第166話 問題
「先程は兄者が陛下の前を騒がせてしまい、大変申し訳ございませんでした」
そう言って深々と頭を下げたのはジャハーンギルの末子パールシャーであった。
そこは蒼馬の執務室である。
朝議を解散した蒼馬は執務室に戻るなり、ガラムなど主立った者たちを急ぎ呼び出した。それは朝議でのメフルザードが起こした騒動について話し合うためである。おそらくはそうなるであろうと予想していたガラムたちはすぐさま蒼馬の執務室へ集まってきた。
そうして全員がそろったところで、まず冒頭のようにパールシャーが謝罪したのである。
「謝罪はいらないよ、パールシャー」
渋い顔のまま蒼馬は、そう言った。
「私にも落ち度がある。以前から、おまえたちとモラードの間に何か確執があったのには気づいていた。だから、できるだけ関わらせないようにしていたんだけど。でも、まさかあの場でメフルザードがあんなことを言うとは思わなかった」
あのときのことを思い返した蒼馬は頭痛を覚えたかのように額に手を当てた。
それにパールシャーは兄を擁護する。
「兄者の言動は許されないものだと俺も思います。ですが、兄者も好き好んであのようなことを言ったわけではないのです」
パールシャーの言葉に、蒼馬は「どういうこと?」と返した。
「メフルザードの兄者は、俺たち兄弟で一番親父を尊敬しているんです。だからこそ、兄者はああ言わざるを得なかったのだと思います」
メフルザードが父親を尊敬しているのは蒼馬も承知していた。メフルザードの常日頃の言動の端々からジャハーンギルを真似た節が感じられるのだ。
しかし、それがあの発言にどう関わってくるのかが蒼馬にはわからなかった。
それを指摘するとパールシャーは躊躇ってから口を開く。
「不敬を承知で申し上げれば、この国にいる多くのディノサウリアン――その中でも戦士種の者たちの多くは、陛下へ敬意は払えどお仕えしていると考える者はおりません」
そうだろうな、と蒼馬は苦笑した。
仕えている気でいれば、少なくとも自分が慌ただしく政務を執ったり、地方巡幸に赴いたりしても、我関せずとばかりに王宮の中庭で昼寝などはしていないだろう。
「俺たちディノサウリアンの戦士種を従わせるものは、種の階級であり、もしくは個人の武勇に対してなのです。そんな者たちが陛下へ曲がりなりにも敬意を払うのは、ひとえに親父の存在があるからに他なりません」
パールシャーは苦笑いを浮かべた。
「俺が口にすれば傲慢と言われるやも知れませんが、俺たちティラノ種は王族種を除けばディノサウリアンでも最高の種です。そして、その中にあってすら規格外の武勇を誇る親父は、王族種がいないこの地においては、まさに至高の存在といえましょう」
メフルザードはどこか嬉しそうに続けて言う。
「親父は、あのような性格なので無礼な態度を取ることもございますが、陛下のことを気に入っております」
以前より、勝手気ままに振る舞うジャハーンギルが気づくと自分の視界に入る場所にいることに蒼馬は気づいていた。それが単なる自分への好奇心からのものなのかわからないが、ジャハーンギルの視線を感じることも多くある。
少なくとも嫌われてはいないとは思っていたが、その好意を明確に言葉にされた蒼馬は嬉しさとともに恥ずかしさすら覚えた。
全身がくすぐったくなったように身もだえする蒼馬に、パールシャーはわずかに目を細めた。
「それがわかるからこそ、失礼ながら陛下をたかが人間種にすぎないと思っている戦士種の者たちが、曲がりなりにも陛下の指揮に従っているのです」
そこでパールシャーはわずかに言い淀んでから続ける。
「だから、皆は腹立たしく思っているのです。たかが石喰い――失礼しました。カマラ種であるモラードごときを親父と同等に扱うのか、と」
「ちょ、ちょっと待ってよ」
蒼馬は慌てて口を挟んだ。
「私がモラードをジャハーンギルと同等に? そんなのあり得ない!」
モラードにはミルツァの地で命を助けてもらった恩義はある。
しかし、ボルニスの街で邂逅して以来、いくつもの激戦においてその卓越した武勇を示してきたジャハーンギルの貢献と比べれば、それは遠く及ばない。
ボルニス決戦では最後の突撃で戦いの雌雄を決し、コンテ河で押し寄せる黒壁を橋で食い止め、王都ホルメニア郊外では民兵とともにロマニア国軍を掃討し、あのベルテ川の戦いでは英雄パルティスを足止めするなど、ジャハーンギルの武勇が挙げた功績は数多いのだ。
そこで蒼馬はハッと気づく。
「いや。だから、か……」
ジャハーンギルの挙げた功績は、いずれも個人の武勇によるものだ。決して兵を率いる将としてのものではない。事実、ジャハーンギルは部隊の指揮は息子たちに放り投げ、自身は敵へと斬り込むのが常である。
また、他種族との協調性の無さに加え、あまりに種としての戦闘能力の差がある他の種族の兵を彼の下に入れるわけにもいかず、あれだけの大功を挙げておきながらジャハーンギルは、いまだわずか百名足らずのディノサウリアンだけの小さな部隊の将にすぎないのだ。
もちろん、それについては蒼馬も配慮していた。
ジャハーンギルを軍の規律を正す監軍という重職に任じるとともに、彼の部隊は親衛隊として戦場では身近に置いて戦の勝敗を決する最後の一撃ともなる部隊として重用していたのである。
ところが、そこへ彼らディノサウリアンの戦士種が「石喰い」――最底辺の奴隷と見下しているモラードが、他種族の兵とはいえジャハーンギルと同数に近い兵を率い、しかもそれが王の親衛隊に勝るとも劣らぬ名誉ある儀仗兵隊の隊長に任じられたのだ。
それをディノサウリアンたちから、モラードをジャハーンギルと同等に扱っているのだと見做されてしまったのだろう。
「以前から下の者たちの間では、モラードが陛下の名誉ある大旗の旗手を務めていることに不満が上がっておりました。しかし、陛下に負い目がある親父が静観していたため、彼らもそれ以上は騒がなかったのです」
パールシャーの意外な言葉に蒼馬は驚いて声を上げる。
「ジャハーンギルが私に負い目って? いったい何のこと?」
まったく心当たりが無い蒼馬は首をかしげた。
本気で思い当たらずに困惑する蒼馬の姿に、パールシャーは他種族にもそれとわかるぐらい苦笑する。
「お忘れですか? マーマンの少女を街へ密輸しようとした隊商を検めたときのことを」
蒼馬は、「ああ」と思い出す。
かつてジェボアの商人ジューダの隊商から拐かされたマーマンの少女を見つけようとしたとき、ジャハーンギルの暴走によって窮地に陥りかけたことがあった。
しかし、そんなことで負い目を負わせたとは思ってもいなかった蒼馬はすっかり失念していたのである。
「だからこそ、おそらく親父はその直後に陛下が受け入れたモラードについては何も言うまいと思ったのでしょう。そうでもなければ、あの気位が高い親父は奴隷種が視界に入ることすら許さなかったはずです」
パールシャーは「あくまで俺の想像ですが」と付け足した。
それからパールシャーは悔しげに拳を握る。
「モラードの儀仗兵隊の隊長への抜擢を機に、下の者たちの不満が高まりました。中には親父が、牙を抜かれて鱗を剥がされたのかと陰口を叩く者までいます。それが俺たち兄弟の中で一番親父を尊敬するメフルザードの兄者は我慢ならなかったんです」
「つまり、あれは本来ジャハーンギルが言ったはずの不満をメフルザードが代弁したようなものなのか……」
蒼馬の言葉に、パールシャーはうなずく。
「ですから、親父もあれほど激怒したのです。自分の忍耐を我が子に擁護されたとあっては気位の高い親父としては、我慢ならなかったのでしょう」
一通りの事情を聞き終えた蒼馬は、最後にパールシャーに質問する。
「モラードの扱いについて、パールシャー自身はどう思っているの?」
すると、パールシャーは即答しなかった。ややあってから、ようやくその重い口を開く。
「正直に申し上げて、私も良い気分ではございません」
傲慢なディノサウリアンの中においては、異常とも言って良いほど他種族に寛容なパールシャーである。その彼ですらモラードの扱いについては、これほど明確に不快感を表すのだ。他のディノサウリアンたちがモラードの扱いに対してどう思っているか想像するまでもない。
蒼馬は「わかった」と言ってから続ける。
「すでにモラードの抜擢は決まったことだから撤回はできない。でも、できるだけ他のディノサウリアンたちとはこれまで以上に関わらせないようにはするよ。それで何とか我慢して欲しい」
「陛下のご配慮に感謝いたします」
謝意を示したパールシャーは退室の許しを得て、その場から立ち去った。
部屋に残った皆を前に、蒼馬は椅子の背もたれに背中を預けると、天井を振り仰ぐ。
「……まいったな、これは」
ため息とともに洩れたのは、心の底からの言葉だった。
ディノサウリアンの中での種への偏見は知っていたが、それは自分が知り、想像していた以上に強く根深いものだったようである。
蒼馬の知識の中に、その人の個性ではなく生まれによって階級や職業を規制するディノサウリアンの社会制度と類似するものといえば、カースト制度がそれに当たるだろう。
カースト制度とは、インドのヒンドゥー教における身分制度である。カースト制度は司祭階級・武士階級・商人農民階級・労働者階級の四階層に分けられており、人々は自身が生まれた階層に従い身分や役割が決められてしまう。そうした階層間では婚姻を含む交流を制限されるばかりか、上位カースト民による下位カースト民やカースト制度に属していない不可触民と呼ばれる被差別民ダリッドへの差別や迫害や暴行や強姦などが問題となっているという。
カースト制度による差別は、人権と平等が強く謳われる現代において差別を禁止する法が施行されてもなお解決していない問題である。それを考慮すれば、価値観やものの考え方が地球の古代から中世あたりに相当するこのセルデアス大陸で、しかも種によって外見や能力すらも異なってしまうディノサウリアンの差別問題を一朝一夕で解決するのは不可能だと断言できる。
「自由と平等を掲げているこの国でも、こうした問題はなくならないんだな」
「当然だろう」
蒼馬のこぼした愚痴に答えたのは、シェムルである。
「以前にも私が言ったではないか。誰も彼もがおまえの考えを賞賛し、賛同しているわけがないのだぞ。もし、そんなことを思っているのならば、それは呆れるほどの無知であり傲慢だ、とな」
蒼馬が苦笑とともに「そうだね」と返すと、シェムルはしかつめらしい表情を作って続けて言う。
「確かに、これは難しい問題だ。しかし、放置するわけにはいかないだろう」
これに蒼馬はひとつうなずいて見せる。
「私も放置するつもりはないよ。でも、メフルザードも最低限の自制はしてくれたみたいだ。一応の筋は通してくれている」
もし、メフルザードがモラードを奴隷種だからと批判したのならば、エルドア国の法に反すると突っぱねられただろう。しかし、あくまでメフルザードはモラードの実績の不足を指摘し、彼の力を確かめるための機会とすべきだという提案である。
「それならむしろメフルザードの言うとおり、ここでモラードに実績を挙げさせて批判を押さえ込む。それからモラードとメフルザードたちに距離を置かせるぐらいしか今は対処が思いつかないよ。深く根づいた差別意識をなくすには、もっと時間が必要だ」
蒼馬は、それには教育が必要だと考えていた。今は聖教の教理によってもたらされた他種族への差別意識をなくすために、人間の孤児たちを中心に自由と平等の理念を教育している。それを人間種だけではなく、エルドア国に住むすべての種族に広めていかねばならない。
そう言う蒼馬にシェムルは深くうなずいて見せた。
「そうだな。『大山も一個の石から』だな」
シェムルが口にしたのは、たったひとりのドワーフが長い年月をかけて土や石を積んで山を作ったという伝説から、どのような大事業も最初は小さなことから始まったという意味の格言であった。
シェムルとのやり取りで蒼馬の気持ちが軽くなったところで、それまで黙っていたズーグが口を開く。
「それは良いとして、まず目先の問題はモラードの奴にどうやって功績を挙げさせるかだろう? 言っちゃ悪いが、あいつに兵を指揮させてあのじゃじゃ馬相手にうまく負けさせるなんて不可能だぞ」
ズーグの指摘は、もっともである。
兄のパルティスには及ばないものの英傑の力を示し、また百狼隊という精鋭を率いるピアータに対して、モラードが兵を率いて挑めば七回負けるどころか最初の一戦だけで全滅は必至だ。
しかし、ガラムやズーグたちが助力すれば、それをモラードの功績とするには無理がある。かといって、蒼馬にもモラードだけでうまくピアータに負けられる方法など思いつかなかった。
「仕方ない。彼にモラードへ知恵を貸して欲しいとお願いしよう」
そう言うと蒼馬は、ある人物の名を挙げた。
それは本来ならば、この策を委ねたかった人物である。しかし、彼が連敗すると前線に多大な影響を及ぼすために、それを断念せざるを得なかった人物でもあった。
「なるほど。彼ならば最適でしょうな」
蒼馬の提案に賛同したのは、人将マルクロニスである。
「武勇や指揮においては大将軍閣下や獣将殿に及びませんが、こと負け戦におけるしぶとさにかけては我が国随一でありましょう」
「そうでしょ?」
マルクロニスから太鼓判を押された蒼馬は、にっこりと微笑んだ。
「ちょっと良いか、ソーマ」
自分の発案にご満悦だった蒼馬に、シェムルが声をかけた。
「どうかした、シェムル? 何か問題でもあるかな?」
「いや。あいつに協力してもらうことには問題はない。それとは関係ないが、ちょっと気になることがあってな」
何かシェムルが気にするようなことでもあっただろうか。
そう首をかしげる蒼馬に、シェムルは質問する。
「ピアータにわざと負ける回数を七度とした理由は何なんだ?」
蒼馬は、うっと言葉を詰まらせてしまった。
ありていに言ってしまえば、七度とした理由などない。ただ、際限なく負け続けろでは将兵たちの士気を保たせるのも難しい。
そこで適当な数字を設定しようとして蒼馬が思いついたのが、有名な漫画「三国志」に出てくる「敗走十五度」であった。
それは諸葛孔明が南蛮で反乱を起こした孟獲を討伐した時の話である。何度も孔明に敗れた孟獲が最後に頼ったのは、烏戈国の兀突骨大王が率いる藤甲軍だった。この藤甲軍の名前の由来ともなっている藤甲という鎧は、何度も油に浸けて乾かすのを繰り返した山藤の蔓で編まれており、水に浮くだけではなく矢も刀も通さないほど強靭なものだった。この藤甲軍によって、孔明が率いる蜀軍は痛手を被ってしまう。
しかし、孔明はすぐに藤甲が火に弱いと見抜くと、敵を谷へと誘い込み火計をもって一網打尽にしようと考えた。
だが、敵は何度も自分に敗れた孟獲である。そう簡単には罠に誘い込むことはできない。
そこで孔明は魏延に命じて、半月の間に十五度も敗走させたのである。
これには兀突骨大王ばかりか、孟獲もまた油断してしまった。そして、ついに兀突骨大王と藤甲軍は誘い込まれた谷で火計によって全滅し、孟獲もまた孔明に捕らわれてしまったという。
これにあやかって蒼馬も最初は十五度負けさせようとしたのだが、さすがに十五度は多すぎるだろうと考え直した。それならば十五度敗走した際に魏延が捨てた陣が七つであり、孟獲が孔明に心服したのも七度の敗北だったところから、七という数を決めたのだ。
さらに言うならば「ラッキーセブンっていうから縁起も良いよね」という極めて安直な考えからのものだったのである。
それだけに、何か深い意図があってのものだろうという期待でキラキラと目を輝かせるシェムルに、蒼馬はいたたまれない気持ちになってしまう。
「それは、もちろん……」
蒼馬はソッとシェムルから顔を背けて言う。
「私の深慮遠謀から導き出された数だよ」
「おお! やっぱりそうか! さすがは我が臍下の君だ!」
皮肉ではなく、心底から感嘆するシェムルの言葉が胸に突き刺さる蒼馬だった。




