第135話 柱石
「ワリナ姫ならば、滅びたとはいえ西域中央の大国であったホルメア国の王女。その血筋において、決してパルフェナに引けを取らんわ」
ソロンは酒瓶を揺すって酒の残量を量りながら、他人事のように言った。
「その上、ここは元ホルメア国だった国じゃ。そこに住まう民草の安寧のために、旧王家の姫を娶るのはごく当たり前のこと。小僧はホルメア国を受け継いだと思われるのを嫌がっておったが、すでにホルメア国が滅んでから時も経ち、十分にその禊ぎも済んでおろう。この国も安定したところで、さらなる臣民の安寧を得るためにワリナ姫を密かに小僧の正妃に迎えようとしていたと言えば、誰もが納得しよう。十分にパルフェナの求婚を断る理由になるわ。
そして、何よりも姫と小僧の関係は、この国の者ならば誰でも知っておろう。その小僧と婚約をしておったとしても、誰も疑うまい」
ホルメア国の継承を拒んだ蒼馬だったが、それでホルメア国自体を軽視していると取られてはいけない。
そこで、蒼馬はその時々にワリナへ贈り物を欠かしたことはなかった。そして、ワリナもまた感謝の手紙とともに季節の花々や自らの手による刺繍などを添えて返礼するのが常だった。
さらに蒼馬はワリナを公的な行事には欠かさず招待するのみならず、ワリナが王都を訪れた際は必ず個人的な茶会を開いて親しく付き合っていることは、王都の民ならば誰もが知るところである。
「また、ワリナ姫個人の性格や資質を鑑みても問題はなかろう。冷遇されていたとはいえ王家の娘として一通りの教育をされておる。これまで亡国の姫として十分に言動を弁えているところから、決して愚かではない。やや内向的な面はあれど、それも王妃として政に無用な口出しはしないであろう美点とも考えられよう」
ソロンの言い分に、誰もが「なるほど」と納得した。
しかし、まったく疑問がないわけではない。パルフェナによって蒼馬の正妃を論議する中で、誰もが無意識にワリナを除外していたのには理由があった。それをガラムが皆を代表して質問する。
「だが、ワリナ姫は拐かされ、今は兄のアレクシウスのところにいるのだぞ?」
ガラムの懸念をソロンは「むしろ、都合が良いわ」と一蹴した。
「信仰に狂ったパルフェナが、先約がありますからと言って簡単に納得するわけがなかろう。しかし、当のワリナ姫はおらんのだ。追求したくともしようがない。そうしてしばらく時間さえ稼げれば十分。これだけの騒動を起こしたパルフェナをシュパムール王国が放置しておくわけがない。近々、パルフェナは本国に帰るようにと召還されるじゃろうよ」
これ以上の騒動を望まないだろうシュパムール王国としては、それは当然の処置である。
「それに、これはワリナ姫にとっても都合が良いんじゃよ。わしらは姫が無理矢理に拐かされたと承知しておる。されど、アレクシウスめは反乱を起こす際に自身の名とともにワリナ姫の名を挙げ、名目上は同じ反乱の首謀者に仕立ててしもうた。これでは反乱を鎮圧した後にワリナ姫に何らかの処罰を下さねばならん事態となりかねん」
確かに、首謀者として名を連ねていたとあっては、兄への情からワリナがアレクシウスの反乱に協力したと邪推されてもおかしくはない。
「姫がアレクシウスに邪険にされていたのは、ホルメア国の情勢に詳しい者ならば誰もが知るところ。そこへ来て、小僧が妻となる姫を奪い返すと兵を起こせばどうなる?
姫は暴虐な兄に攫われ、想い人と引き離された悲劇のお姫様に早変わりよ。また、そう仕向ける。庶民はこうした話は大好物でな。さすれば民衆は坊主の挙兵に拍手喝采し、逆にアレクシウスからは人心がさらに離れよう」
ワリナの立場を守るのと同時に、蒼馬の挙兵の支持を集め、さらにはアレクシウスの評判を落とすソロンの妙計に、誰もが唸らざるを得なかった。
「ですが、ソロン老。陛下がワリナ姫を妻にすると宣言してしまうと、追い詰められたアレクシウスが姫を陛下への人質として利用する恐れがあるのではないでしょうかな?」
そう疑問を呈したのは、マルクロニスである。
それにソロンは「その可能性はある」と認めた。その上でさらにソロンは続けて言う。
「されど、それをやった時点でアレクシウスはおしまいよ」
アレクシウスが反乱を起こす際に、わざわざワリナを攫ったのは王権移譲した証人を奪うためだけではない。
王は貴族諸侯にその領有する土地の統治権を認め、代わりに貴族諸侯は有事の際には王の命令に従い、兵を率いて戦う義務を有するというのが、この時代の王と貴族諸侯の関係である。
ホルメア国の正統な継承権を持つアレクシウスだが、ホルメア戦役の際にルオマの街で味方を見捨てて敵前逃亡するという大きな汚点を残していた。それは、有事の際には諸侯を率いて国を守る義務を有する王族にとって自ら王冠を投げ捨てたに等しい愚挙といっても過言ではない。
それに対してワリナは、最後まで王都に留まり、国の終焉を見届け、今のエルドア国へと王権を移譲するなど王族としての義務を最後まで果たしている。
この反乱がアレクシウスだけのものだったならば、ホルメア国再興に兵を率いて参じよというアレクシウスの檄に、多くの者たちがルオマの街のミュトスのように「そちらが先に義務を放棄しただろ」と一蹴しただろう。しかし、その反乱に最後まで王族の義務を果たしたワリナの名があったからこそ、多くの人々が動揺したのである。
「ワリナを人質にしたり、害したりすれば、それこそアレクシウスはただの賊徒に成り下がるわ。奴の反乱に協力しているのは、もともとホルメア国のときの利権を取り返したいと思っている連中よ。そいつらからすれば賊徒に落ちたアレクシウスなど価値などあるまい。むしろ、ワリナ姫の方にこそおもねるじゃろう。そうした連中を揺さぶれば、ワリナ姫の身柄とともに投降させるのも簡単じゃろう」
その場にいる誰もが、ソロンの提案に感嘆した。
いくつかの問題はあれど、ワリナを蒼馬の正妃に迎え入れることが最善のようだ。頭を悩ませていたパルフェナの問題を解決するばかりか、アレクシウスの反乱へも牽制を加えられるとなれば、むしろこれ以外にはないだろうとすら思えた。
問題解決の光明が見えてきたのに皆が顔を明るくさせたところで、しかしソロンは「されど――」と続ける。
「最大の問題は、小僧とその半身をどう納得させるかじゃな」
浮き立っていた皆の心に、ソロンの言葉が冷水となって浴びせかけられた。
そもそも、このパルフェナの問題の発端は、蒼馬自身にあるのだ。
庶民ならば十代半ばから二十歳手前までが結婚適齢期という時代である。王侯貴族ともなれば、十歳にならないうちに婚約者が決められ、場合によっては婚姻していてもおかしくはない。
そんな時代にあって、王でありながら二十歳を過ぎた今も未婚であるばかりか、愛人ひとりとして傍に置かない蒼馬の方こそ、この時代においては異常だったのである。
今回のパルフェナの騒動は、その異常につけこまれたといっても過言ではないだろう。
しかし、その異常を元ホルメア国の臣下のみならず、ガラムたちですら指摘しなかった。また、できなかった理由はただひとつしかない。
シェムルの存在である。
蒼馬とシェムルの関係は、余人からすると理解しがたいものであった。
至尊の座である王に対して様々な特権を有する王佐という役職をわざわざ制定してまで傍に置くという異常なまでの厚遇。さらには王を叱り、怒鳴りつけても良いばかりか、殴る蹴るの暴力まで認めるという特権にいたっては、明らかに臣下の分を越えている。
それを指摘した重臣に、蒼馬は「シェムルが私を殴るんだ。私が悪いことをしたに決まっている。問題は無い」とまで言い切っていた。
かつて名君を讃えられたホルメア国王サドマも、大将軍ダリウスと大宰相ポンピウスを重用した際にも似たようなことを述べている。
しかし、蒼馬の場合はそれに輪を掛けるものだった。
その行動の是非ばかりではない。日常の善悪の判断基準ですら自身のものよりもシェムルのものを是としている節さえあるのだ。
もはや、これは単なる主君とその忠臣という枠に収まるものではあり得なかった。
しかし、だからといって男女の情愛でもない。
例え種族が異なるとは言え、蒼馬は男であり、シェムルは女である。あまりに近いふたりの距離感に、臣下たちはハラハラとすることもあった。だが、ふたりは互いの性を気にする素振りもなく、またそこに男女の情愛を感じさせるものもない。
むしろ、そうしたものを勘ぐられるのを嫌ってか、夜ともなればシェムルは蒼馬の寝所には近づかず、警護をシャハタなどに任せていた。
そうかと思えば日常でのふたりのやりとりは、長年連れ添った夫婦の阿吽の呼吸そのものである。誰もがそこへ割っては入れない深い絆を感じさせるものであった。
主君とその忠臣という枠に収まらず、それ以上。
男女の情愛とは非なるものでありながら、それよりも深い絆。
何とも摩訶不思議な関係であった。
それ故に、誰もがどう触れて良いかわからなかったのである。
一時は妬心もあって蒼馬とシェムルはお互いの距離を取った方が良いと思っていたエラディアですら、シェムルが暗殺されかかったと知った後の蒼馬の狼狽ぶりを目にし、ふたりの関係には手を触れまいと心に誓ったほどだ。
ワリナを蒼馬の正妃に迎え入れることは、そんなふたりの関係に波風を立ててしまいかねないことである。
もはや誰もが一心同体と認める蒼馬とシェムルの間にヒビが入るようなことでもあれば、いったいどのようなことになるか誰にもわからないことだった。最悪の場合は、それを原因として蒼馬が王冠を投げ捨て、かえって国を滅ぼしてしまう恐れすらある。
それを承知の上で、ふたりにワリナを正妃に迎え入れろと告げる覚悟はあるのか?
それでも、ふたりの関係にひびを入れてしまう覚悟はあるのか?
ソロンは無言で、そう問いかけていたのである。
しばし沈黙が舞い降りた。
「俺が告げてこよう」
その言葉とともにガラムが立ち上がった。
ソロンが興味深げに目を細める。
「ほう。大将軍閣下が、おふたりを説得なされるか」
「いや。俺が告げて来るのは、シェムルに対してのみだ」
どういうことか眉をひそめるソロンに背を向け、扉へと歩きながらガラムは言う。
「陛下へは、シェムルから告げさせる」
皆はギョッとした。
これまで誰もが気にしつつ、決して触れられなかった蒼馬とシェムルの関係。
それをシェムル自身に明確にさせる。
そうガラムは言ったのだ。
「お待ちください!」
そう言って呼び止めたのは、エラディアである。
「大将軍閣下と王佐様は……!」
エラディアが言葉にできなかったのは、「兄妹」という言葉である。
身の証を立てるように求められるばかりか、さらには蒼馬へワリナを正妃に迎えるように言わされるのだ。しかも、それが実の兄ガラムからとあっては、そのときのシェムルの心情はいかばかりであろうか。
それを慮り、同じ女であるエラディアは憤慨した。
「俺とて、妹への情愛はある」
扉のノブを握り締めたガラムは苦鳴のような言葉を吐く。
「図らずとも今の俺たちは、ひとつの国の中枢にいるのだ。もはや俺たちがやっていることは、お遊びではすまされん。俺たちの決断や行動のひとつひとつに、この国と百万の民の生命すべてが懸かっている。それを今さら友愛や情を理由に問題から目をそらす愚者になるのは許されん。陛下や妹から恨まれるのを嫌って、責任を投げ捨てる卑怯者になってはならんのだ」
そこでガラムは肩越しに振り返ると、他種族にもそれとわかるぐらい苦笑いする。
「ならば、これが分不相応にも大将軍などという大役を背負った俺の務めなのだろう」
そう言うとガラムは部屋を出て行った。
誰もがこれ以上ガラムを呼び止める言葉を見つけられずにいる中で、ひとりソロンは酒瓶に口をつける。
「自ら進んで重き責務を負われなさるか……」
ソロンは自嘲の笑みを浮かべた。
かつて愛息子の戦死と、義理の娘とその胎にいた初孫の死という重さに耐えかね、すべてを投げ捨てて国を出奔した我が身と比べれば、何と頼もしきことか。
「されど、その重さを背負えることこそが、まさに国の柱石」




