼ぐのも悪くない。
そんな男の考えを見透かしたように、エルフの女は冷たく微笑んだ。
「ただし、気をつけなさい。これにはエルドア国の王であるソーマ陛下の呪いが掛けられています」
男はギョッとした。
エルドア国の王と言えば、あの恐ろしい破壊の御子のことである。その破壊の御子の呪いがかかっていると言われた途端、手にした何の変哲も無い木箱がおぞましい何かに変わった。
思わず投げ捨てそうになった男へエルフが人の悪い笑みを浮かべて言う。
「もし、この箱の中身を見たり、ピアータ姫以外の誰かに見られたり、または無くしたり、捨てたりすれば、あなたの身に世にも恐ろしい呪いが降りかかるでしょう」
男は投げ捨てかけた木箱を慌てて掴みなおした。
いまだ迷信が根強く語られ、実際に神々が存在する世界である。ましてや破壊の御子と言えば、恐ろしい魔法を使うと噂される邪悪な王だった。
銀貨に目がくらみ、とんでもないことになってしまった。
そう後悔するが、もはや手遅れであった。
「では、頼みましたよ。あなたの命のためにもね」
冷ややかな笑みを浮かべて自分を見下すエルフに、男はただひたすら首を縦に振り続けることしかできなかったのである。
あのときのエルフが浮かべていた邪悪な王に仕える魔女の様な笑みを思い出し、男はぶるっと小さく身体を震わせた。
男は怖気を振り払うようにエールの壺を一気に呷る。
「しかし、どうしたものか……」
男は嘆息まじりのおくびとともに、そう洩らした。
エルフから預かった例の木箱は神殿の誰かに頼めばピアータ姫に渡せるものだと高をくくっていた。
ところが神殿の神官には、創造神へ身を捧げた巫女に世俗の男を会わせられるわけがないとけんもほろろに追い返されてしまったのである。
これには男もほとほと困り果ててしまった。
呪いのせいで、木箱を捨てるわけにはいかない。だからといって、このまま手をこまねいているわけにもいかなかった。旅人たちの噂によれば、エルドア国がいよいよロマニア国侵略に動き出し、元バルジボア国であった北部へ軍を動かしたという。もし、本当に破壊の御子がロマニア国を侵略し、そのときに約束どおり箱をピアータへ渡していなければ、自分の命はないだろう。いや、呪いによって死よりも恐ろしい目に遭うかもしれない。
自身の想像に、男は再び震え上がった。
そのときである。
たまたま隣の席から洩れ聞こえてきた会話の中から「神殿」や「巫女」という単語が耳に飛び込んできた。
ちらりと男が隣の席に目を向ければ、そこではふたりの若者が顔をつきあわせて何かを話し合っていた。
「それで、どうだった?」
片方の若者が問いかけると、相手は肩を落としながら答える。
「いくら巫女の人に会わせて欲しいと言っても、神殿の人からダメだと断られたよ」
「ほら見ろ。俺が言ったとおりじゃないか」
どうやら若者の片方が、創造神の神殿に勤める巫女のひとりに一目惚れをし、何とかその想いを伝える方法はないかと友人に相談を持ちかけているようだった。
しかし、その友人の若者の話によれば、あの神殿は貴族にとって都合が悪い身分の低い愛人との間にできた庶子の子女を預かる場所でもあり、普通の神殿よりも巫女たちは厳しく監視されているのだという。
それを聞いた男は落胆した。
それではなおさらピアータ姫へ木箱を渡すことなど無理である。
ところが、友人の若者が意外なことを言い出した。
「だが、方法がないこともない」
驚きのあまり声を洩らしかけた男の気持ちを代弁するように、若者が友人に詰め寄る。
「本当か? どうすれば良いんだ?」
男は胸の内で同意の声を上げながら、聞き漏らしてはならないと必死に聞き耳を立てた。
男に盗み聞きされているとは知らない友人の若者が得意げに語る。
「あそこの神殿に勤める巫女たちが暮らす寮の寮長の婆さんがいるんだが、その婆さんを利用するんだ」
その男が言うには、寮長を務める老婆は金にがめつく強欲な性格だという。
若者のように、若く美しい巫女に熱を上げる男は少なくはない。また、信仰心からではなく家の事情で否応もなく神殿に入れられ、そこで厳しい監視の下で禁欲を強いられる巫女たちの中にも、かえって若い身体をもてあます者もいる。
そうした男と巫女の間を取り持ち、寮長の老婆は小銭を稼いでいると言う。
「いいか。神官や巫女たちが神殿で朝の礼拝をする前に神殿の扉を開けるのが寮長の婆さんの勤めなんだが、そのときにだな」
友人の若者が言うには、急ぎ創造神に祈りを捧げたいと言って神殿の中に入れてもらう。このとき老婆へ喜捨と言って、謝礼金を渡す。
その後は、神像の前で適当に祈るふりをした後、お目当ての巫女の名前を書いた手紙を置いておく。すると、老婆はそれを回収してお目当ての巫女へと届けてくれるという。
盗み聞きしていた男は「なるほど」と思いつつも、不安を覚える。
「だが、送るのは恋文だぞ。そんな婆さんに見られるのは困るぞ」
まるで自分の不安を代弁するような若者の言葉に、男は一も二もなく同意した。
自分が預かっているのは恋文ではないが、中を他人に見られれば呪いが降りかかるというものだ。安易に人に預けられるものではない。
ところが、友人の若者は「それは大丈夫だ」と前置きしてから続けて言う。
「そこが、その婆さんのしたたかなところでな。あくまで婆さんは朝の礼拝前に礼拝所を確認したとき、そこで誰のものともわからない手紙を見つけた。そして、それに人の名前が書いてあったので、その人の部屋へ親切に届けただけという体裁をつくろっているんだ。だから、中身を覗いて下手に面倒事に巻き込まれたくないので、婆さんは決して中を覗くことはない。渡すのにも当人に直接ではなく、巫女たちが礼拝で留守にする寮の部屋に置いていくという念の入り様だ」
「それなら安心だ。助かったよ!」
巫女へ恋文を渡せる算段がついた若者は、ご機嫌で友人と酒を酌み交わし始めた。
そこへ男は声をかける。
「兄さんたち。ちょっとその話を俺にも詳しく教えてくれないか?」
◆◇◆◇◆
若者たちから神殿の巫女へ手紙を渡す方法を詳しく教えてもらった男は、これで物騒な手紙を手放せると大喜びした。そして、謝礼代わりに酒壺をひとつ注文して男たちに渡すと、男は軽い足取りで酒場を後にしたのである。
そのため、男は知ることはなかった。
自分が立ち去った後、若者たちは何かを達成したような満足げな笑みを浮かべると謝礼の酒壺に一口も口をつけぬまま、そそくさと酒場を立ち去った事など。
そして、その翌日の早朝。
男は教えられたとおり神殿の扉を開けた老婆へ喜捨と言って金を渡して神殿に入れてもらうと、代筆屋に頼んで書いてもらったピアータの名前が書かれた札をつけた箱を神像の前に置いたのである。
◆◇◆◇◆
朝の神殿の掃除と礼拝の務めを終えたピアータは、寮の部屋に戻ってきた。
俗世を捨てたとはいえ、そこは元王女。普通は貴族の子女ですら相部屋に入れられるところを個室が宛がわれていたピアータは部屋の扉を閉めてひとりっきりになると、盛大にため息をついた。
「まったく。毎朝毎朝、面倒なことだ」
神殿でやることといえば、神官の説法を聞いたり、神への祈りを捧げたりする以外は掃除や洗濯ぐらいなものである。ただの修行中の巫女ならば、たまに奉仕活動として神殿の外に出られるが、ピアータのように身分の高い子女でわけがあって神殿に入れられた巫女たちはそれも許されない。
そうなるとピアータにとって神殿での巫女の修行は退屈すぎて、もはや苦行にすらなっていた。
「ゴルディア兄上。早く出してもらわないと、退屈で死んでしまいますよ」
盛大に嘆息とともに愚痴を洩らしたピアータだったが、部屋にあった机の上に薄い木箱が置かれているのに気づいた。
ピアータは木箱を手に取って眺め回す。
「何だ、この箱は?」
箱の表には下手くそな字で自身の名前が書かれた札が縛りつけられているだけで、差出人の名は無い。箱の蓋は蝋でぴったりと封をされていたため、中身はわからなかった。耳元で箱を振ってみると中から軽い音がする。
何とも怪しげなものだが、とりあえずピアータは小刀で蝋を削って箱を開けて中身を確認した。
「これは……?」
箱に入っていたのは千々に切り裂かれた紙の破片であった。
おそらくは手紙であったのだろう。何か文字が書かれているようだが、刃物で細かく切り刻まれており、もはや何が書かれていたか読むのは困難である。
これはいったい何だ、とピアータは首をかしげた。
最初は、何者かが自分へ宛てられた手紙を切り裂いたのかと思った。しかし、それにしては箱が蝋で封をされていた。蝋で封がされた箱の中から手紙を取り出し、それを切り裂いた後で、またわざわざ封をしなおすというのも何とも面倒な話だ。
だが、最初っから切り刻んだ手紙を送ろうという意図がわからない。
しばらく考えてから、ピアータはハッと思いつく。
「もしや、これがいわゆるイジメというものではなかろうか?」
新参者が古株たちから何かと嫌がらせなどのイジメを受けるという話は聞いていた。その手段のひとつとして、気持ちの悪い虫や蛙や時には刃物といったものを入れた箱を部屋に置いていくという。
王家とは縁を切って巫女になったとはいえ王女であったピアータは、これまでそうしたイジメを受けることはなかった。
しかし、その噂で聞いていたイジメが、ついに自分に向けられたと思ったピアータはわくわくし始める。
何のことはない。ピアータは死ぬほど退屈していたのである。
「うむ。これは、目に涙を浮かべて訴えるべきか? それとも、憔悴して見せた方が、姫としては正しいか? ううむ。悩ましいな」
ゴルディアが聞けば頭を抱えそうになるようなことをピアータは真剣に考え始めた。
しかし、初めてのイジメの経験とあって、これと言って良い考えが浮かばない。とりあえず対応は後で決めるとしたピアータは、破かれた手紙に何が書いてあるのか読もうとジグソーパズルのように手紙の破片を並べ始めたのである。
そうしてピアータが鼻歌交じりにパズルに熱中していると、どこからか誰かが言い争う声が聞こえてきた。そして、それはしだいにピアータの部屋へと近づいてくる。
何か起きたのかとピアータが思っていると、いきなり部屋の扉が乱暴に開かれた。
「これはトゥベリウス殿ではありませぬか」
ピアータの部屋へと押し入ったのは、マサルカ関門砦で守将を引き継いだはずのトゥベリウスであった。
神聖なる神殿に土足で踏み入るとは何事かと激昂する神官らを押しのけて、許しも乞わずに部屋に押し入ったトゥベリウスの狼藉に、ピアータは挑発的な笑みを浮かべる。
「俗世から離れたとはいえ、ここは乙女の部屋だぞ。いきなり入ってくるとは失礼ではないか?」
「火急の用件なれば無礼をご容赦いただきたい」
言葉ではへりくだって見せるトゥベリウスであったが、剣呑な目つきで獲物を探す捕食者のように部屋の中を見回していた。
「火急の用件? いったい何かな?」
何を大げさなと皮肉すら込めていたピアータだったが、次の一言で凍りつくことになる。
「破壊の御子より届けられた親書――いや、密書は、どこにございます?」
いったい何のことかと困惑したのは一瞬だけであった。
ピアータの鋭敏な思考は、すぐさま机の上にある怪しげな箱に入れられた破かれた手紙だと察する。
そして、ピアータは反射的に机の上にあるものからトゥベリウスの視線を遮ろうとしてしまった。
しかし、それがかえってトゥベリウスの注意を引いてしまう。
ピアータを突き飛ばすようにして退かしたトゥベリウスは、机の上に広げられた紙片を前に、ニヤリと笑った。
自身の汚名をそそぐために、ピアータの裏切りの確たる証拠として破壊の御子からの密書の確保を狙うトゥベリウスは、私費と私兵を投じてピアータがいる創造神の神殿と、その周辺を調べ上げていたのである。そのため、巫女たちが寮長の老婆を介して外部と文通していた事実も、とっくに突き止めていた。
しかし、それを公にせずに放置していたのは、その手を使ってピアータが破壊の御子の密書を受け取るのではないかと予想したからである。
そして、その予想は的中した。
ピアータへの面会を断られたばかりの男が、早朝に老婆に金を払って神殿へ入ったというのだ。
これは破壊の御子の密書が届けられたに違いない。
そう確信したトゥベリウスは、ただ送りつけられていたと強弁で言い逃れできないように、ピアータが礼拝を終えて部屋に戻り、その手紙を読み始めた頃を狙って踏み込んで見れば、そこにあったのは千々に引き裂かれた密書らしき手紙である。
もはやトゥベリウスにとっては、それはピアータが破壊の御子から送られた密書の処分を図った確たる証拠にしか見えなかった。
「……これはいったい何でございましょうか?」
獲物を見つけた獣のような笑みを浮かべ、トゥベリウスはピアータへ尋ねた。
「私は知らぬ! 留守の間に、机に置かれていたのだ! その紙も最初から切り刻まれて入っていたのだ!」
ピアータにとっては、真実を語っただけである。
しかし、ピアータが破壊の御子と内通していると信じ込むトゥベリウスにとっては、もはやそれは見苦しい言い訳にしか思えなかった。
「いまや民たちの間では救国の英雄と謳われる英邁なるピアータ姫とは思われぬ言い訳ですなぁ」
「嘘ではない! 本当のことだ!」
ピアータは必死に自身の潔白を訴えるが、もはやトゥベリウスは聞く耳を持たなかった。
「申し開きは殿下の前でしていただきましょう。――姫殿下を。いや、ピアータを引っ立てよ!」
トゥベリウスの騎士たちは愕然とするピアータへ縄を掛けたのである。
◆◇◆◇◆
その日、ロマニア国の王都ロマルニアに激震が走る。
救国の英雄ともロマニアの戦女神とも呼ばれたピアータ姫がエルドア国と内通の嫌疑によって捕縛されたのだった。




