第164話 金貨五万枚
ロマニア国に仕込まれた国崩しの猛毒。
それはセサル王の手先であった「根」の裏の者たちからトゥトゥが聞き出したものだった。トゥトゥからその詳細を聞かされた蒼馬が、それを元に今回の策を考え出したのである。
「私がガラムたちを信頼していないわけじゃない。おまえたちの力を疑うくらいなら、太陽が東から上るのを疑った方が、まだマシだよ」
蒼馬は戯けた口振りだが、臣下たちを篤く信頼していると断言した。これには不満を示していた者たちも気を良くする。
それを見届けてから蒼馬は続けて言う。
「でも、この策は謀略の類いだ。だからこそ、トゥトゥにしかできないと考える」
もともと自身が疑念を持ったというよりも、王である蒼馬の決定に異議を唱えられないまま不平不満をため込んでしまわないように、そうした臣下たちが声を上げる呼び水となるつもりであったガラムは蒼馬の答えに「なるほど。承知した」と、あっさりと退いた。
ガラム以外から異議が出ないのを見定めてから蒼馬は改めてトゥトゥに問いかける。
「それで、トゥトゥ。できそうかな?」
事前にロマニア国三傑打倒の策の実行を持ちかけられていたトゥトゥはその糸のように細い目を笑みでさらに細めて答える。
「ロマニア国にも私の同胞たちが多く入り込んでおります。彼らを動かせば可能でございます。必ずやロマニア国の三傑を落としてご覧に入れましょう」
それは良かったと手を打って喜ぶ蒼馬に、トゥトゥは眉をひそめて告げる。
「ですが、それには多少の資金が必要となります」
何をするにも資金は必要だ。トゥトゥの言い分はもっともだと蒼馬は認め、いくら必要か尋ねた。
トゥトゥはしばし考えてから答える。
「およそ金貨五千枚」
臣下たちがどよめいた。
金貨五千枚と言えば、大きい地方都市の一ヶ月から二ヶ月分の税収にも相当する金額である。それを詳細も明らかではない策のために寄越せと言われれば、それに憤懣を覚えるのも当然であろう。
財務に関わる重臣のひとりがたまらず声を上げる。
「金貨五千枚とは、いくら何でもぼったくりすぎではございませんか?」
しかし、それにトゥトゥは心外とばかりに答える。
「ぼったくりとは、とんでもない。これでも極力抑えた金額なのです。それに、あのロマニア国三傑を落とすのです。金貨五千枚ならば、安いものでしょう」
策の詳細も明らかにせず、また資金の使途も不明だというのに、ただ安いと言われても納得ができるものではない。
上司でもある財務長官のミシェナなどは目を見開いたまま硬直しているため、その重臣はどうにかならないかと蒼馬へと目を向ける。
すると、蒼馬は自分のおとがいに手を当て、視線を足許に落としたまま何事かを考え込んでいる様子だった。
やはり金貨五千枚はぼりすぎと思っているのだろうと皆が思っていると、しばらくして蒼馬は足許に落としていた視線をトゥトゥへと向ける。
「ねえ、トゥトゥ。極力抑えたってことは、それ以上削ると策は無理そう?」
蒼馬の問いに、トゥトゥは苦笑を返す。
「できないことはございませんが、動かせる人員も使える手も減らさねばならず、策の成功は覚束なくなりましょう」
「じゃあ、逆に資金を増やせば成功率は上がるの?」
蒼馬の質問の意図がわからず困惑気味にトゥトゥは答える。
「まあ、そうですね。余裕があれば、不測の事態にも備えられますし、おそらくは……」
その答えに蒼馬はニコッと笑う。
「よし。――じゃあ、金貨一万枚を出そう」
いきなり要求の倍額を提示した蒼馬に、トゥトゥはとっさの答えに詰まってしまった。また、ミシェナなどは目ばかりか口まであんぐりと開けてしまう。
「足りないかな? なら、二万枚では?」
トゥトゥが答えないのに、蒼馬はさらに倍額を提示してきた。
これにはトゥトゥも慌てる。金貨五千枚が極力抑えた費用という言葉に嘘はない。しかし、それでもいきなり金貨五千枚を寄越せと言われて簡単には納得できないぐらいはトゥトゥも理解していた。できるならば一万枚とは言わず、せめて金貨六千か七千枚も融通してくれれば助かるのにとも考えていた。
それがいきなり倍額。さらに、その倍額の提示である。
「ちょ、ちょっとお待ちを――」
慌てて制止の声を上げようとしたトゥトゥに、蒼馬は小首をかしげる。
「まだ足りない? それなら三万枚?」
目と口を限界にまで開いたミシェナの顔が蒼白になる。
トゥトゥも咽喉まで出かかっていた言葉を詰まらせてしまう。
トゥトゥからの返事がないのに、蒼馬は左の手のひらへ右の拳をポンッと叩き合わせる。
「よし、わかった! それならドンッと金貨五万枚を出そう!」
トゥトゥは思わず悲鳴を上げそうになる。
そして、ミシェナはムンクの名画のように自分の両頬へ手を当てて無言の悲鳴を上げていた。
蒼馬の決定にたまらず先程の重臣を含めて何人もが蒼馬を諫める声を上げる。
ところが、それを蒼馬は一笑に付した。
「金貨五万枚なんて、たいしたことないさ。まともに戦って三傑を打ち倒そうとすれば、その損害は五万枚なんかじゃとても足りない。それどころか、多くの人命までも失われてしまうんだ。それを考えれば安いものだよ」
さらに蒼馬は悪戯っぽく笑って見せる。
「それに、以前ボルニスの街にいたときにドルデア王から金貨五万枚の援助をもらったことがあるんだ。それを叩き返したと思えば、私たちが損したことにはならないよ」
蒼馬にそこまで言い切られてしまえば、異議を上げていた者たちもそういうものかと納得せざるを得なかった。
反論が出なくなったのを確認した蒼馬は改めてトゥトゥに尋ねる。
「これで問題はないよね?」
トゥトゥは即座に頭を下げた。
「この身命を賭しても、必ずやソーマ陛下のご期待に添いましょう」
それは良かったと満面の笑みで喜ぶ蒼馬の声を顔を伏せたまま聞くトゥトゥは、自身のこめかみに冷や汗がにじむのを感じていた。
秘策の可否をその内容を伝えたときではなく、あえて重臣らがそろうこの場で蒼馬が問うたのは、身分も低く新参者に過ぎないトゥトゥの力を示し、策が成功した際の功績を明らかにすることで、今後も彼を取り立てていくための布石である。
しかし、そう聞かされていたトゥトゥにとっても、金貨五万枚もの大金をポンッと投げ渡されたのは想定外のことであった。
トゥトゥは決して口にはできない愚痴を胸の内でこぼす。
「ソーマ陛下も、人が悪い……」
賤民上がりで、しかも新参者に過ぎないトゥトゥに大金を投じたことで、蒼馬はそれが何者であろうと能力とやる気があれば重用するという姿勢を示したことになる。
これを聞けば、これまでその境遇から不遇を託っていた者たちは、こぞって蒼馬のところへ馳せ参じるであろう。
そして、もしトゥトゥが失敗しても、蒼馬にとってはさほど痛手にもならない。
確かに五万枚の金貨は大金だが、それを失ったからと言って隆盛著しい大国エルドアの財政は小揺るぎもしないだろう。せいぜい蒼馬が財務長官から恨み言を言われるぐらいなものである。秘策に失敗して投じた資金が無駄になっても、蒼馬自身は「残念だけど、しょうがないね」ぐらいで済ませてしまうだろう。
しかし、トゥトゥはそうもいかない。
ロマニア国三傑攻略を任せられるという異例の大抜擢と厚遇を受けておきながら、失敗では済まされないのだ。エルドア国での立身出世が完全に断たれるだけではない。この西域で二度と浮かび上がることはできなくなってしまうだろう
もはや秘策を成功させる以外に道はなくなってしまったトゥトゥは、はたと気づく。
「まさか、ソーマ陛下はこれを意図していたのだろうか?」
トゥトゥの胸の内に、毒蛇が残した猜疑という毒がじわりと湧き上がる。
トゥトゥがわずかに顔を上げて玉座の方を窺えば、潤んだ目で無言の抗議を上げるミシェナの機嫌を取ろうとしている情けない蒼馬の姿があった。
トゥトゥは悩んだ。
果たしてあれは演技なのであろうか?
それとも本性なのであろうか?
トゥトゥには、それはわからなかった。
ただ、与えられた秘策を成功させなければならなくなったことだけは確実であった。
◆◇◆◇◆
「さて、トゥトゥに与えた秘策を成すために、私が信頼する将たちに力を貸して欲しい」
今でもチクチクと氷の針で突き刺されるような視線をミシェナから向けられながらも、何とか彼女からトゥトゥへの資金を手配する言葉を引き出した蒼馬は、次の議題へと話を進めた。
「ロマニア国へ攻め入るには、ラビアン河の渡し場とそこにあるマサルカ関門砦の奪還は必須だ。しかし、それには邪魔者がいる」
蒼馬の言葉に、その場にいた将たちは同じひとつの名を思い浮かべる。
そして、その名を蒼馬は口にする。
「ピアータ・デア・ロマニアニス。ロマニア国三傑のひとりで、ロマニア国軍本隊が撤退した後もこの国に留まり、こちらを牽制し続けている強敵だ。マサルカ関門砦を奪還するには、このピアータを排除しなければならない」
かつてはロマニア国のじゃじゃ馬姫と侮られていたピアータだったが、もはやエルドア国の将たちの中で彼女を侮るものはいない。
誰もがピアータを恐るべき敵と認識しており、それだけに激しく戦意を燃え上がらせていた。
「そのために、将の誰にか兵を率いてもらい――」
蒼馬の言葉が終わらぬうちに、ズーグが牙を剥き、ドヴァーリンが髭をしごき、アドミウスが名乗り上げようと一歩踏み出し、ジャハーンギルが尾で床を叩いた。
しかし、そんな者たちに向けて蒼馬は次のように告げる。
「――ピアータと七度戦い。七度負けて欲しい」




