第176話 布石(後)
エルドア国軍へ投降したロマニア国軍の騎士や兵たちは、武装解除された上で集積所の脇に設けられた柵の中に押し込められていた。
捕虜となったロマニア国の人々の顔は暗い。
それも当然である。捕虜の人道的扱いを謳ったジュネーブ条約などない世界だ。奴隷として売り払われれば、まだマシ。鬱憤晴らしや面白半分に虐殺されることも珍しくはない。
ましてや自分らを捕らえた敵は西域全土にその悪名を轟かせる破壊の御子と、その軍である。如何なる暴虐無比な扱いを受けるのかと、捕虜となった誰もが戦々恐々とし、生きた心地がしなかった。
そんなロマニア国の捕虜の中に、東の空を物憂げな表情で見つめるひとりの若い騎士がいた。
彼は地方のしがない騎士家に生まれ、つい先日成人を迎えて叙勲を受けて騎士になったばかりの青年である。初陣での華々しい勝利を息子に飾らせてやろうと考えた父親が遠戚であったトゥベリウスの伝手を頼りに今回の戦いに参加させた新米騎士だった。
ところが、勝利は間違いなしと言われていた戦いも、こうして蓋を開けてみれば勝利どころか大惨敗。彼もまた怪我こそ負わなかったが、こうして哀れ虜囚の身となってしまったのだ。
自身の境遇を思い、若い騎士は嘆息を洩らした。
そんな境遇にあって彼が思い煩うのは、婚約者のことである。
彼は騎士の叙勲を受けると同時に、幼なじみ同然に育った親交のある騎士家の令嬢と正式に婚約を結び、この初陣の勝利をもって帰国後に彼女と結婚するはずであったのだ。
それだというのに、いまやこの有様である。
婚約者を想い、胸を痛める若い騎士が無意識に手を添えた厚手の鎧下の胸元には、刺繍の花をあしらった一枚の布が縫い付けられていた。それは婚約者が青年の無事を祈願して縫いつけた手巾である。
その手巾に手を当てた若い騎士は、生きて二度と会うことはできないかもしれない婚約者に無言で詫びるのであった。
そのとき、柵の入口で人々がざわめく声が聞こえてきた。
何かと思い目をやれば、エルドア国の将校らしき男が柵の中に多数の護衛を引き連れて入ってきていた。
その護衛のひとりが声高らかに告げる。
「このお方は、名将と誉れ高きセティウス閣下であらせられる!」
「我らのセティウス閣下に無礼は許さんぞ!」」
「我らのセティウス閣下に近づく者は、敵意があるとして処理する!」
異様な興奮と熱意で鼻息も荒くする護衛の兵たちが口にする敵将の名は、若い騎士も耳にしたことがあるものだった。
盛んに意気を振りまく護衛の兵士たちが作る警護の輪の中には、しかめっ面の異名のとおり、何がそんなに面白くないのか顔をしかめる、その敵将――セティウスの姿が見える。
セティウスは護衛の兵たちが何か言う度にそのしかめっ面をより深くしかめさせながら、誰かを探しているのか、ぐるりと自分たち捕虜を見回していた。
目が合った。
若い騎士は、捕虜を見回していたセティウスと一瞬だけだが自分と目が合った気がしたのである。
そう思った若い騎士だったが、すぐに考え直す。自分は所詮しがない平騎士である。そんな自分に敵にも名が知られる敵将が注目するわけがない。
ところが、その考えを否定するかのように、セティウスが真っ直ぐ自分に向けて歩き出した。
「おまえ! そこのおまえだ!」
もはや勘違いなどではない。明らかにセティウスは自分を指さして声を掛けてきていた。
混乱と恐怖のあまりに硬直する若い騎士をセティウスの護衛の兵士たちが瞬く間に取り囲む。
いつ剣で斬り殺されるかも知れない恐怖に、若い騎士は打ち震えながら直立不動の姿勢で固まってしまった。そんな若い騎士の左胸に縫いつけられた女物のハンカチをセティウスはしげしげと見つめる。
「……うむ。間違いない」
そう言って何やら納得するとセティウスは周囲に向けて声を張り上げる。
「この者を取り調べる! 連行しろ!」
若い騎士は、胸の内で「私が、なぜ?!」と悲鳴を上げた。
たかが平騎士である自分は、取り調べられるほどの情報も身分も持ち合わせていない。
助けを求めて周囲を見回すが、仲間である捕虜たちからは巻き添えを食らっては大変とばかりに目をそらされてしまった。
「大人しく、ついてこい!」
そう言われた若い騎士は、エルドア国の兵士に取り囲まれたままセティウスの後をついていくしかなかった。
そうして若い騎士を連れて捕虜たちを留め置いている柵から出たセティウスだったが、柵から離れた物陰に入ったところで不意に立ち止まる。
そして、セティウスはその場で踵を返して振り返ると――。
「ご使者殿には失礼いたしました」
若い騎士に向けて丁寧に謝罪したのである。
これには若い騎士も驚いた。あまりの事態の急展開に思考が追いつかない若い騎士はただ唖然とすることしかできない。
そんな若い騎士の反応にも気を留めず、セティウスは丁重な仕草で話しかける。
「何分にも他の者の目がありました故にご甘受を願いたい。――ささ、こちらへ」
一体何がどうしたのか、さっぱりわからない。
態度を一変させたセティウスに混乱しながらも、若い騎士は促されるままに立派な天幕へと案内された。
入口に立つ警備の兵士に断りを入れてから天幕の中へ入ったセティウスは、そこで待っていた美しいエルフへ声をかける。
「女官長殿。ご使者殿をお連れして参りました」
その美しいエルフ――女官長のエラディアは、「ご苦労様です」と一言セティウスを労ってから若い騎士へと目を向ける。
「この方が、ご使者様ですか?」
自分の置かれた状況にもかかわらず、エラディアの美貌に見とれてしまっていた若い騎士は、その言葉に身体をビクッと震わせた。
そんな若い騎士にはかまわず、セティウスはエラディアへと言う。
「御意。――このように胸に花の刺繍の手巾。間違いございません」
「……なるほど。確かに事前に伝えられていた符丁どおり。間違いございませんね」
ふたりから胸に縫いつけられた婚約者の手巾を見つめられた若い騎士は、混乱の極みにあった。
ふたりが言う使者やら符丁やら、まったく身に覚えのない言葉である。一体何のことやら皆目わからない。
しかし、その若い騎士が困惑するのも当然であった。
そもそも、そのような符丁など存在しないのだ。エラディアから何か目立つ装飾や特徴をもった者を使者といって連れてくるようにと言われたセティウスが、たまたま若い騎士の胸元に縫い付けられていた手巾に目をつけただけに過ぎなかったのである。
そんなこととはつゆ知らず、ただ困惑する騎士をエラディアは用意してあった卓へ案内する。
「こちらでしばらくお待ちくださいませ、ご使者様。――ささ。あなたたちは、ご使者様をおもてなししなさい」
エラディアの命を受けて、天幕の端で控えていたエルフの女性たちが酒と軽食を供して若い騎士をもてなす。
美味と噂のエルドア国の料理と酒に、接待するのは絶世の美女ぞろいのエルフたちとあれば、男ならば誰しも描く夢だろう。しかし、これから一体何が起きるかわからない若い騎士は、とうていその状況を楽しめるはずもなく、半ば茫然と勧められるままに料理と酒を口にするしかできなかった。
そんな状況がしばらく続いた後、いったんその場から退いていたエラディアが戻ってきた。
「ご使者様。間もなく、陛下がここへお見えになられます」
「陛下がお見えにですか……?」
おうむ返しに尋ねる若い騎士に、エラディアはにこりと笑って答える。
「もちろん、エルドア国の王ソーマ・キサキ陛下にございます」
若い騎士は、思わず悲鳴を上げそうになり、慌ててそれを呑み込んだ。
エルドア国の王といえば、数多の亜人類を従え、数々の村や都市を焼き払い、西域の両雄とロマニア国と並び称せられていた大国ホルメアを侵略した悪逆無道な王である。
そればかりか秘匿されていた七柱神をも越える大神という死と破壊の女神の恩寵を授かり、恐ろしい魔法を使う邪悪の権化であるとも聞く。
そんな人物がここへやってくると聞いた若い騎士は恐怖した。
若い騎士がすくみ上がっているのも気づかぬ素振りで、エラディアは柔らかな笑顔を浮かべて言う。
「良いですか。くれぐれも言動にはお気を付け下さい。ソーマ陛下は大変気難しい方です。たとえ同盟者からの使者でも、無礼があれば容赦いたしません。また、虚言虚飾を好まれぬ方です。もしわからないことがあれば下手に言いつくろうより、無言をお通しください。さもなくば――」
ここでエラディアはわざと一拍置いてから、さらに声をひそめて言う。
「――その首と胴を別れ別れとされてしまうでしょう」
その脅しに、若い騎士は震え上がってしまった。そんな若い騎士へエラディアは宥めるように優しげに言う。
「ですが、ご安心ください。万が一、ご使者殿を斬ったとあれば、せっかくの関係も台無し。それは我が国も望まぬものでございます。お答えにくいことがあれば、そのときは私どもが陛下へうまくお取りなしいたしましょう」
慈母のような優しげな言葉と微笑みにすがるしかない若い騎士は、ただ何度もうなずいて承諾を示すしかなかった。
若い騎士が死刑執行の通達を待つ死刑囚のような心境でいると、程なくして天幕の中へ明るい栗色の毛のゾアンをひとり従えた黒髪の男がやってくる。
「この御方が我らがエルドア国が王ソーマ・キサキ陛下であらせられます」
混乱と恐怖で固まったまま反応できずにいる若い騎士を蒼馬はチラリと横目で見ただけで、無言のまま天幕の奥に設えた簡易の玉座に腰を下ろす。
すると、即座にエラディアが蒼馬の口許に耳を寄せる。
「……はい。御意にございます。この方が、ご使者様にございます。事前に連絡がございましたように、このように胸に花の刺繍が入った手巾。間違いございません」
いえ。大間違いです。
エラディアに婚約者の手巾が縫いつけられた鎧下の胸元を示された若い騎士は、心の中でそう盛大に叫んでいた。
しかし、それを本当に口にするわけにはいかない。すでに若い騎士も自分が使者とやらに勘違いされていることと、その勘違いを押し通さなければ即座に命を奪われる危険な状況に置かれているのだと理解していたからである。
使者に誤解されたまま、何とかこの場を誤魔化して乗り切らねばならない。
そう若い騎士は決意した。
そんな若い騎士の見る前で、エラディアは蒼馬の口許に耳を寄せて何かを聞き取る仕草をする。それから若き騎士へと向き直ったエラディアは、こう言った。
「ご使者様。ソーマ陛下は、こうお尋ねになられております」
若い騎士は、何を尋ねられるかと強い不安と警戒に思わず唾を飲み込んだ。
しかし、エラディアの発した問いは、若い騎士が予想もしていなかったものである。
「ピアータ姫はお元気でしょうか?」
「……は? お元気でいらっしゃると思いますが」
若い騎士は困惑しながら、そう答えた。
てっきり軍の機密や国の重要人物のことを訊かれるかと思いきや、ただピアータの健康を尋ねられただけである。
困惑する若い騎士に、よろしいとばかりにひとつうなずいて見せてから、エラディアはさらに問う。
「では、ピアータ姫からは、何か連絡はございますでしょうか?」
若い騎士は返答に詰まってしまった。
当然ながらピアータへのお目見えも叶わない若い騎士が伝言など預かるわけがない。しかし、それを真正直に口にすれば自身が使者ではないと言うようなものだ。かといって、この場をうまくごまかせるような機転も弁舌も彼は持ち合わせていなかった。どうにかしようという思いばかりが空回りし、口を無意味に開閉させるばかりである。
それにエラディアはわかっているとばかりにうなずいて見せた。
「なるほど。――ソーマ陛下。ピアータ姫からは特に計画変更の連絡もない。つまり、計画は順調ということでございましょう」
エラディアにその場を取りなしてもらった若い騎士は安堵するとともに、計画は順調という言葉に脳裏に盛大な疑問符を浮かばせた。
そんな若い騎士の疑問に答えるように、エラディアは滔々と説明し始める。
「我らがわざと負け続けることでピアータ姫のロマニア国内での名声は高まりました。しかし、姫の急激な台頭は必ずや国内の反発を招きます。そこでいったん俗世から離れ、巫女として神殿に入り、そうした反発をかわすのに成功した模様にございます」
若い騎士はびっくり仰天した。
うら若き自国の姫君が自ら剣を取り、兵を率いて敵国を打ち破っているという快挙に、少なからずピアータへ敬慕の念を抱いていた若い騎士は、それが敵国と示し合わせたものだったと聞かされたのだから、それも当然である。
しかし、さらにエラディアの口からは驚くべき話が飛び出した。
「そのピアータ姫に成り代わって名声を得ようと出てきたパルティス派の将軍を惨敗させ、貶めることにより、パルティス派の権勢を失墜させました。これでロマニアの誰もが、ピアータ姫こそ救国の英雄と思うことでしょう」
同意を求めるようにエラディアから視線を向けられたが、若い騎士は立て続けにもたらされる情報に圧倒されてしまい何も言えない。
そんな若い騎士へ、わかっているとばかりにうなずいてエラディアは言葉を続ける。
「その上で旧バルジボア国領とラップレーに我らが派兵し、ロマニア国を侵略する意図を見せれば、必ずやピアータ姫を復権させようという民意が湧き起こります。そうした民意を後ろ盾とし、権勢を失ったゴルディアとパルティスの両名を追い落とす。さすれば、ピアータ姫は国の実権を掌握し、ロマニア国で最初の女王となるのも夢ではございません!」
輝かしい未来を語る夢見る乙女のように、エラディアは謳った。
「そして、ピアータ姫が女王となられた暁には両国で不戦の条約を結び、ラビアン河を境としてこの西域の西を我らエルドア国、東をロマニア国のものとして共に栄華を極めようというご提案。我らがソーマ陛下にあらせられましては、ピアータ姫のご提案に甚く感じ入り、それを受け入れるとのことにございます」
ピアータ姫が国を裏切り、破壊の御子と密約を結ぼうとしている!
エラディアの語った内容に、その若い騎士はこの日最大級の衝撃を覚えた。
そんな若い騎士へエラディアはあらかじめ用意しておいた薄い木箱を差し出す。
「この中には陛下よりピアータ姫へご提案を受け入れる旨を記した御親書にございます。これをピアータ姫へとお渡しください」
言われるがままに差し出された親書が入っているという箱を受け取ろうとした若い騎士だったが、その手が触れる前にエラディアは箱を引き下げてしまう。
「いえ。やはり、やめておきましょう。ご使者様は他の捕虜たちが見ている前で、ここへ御出いただきました。当然、後で要らぬ詮索をお受けするでしょう。それでは、これをお持ちいただくのはよろしくございません」
そこでエラディアは少し考える素振りをする。
「この御親書はまた別の手を使って近々お届けするとだけ、ピアータ姫へお伝えください」
そう告げるとエラディアは、あまり長く留まれば捕虜となった仲間たちから要らぬ嫌疑を掛けられてしまうだろうと言って若い騎士に戻るように促した。
これ以上、この場に留まり続けてもいつボロが出ないとも限らないと思った若い騎士は、それに一も二もなく同意する。
「ああ。言い忘れておりました」
再びセティウスらに連れられて天幕から出かかったところで、若い騎士はエラディアに声を掛けられた。
そして、エラディアは純真無垢な乙女のような微笑みを浮かべ、恐ろしいことを告げる。
「明日、捕虜となったロマニア国の兵たちをパルティス派とピアータ姫派の兵に選別することになっております。もちろん、パルティスの兵力を削るため、パルティスの兵はすべて斬首にするつもりですので、間違ってもパルティスの兵と答えないようにご注意くださいませ」
◆◇◆◇◆
捕虜を留めている柵の中へと戻された若い騎士は、すぐさま僚友たちに囲まれた。
拷問などされなかったかと心配する僚友たちへ、若い騎士は先程のことを話すべきか話さざるべきか迷う。しかし、ことがことだけにとうてい自分が判断できる範疇にはないと思い、思い切ってすべてを話したのである。
これを聞いた人の反応は様々であった。
ピアータ姫が母国を裏切っていたと衝撃を受ける兵もいれば、敵と手を結んでいたことに義憤を覚える従士に、若い騎士が敵に騙されたのだと憤慨する騎士もいた。
しかし、若い騎士の話を笑い飛ばせる者など誰ひとりとしていなかった。
明日、パルティス派とピアータの兵を選別し、パルティス派の兵は殺すと言われたとあっては、文字どおり命懸けの話である。若い騎士の話は瞬く間に兵や騎士を問わず捕虜の間に広まった。そして、あちらこちらで人の輪ができ、ことの真偽と明日の対応について侃々諤々の議論が開かれたのである。
そして、誰もがまんじりともせずに迎えた翌日の朝。
捕虜たちのいる柵の中に、見るからに物々しい武装の兵を多数引き連れてセティウスがやってきた。
セティウスは居丈高に命じ、捕虜たちを自分の前に並ばせる。
そうして並ばせた捕虜たちへ向けて、セティウスは次のように問いかけた。
「ここにいる者たちは、パルティスの兵か? ピアータの兵か?」
その問いに、捕虜となったロマニア国の人々は異口同音に、こう答えたのである。
「私たちはすべてピアータ姫殿下の兵です」と。
◆◇◆◇◆
その後、ピアータの兵を名乗った捕虜たちは、丁寧に傷の治療を受けたばかりか、糧食や飲み水まで持たされた上で解放されたのである。
そうして無事にマサルカ関門砦に戻った兵たちは、解放されるまでの顛末を一部始終報告した。
それを聞いて激怒したのは、敗将となったトゥベリウスである。
まんまと敵の罠にはまっての惨敗を喫した上に、さらには女装させられるという恥辱まで味わわされたトゥベリウスは、このままおめおめと王都へ帰還するぐらいならば自刎して果てた方がマシだとすら、このとき思い詰めていた。
しかし、それがピアータと破壊の御子による策謀であったと聞かされた途端、トゥベリウスの感じていた恥辱は一気にピアータへの憎悪へと転化する。
全身から火が噴き出すほど激怒したトゥベリウスは砦の守将を命じられておきながら許可も無く砦を離れて帰国するという軍令違反を犯してまで王都ロマルニアへと早馬を使って帰還した。
そして、朝議の最中に乗り込んでパルティスと居並ぶ官僚や諸将らの前でピアータの裏切りを告発したのである。
これに対してパルティスは面白い冗談だと笑い声を上げた。
いくら他人の言動に左右されやすいパルティスとはいえ、さすがにピアータが自らが女王になるために国を売ったなど信じられるわけがない。パルティスにとってピアータが裏切るなど、たとえ天地がひっくり返り、太陽が西から昇り東へ沈むともあり得ないことだった。
そのため、トゥベリウスの訴えも当初は何かの冗談だと思ったのである。
ところが、まともに訴えを受け取ろうとしないパルティスに、トゥベリウスはしつこく食い下がった。さすがにそこまでされればパルティスも、嘘や冗談ではなく本当にトゥベリウスがピアータの裏切りを訴えているのだと理解する。
そして、それと同時にパルティスは大いに困惑した。
何かの間違えであろう。貴公の勘違いではないか。
ピアータが母国を裏切るはずがないと確信するパルティスは、激昂するトゥベリウスを何とか宥めようと説得したのである。
だが、もはやピアータ憎しの一念に凝り固まったトゥベリウスはパルティスの説得にも耳を貸さなかった。ただひたすらピアータの裏切りを訴え、パルティスへ厳罰を求めたのである。
ピアータの裏切りを訴えるトゥベリウスと、妹の無実を確信するパルティス。
ふたりの主張はすれ違い、折り合わず、また曲げることはなかった。
トゥベリウスの頑なな態度に、しだいにパルティスも機嫌を悪くする。
パルティスは段々と語調が荒くなり、ついにはトゥベリウスへ露骨に不快感を示す態度を取り始めたのである。
これに慌てたのがモンティウス宰相であった。
言葉を荒げて言い争いの様相を呈し始めていたふたりの間に割って入ったモンティウス宰相は、これはピアータを貶め、ロマニア国内に不和を招かんとする破壊の御子の策であると訴えたのである。
これに根が素直なパルティスは、「なるほど! 我らはまんまと奴の策にはまっていたのか!」とそれまでの不機嫌さなどどこへ行ったのか闊達に笑い声を上げた。それからモンティウス宰相の慧眼を讃えるとともに、トゥベリウスへもねぎらいの言葉を掛けたのである。
「互いに間抜けであったな。それに貴公は破壊の御子めにひどい目に遭わされたと聞く。そのため平常心を失っているのであろう。今はゆっくりと休まれよ。後ほど酒なりを送り届けてやろう」
それはトゥベリウスを慮っての言葉であった。
しかし、これはトゥベリウスにとっては恥の上塗りである。
女であるピアータにすら勝てなかった敵に惨敗。しかも虜囚の恥辱どころか、女装させられた上で放逐されるという恥辱。さらには多くの官僚や諸将がいる前でピアータの叛意を訴えたのに、それを破壊の御子の策に踊らされたと決めつけられてしまったのである。
しかし、いくら納得がいかないと言っても、モンティウス宰相がそう進言し、それをパルティスが認めたとあっては、もはやそこに異論を挟む余地などない。
恥辱と憤怒に顔を真っ赤に染め、奥歯を噛み砕かんばかりに歯を食いしばったトゥベリウスは、パルティスへ無言のまま背を向けて朝議の場から立ち去るしかなかったのである。
その不満と怒りが、さらなる蒼馬の策の布石となることを知らずに――。




