第148話 復讐
アレクシウスがまたもや逃亡する。
それが伝わるや否や、わずかに残っていた反乱軍の元諸侯たちは雪崩を打つようにエルドア国軍へ降伏した。縄を打たれて蒼馬の前に引き出された彼らは口を揃え、アレクシウスを痛烈に罵倒し、自分らは騙されて反乱に加わっただけなのだと蒼馬へ訴えた。そして、蒼馬への帰順を申し出るとともに、自身らでアレクシウスを追討するとまで申し出たのである。
しかし、蒼馬はそれを苦笑いとともに拒否した。
これだけ大事になった反乱である。それに加わっておきながら、何の懲罰も与えないわけにはいかなかった。すでにアドミウスを介して伝えたように、降伏した元諸侯たちへ身分の剥奪を宣言した上で、期限内に国内から退去するよう命じたのである。
悄然と肩を落とす元諸侯らが自分の前から引っ立てられて行くと、しばらくして蒼馬はたまらず笑い声を上げた。
「どうせ逃げるだろうと思ってはいたけど、まさか味方を騙してまで逃げるとは思わなかったよ」
ワリナから聞いた話では、アレクシウスは演壇での口論の中で、自身こそがホルメア国だと言い放ったという。もしアレクシウスがルオマの街での逃走や王権移譲の際に姿を現さなかったことを恥じた上で、それでも故国を想って反乱を起こしていたのならば、そのような台詞は決して口にはできないものだ。それはとりもなおさずアレクシウスがまったく反省しておらず、それどころか自分の恥ずべき行動を戦略的撤退や雌伏といった美名にすり替えて正当化しているだろうことが窺えた。
そのため、似たような苦境に陥れば、アレクシウスは再び逃げ出すのではないかと蒼馬は考えていたのである。
「アレクシウスという奴は、とことん見下げ果てた奴だな」
そう憤慨したのは、シェムルであった。
アレクシウスの敵前逃亡は、エルドア国にとって無駄な戦いをせずにすみ、喜ばしい結果に間違いない。だが、誇り高い彼女からすれば敵とは言えアレクシウスの行いは言語道断であった。
牙を剥いて低くうなり声を上げるシェムルに、蒼馬はなだめるように言う。
「まあ、そうなるように私が仕向けたんだけどね」
追い詰められたアレクシウスが、かえって腹をくくって徹底抗戦する恐れもあった。
そこで、軍使として向かわせたアドミウスにルオマの街でのことを話題に持ち出させ、元諸侯らにアレクシウスが逃走する可能性を意識させる。たとえ元諸侯らがそう思わなかったとしても、アレクシウスが多少なりともルオマの街でのことに後ろめたさを覚えていれば、彼の方から元諸侯らに疑われていると勝手に疑心暗鬼に囚われるはずだ。そうして孤立していくように仕向ければ、たとえアレクシウスが戦いたくとも逃げるしかなくなるだろう。
そんな蒼馬の策が見事にはまった結果であった。
「狙い通りとは言え、さすがに奴らには同情の念を禁じ得ませんな」
元諸侯らが引き立てられていった方を見やりながら、ため息交じりにそう言ったのはアドミウスである。同じくアレクシウスに騙されて逃げられた経験を持つアドミウスにしてみれば、他人事では無かった。
そんな同情の表情から一転して目尻を吊り上げてアドミウスは蒼馬に尋ねる。
「それで、陛下。あの臆病者はどうなりましたか?」
あの臆病者とは、言わずと知れたアレクシウスのことである。
もしアレクシウスがこの場にいれば、その首をねじ切りそうな剣呑な気配を漂わせるアドミウスに蒼馬は苦笑を洩らした。それから直接に彼へは答えず、代わりに傍に控えていたエラディアへと声をかける。
「アレクシウス捕縛の報せはまだ?」
「ご安心くださいませ。間もなく朗報が届きましょう」
蒼馬の問いに、エラディアはにっこりと微笑んで答えた。
アレクシウスが街から逃げようとすれば、エルドア国軍が布陣している南を避け、人目につかず、また隠れる場所も多い北の山を選ぶのが妥当である。
そこで蒼馬は、あらかじめ北の山に黒エルフ弓箭兵隊を伏せておいたのだ。
さらに蒼馬は、街への威圧もかねて兵たちに声を上げさせることで、ことさらエルドア国軍の存在を顕示し、またハーピュアンたちを目立つように街の南で飛ばせるなどして、確実にアレクシウスを黒エルフ弓箭兵が伏せる山へと追い込んでいたのである。
そして、その策は功を奏し、すでに昨夜のうちに街から少数の兵とともに街から逃げ出したアレクシウスの姿を捕捉していた。
蒼馬がアレクシウスの生け捕りを命じていたため、不慮の事故を招く恐れがある夜間の戦闘を避けて昨夜は監視と追跡だけに留めていた。だが、すでに日は高く昇っている。今頃は黒エルフ弓箭兵隊によってアレクシウスは捕縛され、この本陣へ護送されている頃だろう。
そう思っていると、そこへひとりの黒エルフ弓箭兵が息を切らして駆け込んできた。
噂をすれば影が差すとばかりに、アレクシウスを捕縛した報せを持ってきたのだろう。
そう思った蒼馬だったが、朗報を携えてきたにしては黒エルフ弓箭兵の顔が険しかった。何かあったのかな、と疑念を覚える蒼馬の前で、黒エルフ弓箭兵は蒼馬へ向けて一礼してからエラディアへ何事かを耳打ちする。
すると、エラディアの秀麗な眉がキリリッと吊り上がった。
「何ですって?! アレクシウスを取り逃がしたのですかっ!」
エラディアの怒声とその内容に驚く蒼馬の前で、黒エルフ弓箭兵は慌てて弁解する。
「申し訳ございません。アレクシウスの護衛の者たちが予想以上に奮戦し、こちらの囲みを破られました」
蒼馬は、はてと思った。
元諸侯らの目を盗んで逃げ出したアレクシウスは、すでに報告されたように少数の兵しか連れていなかったはずだ。
そんな戦力だけで、黒エルフ弓箭兵たちにとって独壇場ともいえる木々が生い茂る山の中で、しかも待ち伏せをした上での彼女らの囲みを突破できたとは思えなかった。
エラディアもそう思ったのか、報告に来た黒エルフ弓箭兵を厳しく叱責する。
「何という失態! 恥を知りなさい! 如何なる犠牲を払ってもアレクシウスを生きたまま捕縛するのですっ!」
優艶さでもって知られる女官長とは思えない剣幕であった。これに黒エルフ弓箭兵は恐れおののき平伏する。
「はい! 私たちの身命に代えても、必ずや!」
「ちょ、ちょっと待って!」
蒼馬は、飛び出していこうとする黒エルフ弓箭兵を呼び止めた。そして、なだめるように言う。
「無理を押してまでアレクシウスを捕縛する必要はないからね」
アレクシウスの殺害ではなく捕縛を命じたのは、これから妻に迎えるワリナの手前だからである。さすがに血のつながった実の兄を殺害し、その血に濡れた手で堂々と求婚するほどの図太さは蒼馬にはない。
アレクシウスを逃走へ追いやるための脅しで極刑に処するとは伝えたものの、実際にはワリナとの成婚の恩赦を理由に、王都の牢獄で一生涯幽閉するつもりであった。
もっとも、王族用の牢獄とは立派な調度品も備えられていて生活するには不自由はないが、脱走や反乱の扇動を防止するため面会ばかりか牢番とすら一切の会話が許されていないところである。たいていの人間は遠からず精神を病むという牢獄に死ぬまで幽閉され続けるのが、果たして恩赦となるのか疑問ではあった。
「陛下にお気遣いいただき感謝の言葉もございません。ですが、やはりアレクシウスめは生け捕りにした方が陛下のご都合によろしくはございませんか?」
それでも心配げに尋ねるエラディアに、蒼馬は「そんなことないよ」と気軽に答えた。
「ここまで恥を晒したアレクシウスの価値なんて、もう無いよ。むしろ、これで元ホルメア国の臣民だった人たちも愛想を尽かして、エルドア国を盤石にしてくれたようなものさ。それに、アレクシウスから得られる情報なんてものもないだろうしね」
アレクシウスの消息が掴めなかったのは、バルジボア国に匿われていたためであり、また今回の反乱を起こせたのは商人アルセニオの援助によるものだったというのは、すでに降伏してきた元諸侯から聞き出されていた。
トゥトゥより暗愚を装い西域の闇に潜む毒蛇であるセサル王の正体を聞かされた今では、このアレクシウスの反乱もまたセサル王の陰謀であったと蒼馬は確信している。
しかし、確たる陰謀の証拠がなければセサル王を追求できなかった。
アレクシウスを匿い、反乱を扇動したとバルジボア国を非難したとしても、ホルメア国の王子を匿うのは友好国として当然のことであり、またアルセニオなる商人とバルジボア国とは何ら関係はないと突っぱねられるのが落ちである。
そして、「根」という強力な諜報組織を有するセサル王にいまだ暗殺されていないことからも、アレクシウスがセサル王を追い詰められる確たる証拠となるような情報を持ち合わせていないのは明らかだった。
そのアレクシウスを生け捕りにするために大事な兵を損なうのは馬鹿らしい。
「だから、無理してまで生け捕りに拘らなくてもいいからね」
命がけでアレクシウスを捕縛しようとする黒エルフ弓箭兵を思い留まらせようと、蒼馬はそう念を押した。
「本当にアレクシウスを殺害してしまっても、問題ないのでしょうか?」
それでも自分らを心配して無理をして言っているのではないかと、さらに尋ねるエラディアに、蒼馬は笑顔で「大丈夫、大丈夫」と受け負った。
そこまで言われて、エラディアもようやく納得する。
「そういうことでしたのならば、ソーマ様のご温情に与らせていただきます。――アレクシウスを逃がさぬのを第一に。もし手に余るようならば殺害も認めます」
エラディアの言葉の後半は、黒エルフ弓箭兵へ向けられたものだった。それを受けて早速天幕から出て行こうとした黒エルフ弓箭兵をエラディアは呼び止める。
「待ちなさい。念のため、私が直接指揮に当たりましょう。――ソーマ様。しばしの間ですが、御身の傍より離れることをお許し下さい」
アレクシウスを取り逃がしたことに、よほど責任を感じているのであろう。
そう考えた蒼馬は、そこまで気負わなくても良いのにと思いつつも、エラディアの願いを快諾した。
蒼馬の許しを得たエラディアは自身の天幕へ引き下がると、急ぎ戦支度を始める。
黒エルフ弓箭兵の戦装束の上から付けていた装飾や飾り布を取り外し、矢筒を肩に掛け、愛用のエルフィンボウを手に取った。
そして、エラディアは自分の準備が終わるのを黙って待っていた姉妹へと声を掛ける。
「アレクシウスは?」
先程、取り逃がしたと報告したばかりとは言わず、黒エルフ弓箭兵は答える。
「街を逃げ出して以降 ずっと姉妹たちによって密かに監視と追跡が続けられております。いまだこちらに気づいた様子はありません」
さらにエラディアは問う。
「では、このことは他の種族の者たちには?」
「そちらもご安心ください。私たち以外の者には気づかれてはおりません」
黒エルフ弓箭兵の報告に満足したエラディアは、姉妹と同様に黒い布で口許を覆うと目を鋭く輝かせた。
「よろしい。――では、私たちも急ぎ合流しましょう」
◆◇◆◇◆
ラフバンの街の北にある山々。
そのひとつに街から逃げ出したアレクシウスとわずかな兵の姿があった。昨日の深夜、街から逃げ出したアレクシウスは北の山々へ向かうと、夜明けまで山の麓で息をひそめ、日の出とともに山へと踏み入ったのである。
そして、エルドア国軍と反乱軍の双方からの追跡を振り切るために、日中はひたすら道なき山をひたすら移動し続けたアレクシウスたちだったが、日が落ちるとともに野営を始めた。
遠くから見えないようにすり鉢状の窪地を選んで焚かれた焚き火を前に、逃げる際に持ち出したパンを黙々と囓るアレクシウスに、ひとりの騎士が恐る恐る声を掛ける。
「殿下。これから如何いたしましょうか?」
不安げな声にアレクシウスはギロリと睨み返す。その目に怯む騎士を前に、アレクシウスは囓っていたパンを口に頬張ると何度か咀嚼してから飲み下した。
「とりあえずバルジボアに向かうしかあるまい」
アレクシウスは苦々しく言い捨てた。
「業腹だがチェズ侯爵に頼み、ロマニア国へ落ち延びる。そこでロマニアの支援を受けて再起するのだ」
エルドア国と敵対するロマニア国である。自身に流れるホルメア王家の血筋はロマニア国にとっては利用価値が高いはずだ。すでにロマニア国には、同じホルメア王家の血を引くヴリタスがいるが、あちらはたかが王弟に過ぎないのに対し、自分は正統なる王位継承権者であり、比べるのもおこがましい。必ずやロマニア国は自分の方を取るに決まっている。
そうしてロマニア国の支援を受け、今度こそ破壊の御子を討ち果たすのだ。
ロマニア国は自分を利用するつもりだろうが、国さえ取り戻せば後は何とでもなる。むしろ自分の方こそロマニア国を利用してやるのだ。そうすれば今度こそ自分はホルメア国再興の王として歴史にこの名を刻めるだろう。
アレクシウスはその決意とともに拳を固く握る。
「あのダリウスめも敗北の泥の味を何度も味わいながらホルメア最高の将軍と呼ばれたのだ。私とて何度敗北しようとも諦めなければ、必ずやホルメア国を復興できる。そうだとも、私は泥の味を知ったのだからな」
そうひとりごちてから、不安げに自分を見やる兵たちに向けて言う。
「良いか、おまえら。良からぬことを考えるなよ。今さら私の首を取って差し出したとて、王陵墓で狼藉を働いたおまえたちを破壊の御子は決して許さんだろう」
今まさに、それを決行すべきか思案していた一部の兵たちが動揺をあらわにした。
この場にいる兵たちは、ホルメア国王陵墓でワリナを攫った実行犯たちである。昨夜の酒宴でアレクシウスが兵のひとりひとりにまで酒をついで回ったのは、それにかこつけて自分と同じく降伏しても極刑に処せられる、この者たちに逃亡を呼びかけるためであった。
「私とおまえたちは、もはや『同じ嵐の中の船に乗っている』のだ。逃げることは許されん」
アレクシウスが口にした「同じ嵐の中の船に乗っている」とは、転覆して死ぬのも、嵐を乗り越えて生き延びるのも一緒であるということから、日本語で言う一蓮托生と同じ意味の言い回しであった。
「だが、喜べ。俺が再起すれば、おまえたちは王の近衛騎士様だ。金も名誉も思うがままだぞ」
アレクシウスは現実という鞭の後に、栄達の夢という飴を与えた。
厳しい現状から目を背け、アレクシウスの語る怪しい栄達の夢想にすがるしかなかった兵たちは、アレクシウスにおもねるように不器用な笑みを浮かべたのである。
と、そのとき周囲を見張っていた兵のひとりが音を立てて槍を構えた。それを引き金に、兵たちはいっせいに武器を手に取り、周囲を警戒する。
「ど、どうした?!」
アレクシウスもまた腰の剣に手を掛けながら、見張りの兵に声を掛けた。
その兵は槍を握り締めたまま、周囲を窺いながら答える。
「先程まで聞こえていた虫や鳥の鳴き声が聞こえません」
言われてみれば、先程まで耳障りなほど騒いでいた虫や鳥たちの気配が失せていた。
空気そのものが帯電したような肌を刺すピリピリとした緊張が周囲に漂う。緊張に自然と速くなる荒い吐息の音は、果たして自分のものか他人のものかすら区別がつかず、誰かが唾を飲み下す音が異様に大きく聞こえた。
しかし、いくら見回しても襲撃者らしき人影は見当たらない。
気のせいだったのか。
そうわずかに気が緩んだとき、兵のひとりが鼻先に舞い落ちた一葉の青葉に釣られて上を見上げ、あっと声を上げた。
そこあったのは、頭上に伸びる枝の上に立つ人影である。
「う、上だっ! 樹上に誰かいるぞっ!」
その声を合図とし、上から雨のように無数の矢が降り注いだ。
次々と肉を穿つ湿った音とともに、兵たちは苦鳴を上げて次々と地に倒れ伏してしまう。
あっという間の出来事であった。
気づけば立っているのは、アレクシウスただひとりだけである。兵たちはひとり残らず悲鳴を洩らし、我が身に降りかかった災悪に「くそっ! くそっ!」と悪態をつきながら地面を転がるばかりであった。
「な、なっ、ななんだっ?!」
震える手で剣を握り、恐怖と混乱にうわずらせた声を上げるアレクシウスの前に、樹上から蔦や幹を伝って次々と襲撃者が下りて来た。
襲撃者はいずれも顔の下半分を黒い布で覆っているが、それでは隠せぬ人ならざる美貌。そして、何よりも髪の間から突き出たその特徴的な長く尖った耳は、エルフの証明である。
それは黒エルフ弓箭兵たちであった。
「エルドアのエルフどもかぁ!」
怒声を上げるアレクシウスの前で、黒エルフ弓箭兵たちが左右に分かれる。そして、その間を静々と歩いてきたのは、黒エルフ弓箭兵の中でも一際美貌が際立つ女――エラディアであった。
「貴様ら、私をアレクシウスと知っての狼藉かっ!」
唾を飛ばして虚勢を張るアレクシウスを無視し、エラディアはゆっくりと弓に番えた矢を向ける。
「おまえの命運とは、その醜態によって民草のホルメア国への未練を断ち切り、ソーマ様の国を盤石にさせることだったのでしょう。――ですがっ!」
エラディアの怒声とともに放たれた矢が、狙い違わずアレクシウスの剣を握る右手を貫いた。
「ぎゃぁー! う、腕を、腕がっ!!」
剣を落として射貫かれた右腕を抱えて悲鳴を上げるアレクシウスを前に、エラディアはさらに矢を番える。
「あのときっ! あのとき、私はおまえを殺すべきだった! たとえ命運に守られていたとしても、あのとき私は是が非でもおまえを射殺すべきだったっ!」
次に放たれた矢は、アレクシウスの左足の太腿を射貫いた。アレクシウスはたまらず地面へ転がった。
「き、貴様、何を言っている?! 狂っているのかっ?!」
少しでもエラディアから遠ざかろうと地面を這って逃げるアレクシウスへのエラディアの返答は、左のふくらはぎを射貫く第三射であった。
「頼むっ! 助けてくれ! 降伏するっ! 破壊の御子に伝えろ! 降伏する! あいつの配下になるっ! あいつのために戦ってやるから、助けてくれっ!!」
アレクシウスの哀願に、しかしエラディアは一切答えず、小さく右手を挙げた。すると、それまで傍観していた黒エルフ弓箭兵たちがいっせいに動き出し、アレクシウスばかりか周囲で苦鳴を上げながら倒れていた兵たちから武器を取り上げていく。
もはや抵抗する気力もなく、涙と鼻水で顔をぐちょぐちょにするアレクシウスの鼻先の地面に、エラディアは懐から取り出したものを投げ落とす。
「せめてもの情けです」
エラディアが投げ渡したのは鞘に収まった一振りの短剣であった。
「これで、じ、自害しろというのか……?」
震える声で尋ねるアレクシウスだったが、エラディアはそれに答えることなく踵を返すと、再び右手を挙げて合図する。その合図とともに黒エルフ弓箭兵のひとりが水袋の中の水を焚き火にかけて火を消した。
唯一の光源が消え失せことで、いっせいに闇が押し寄せる。
「な、何だっ?! いったい、どうしようというのだ?!」
闇に向けて必死に声を張り上げるアレクシウスだったが、それに答える声は返ってこなかった。
どれほどの時間が経った頃だろうか。ようやく闇に目が慣れてわずかだが周囲が見えるようになったときには、そこにはエラディアをはじめとした黒エルフ弓箭兵たちの姿はひとつとしてなかった。
「ど、どこに行った……? 隠れているのか? どこだっ?!」
周囲を見回すが、どこにも黒エルフ弓箭兵の姿はない。
そうして周囲をよくよく観察してみれば、アレクシウスはおかしなことに気づいた。近くに倒れる兵たちも、自分と同じように手足を射貫かれはしているものの命までは奪われていなのだ。
これはいったいどういうことだ、と困惑するアレクシウスの耳に、がさりっと茂みを揺らす音が聞こえた。
やはりエルフどもが隠れていた!
そう思って音がした方へと目をやったアレクシウスは、それが見当違いであったことを思い知る。
「お、狼……!」
そこにいたのは、何頭もの狼たちだった。
いずれの狼も血の臭いに興奮し、牙を剥いて、低いうなり声を上げている。長らく続く戦乱によって戦場に残された戦死者の遺体で人の肉の味を覚えた狼たちにとって、負傷した上に武器まで奪われたアレクシウスらは恰好の獲物でしかない。
「あのエルフどもめ。私たちを狼の餌にするつもりか……!」
アレクシウスの言葉に応じるように、狼たちはまず手近にいた兵にいっせいに襲いかかる。兵は必死に抵抗するが、振り回す手足を噛みついた狼に取られ、さらに咽喉笛を押さえ込まれると、後は生きながら腹を食い破られ内臓をむさぼり食われる哀れな肉塊と成り果てた。
腸に狼の鼻面を突っ込まれた同胞が上げる絶叫を聞きながら、兵たちは我先にと負傷した足を引きずって逃げようとするが、あちらこちらから次々と現れる狼たちに襲われていく。
近隣の山中から集められたとしか思えない数えきれないほどの狼たちによる血と肉の饗宴の場と化したそこからアレクシウスは必死に這って逃げた。
しかし、不意に横合いの茂みが揺れたかと思うと、そこから一頭の狼が飛び出し、咽喉へと噛みついてくる。とっさに左腕で咽喉を守ったが、その代わりに腕を噛みつかれた。狼はアレクシウスの左腕にガッチリと噛みついたまま身体を大きく揺すって、アレクシウスの身体を引きずり回す。
「やだっ! やだっ! 生きたまま食われるなんて嫌だぁー!」
アレクシウスは手探りでエラディアが投げ渡した短剣を鞘から引き抜くと、それを大きく振り上げた。
しかし、その刃が向けられたのは、自分の左腕に食いつく狼ではない。
その切っ先が向かうのは、アレクシウス自身の咽喉笛である。
もはや助からぬと悟ったアレクシウスは自らの命を絶つべく短剣を自身の咽喉笛へと突き立てる。
しかし――。
「なっ?! さ、刺さらない? 何故?!」
鋭い痛みはあった。しかし、その切っ先は浅く咽喉の皮膚を傷つけただけで、決して命を奪うものではなかったのだ。
そのとき、一陣の風が吹いた。狼に食いつかれるアレクシウスの真上を覆っていた枝葉がその風に揺らされ、わずかな間隙を生じる。そのわずかな間隙から差し込んだ月光が、偶然にもアレクシウスの手にした短剣の刃を照らした。
「……! 刃が、潰されている……?!」
エラディアが投げ渡した短剣は、刃が潰されたなまくらだった。
愕然とするアレクシウスの隙を突くように、新たな狼たちが次々と襲いかかる。
夜の山に、アレクシウスの断末魔の叫びがこだました。
◆◇◆◇◆
生の余韻を残すようにピクピクと痙攣する肉塊と成り果てたアレクシウスと、そこへ鼻面を突っ込み、湿った音とともに肉を引きちぎる狼たち。
その光景をエラディアたち黒エルフ弓箭兵たちは、樹上からジッと見下ろしていた。
地上と変わらぬ優美な立ち姿で梢に立つエラディアは、氷のように冷え切った眼差しでアレクシウスが息絶えるのを見届けると、軽く握った右拳を前へと突き出した。
「見るに堪えない醜悪な余興でしたこと。ですが、それなりに楽しめました」
冷然と語るエラディアは握っていた拳を開いた。
開かれたエラディアの手のひらから落ちたのは、二枚の青銅貨。
そして、それはかつてホルメア王陵墓で惨殺された姉妹の口に突っ込まれていたものだ。
エラディアの手から落ちた二枚の青銅貨は、アレクシウスの肉塊に群がる狼たちの間近に音を立てて落ちた。
「余興の代価です。受け取りなさい」
二枚の青銅貨。――それはセルデアス大陸西域において最底辺に属する娼婦、そして同じく最底辺の芸人や道化たちへ与えられる報酬である。
前話で、ぶれない男として一躍読者の人気を集めたアレクシウス殿下もあえなく退場。
彼の敗因は、決して怒らせてはいけない人を怒らせてしまったことです。
いう必要もない気がしますが、エラディア様の台詞については「龍驤の章 第76話 スノムタの屈辱16-命運」を参照。
余談ですが前話の感想でアレクシウスが狼の餌になると予言した読者が一名いらっしゃいました。
やっぱり。そうだと思っていたんです。前々から疑っていたんです!
この作品の読者の中には未来予知能力者か、なろう主人公がひそんでいると!(゜∀゜)アヒャ




