第126話 凋落
「バララク族長、万歳!」
その掛け声とともに、氏族の者たちが一斉に唱和した。
賞賛を向けられたバララクは、まさにご満悦と言った表情である。バララクは鷹揚な仕草で氏族の者たちへ軽く手を挙げて応えて見せた。
そこは〈たてがみの氏族〉の集落である。その集落はバララクとその血族を中心とし、氏族の中でも有力な血族の代表となる一家が集まる、言わば〈たてがみの氏族〉の中枢とも言うべき集落であった。
そこへエルドア国の王である蒼馬の代理として、獣の神の御子であるシェムルの名の下に〈たてがみの氏族〉の国からの離脱を正式に認め、今後は善き隣人としてありたいという使者が訪れたのは、先日のことである。
これを受けて〈たてがみの氏族〉の族長バララクは、自分らの要望を受け入れてくれたことへの感謝と、同じく善き隣人としてありたいという旨を添えて使者を送り返す一方で、氏族の者たちへは自分がエルドア国より独立を勝ち取ったと大々的に喧伝したのであった。
そして、今日はその祝賀として平原に点在する集落の代表者を招待し、盛大な宴を開催したのである。
「我らこそが、誇り高きゾアンである! 我らこそが平原唯一のゾアンであるっ!!」
バララクが言葉とともに手にした酒杯を掲げれば、氏族の者たちはこぞって同じ言葉を発して酒杯を掲げた。
このとき、バララクは得意の絶頂であった。
愚かにも他の氏族は人間の族王に騙され、要らぬ戦いを強いられた挙げ句にその勢力を消耗させるだろう。その間に自分ら〈たてがみの氏族〉は力を蓄え、名実ともに平原最強の氏族となり、すべての氏族の主導権を握るのだ。
すべては自分の思惑どおりである。
これほど愉快なことはない。
そんなご満悦のバララクの酒杯に酒を注ぎながら、氏族の有力者のひとりが提案をする。
「バララク族長。この目出度い日に、ご子息の謹慎を解かれては如何でしょうか?」
有力な血族の中から族長が選ばれる〈たてがみの氏族〉において、次期族長の最有力候補はバララクの息子のバヌカである。現在の族長と未来の族長の仲を取り持ち、自身の影響力を高めようという意図をもっての提案だったが、程よく酔っていたバララクは上機嫌でうなずいた。
「そうだな。さすがに息子も頭が冷めたであろう」
バララクは近くに侍っていた戦士へ謹慎させていたバヌカを連れてくるように命じる。
程なくして戦士に連れられてバヌカがやってきた。
「バヌカよ。今日は善き日故に、特別におまえに下した謹慎を解いてやることにした」
ずっと自身の天幕から出ることを許されず、また集落の誰とも言葉を交わすことを禁じられていたバヌカは、時ならぬ宴が開かれる集落の様子をうろんげに見やる。
「……善き日? いったい何があったのでしょう?」
悪い予感に顔を曇らせるバヌカとは対照的に、バララクは満面の笑みで告げる。
「喜べ、バヌカよ。我ら〈たてがみの氏族〉は、人間の支配を脱したのだ」
自慢げなバララクの言葉に周囲の者たちから喝采が上がる中で、ひとりバヌカは目を見張る。
「まさか、本当にエルドア国から離脱したのですかっ?!」
「そうだとも! あの若造どもや御子ばかりではない。族王を気取る人間めにも、我らの独立を認めさせた! これにより、我らこそがこの平原で唯一の誇り高きゾアンとなったのだ!」
バララクが言う若造とは、常日頃から彼がそう見下すガラムとズーグであり、御子とはシェムル、そして族王とは蒼馬のことである。
平原のゾアンを代表する者たちに加えてエルドア国の王である蒼馬まで認めたと言うことは、もはや冗談ではすまされないものだ。
「な…なんたることを……!」
バヌカは絶句してしまう。
父親のバララクは独立と誇らしげに言っている。だが、バヌカにとってそれは孤立にしか聞こえないものだった。
半ば茫然自失となってしまうバヌカの様子にもバララクは気づかない。
どれだけ他の氏族が愚かであるか。どうやって自分はそんな他の氏族を見事に出し抜いて見せたのか。そして、これより〈たてがみの氏族〉が如何に隆盛を迎えるのか。
バララクは自分の功績を得々と語って見せたのである。
「おまえも頭を冷やしてわかったであろう。これよりは私の後継者に相応しいゾアンの誇りを――」
「誇りが何だと言うのですか……?」
バヌカはバララクの言葉を遮って言った。
しかし、それは非礼に当たる。たとえ親子と言えど族長の言葉を途中で遮るなど許されるものではない。
「何だと……?」
バララクは不快げに眉をひそめた。これまでのバヌカならば、父親の勘気を被るまいと、それだけで平謝りしたものである。しかし、このときばかりは違った。
バヌカはバララクに向かって吠える。
「ゾアンの誇りが、何だと言うのですかっ?!」
バヌカの咆吼に、それまで集落に流れていた楽しげな音曲や宴のざわめきが静まっていった。
「もう、お忘れになったのですか?! 平原を追われ、丘陵や山へ押し込まれ、その日の糧にすら困窮していた日々を! いつ人間の軍勢が攻めてくるかと恐れおののき、こそこそと隠れ続けねばならなかった、あのときを!」
氏族の者たちの視線を集めながらバヌカはぐるりと集落を見回した。
「それなのに、こうして馬鹿げた宴を堂々と開けるのは、誰のおかげですか?!」
バヌカは宴に出された料理を指し示す。
「こうして食べられる料理の食材は、誰によってもたらされたものですか?!」
さらにバヌカは両腕を広げて集落全体を示す。
「そして、男たちが狩りや採集に用いる道具! 女たちが使う鍋や釜! 天幕に敷かれた寝具! 寒さをしのぐ防寒具!」
そして、バヌカは肺腑から空気を絞るようにして叫んだ。
「すべてはソーマ陛下とエルドア国よりもたらされたものではありませんか!」
「そんなものは、承知しているわ!」
バララクは怒りに目を吊り上げて反論する。
「ならばこそ、私は対立しようと言うのではない! ただ、距離を置くだけだと言っている! 食い物が足りなければ、それだけ狩りをすれば良い! 人間どもがやってくる前は、そうやって自分らの糧を得ていたではないか?! 道具が欲しければ、これまでどおり行商人から金を出して買えば良い! 奴らが欲しがる香辛料や毛織物などを売れば金は手に入るのだからな!」
バヌカは、父親に失望した。
父親のバララクが自分たちに都合の良い未来しか見ていないことに気づいたからだ。
現在、エルドア国から開拓地の賃貸料として入る莫大な食料は、狩りだけで補えるものではない。
また、今は定期的に訪れる行商人たちも、エルドア国の統治下であるからこそやってくるのだ。エルドア国の法による安全が保証されない土地となれば、多くの行商人たちはやってくるのに二の足を踏むだろう。それでも〈たてがみの氏族〉の領域にしかない特産物などあれば、そうした危険を承知でやってくる行商人もいるだろうが、あいにくと香辛料や毛織物ならば他の氏族からも得られる。危険を冒してまで行商に来る理由はない。
特に〈爪の氏族〉の族長ズーグは香辛料の栽培や開拓村の人間の女たちにゾアン風の毛織物の織り方を指導して大量生産まで始めているのだ。供給が増えれば、その価格が下がる市場原理をエルドア国に関わる中で学んだバヌカは、なおさら氏族が窮地に陥るのが目に見えていた。
息子に失望されているとは知らぬバララクは、如何にも痛切に耐えられないといった様子で続ける。
「人間どもの戦いに巻き込まれ、あたら氏族の大事な戦士たちが命を落とすのに、私は堪えられぬのだ!」
バララクはバヌカのみならず、注目する氏族の者たちへ向けて語る。
「我らはゾアンだ! 誇り高きゾアンなのだ! 人間どもが殺し合いをしたければ、勝手に殺し合えば良い! そんな要らぬ戦いに首を突っ込んだ挙げ句、徒に戦士たちを死なせるなど愚か者の極みではないか!」
氏族の者たちの間からバララクに賛同する気配が漂う中で、それでもバヌカは反抗する。
「我らが傍観したせいで、ソーマ陛下が敗れたら――エルドア国が滅びたら、どうされるのですかっ?!」
「人間の国のことなど知ったことか! 我らはゾアンである! この父祖から受け継いだソルビアント平原を守りさえすれば良いのだ! もし、人間どもが再び平原へ攻め入るのならば、そのときは我ら〈たてがみの氏族〉がすべての氏族を率いて戦えば良い!」
これに氏族の者たちの間から、やんやの喝采が上がった。
それとは対極的にバヌカは愕然となる。
以前より父親のバララクが平原の外へ目を向けようともしないのには危惧を覚えていた。しかし、まさかここまでとは思っていなかったのだ。
「もし、ではありません! エルドア国がなくなれば、また人間の軍勢が平原に押し寄せてくる!」
平原のゾアンの食料が開拓地からもたらされる土地の賃貸料でまかなわれていることで証明されたように、このソルビアント平原は百万の軍勢を養うに足る穀倉地帯になり得るのだ。
そんな重要な土地を見逃すなどあり得ない。
「そして、それはかつて私たち平原のゾアンすべてを打ち破った、あの黒い獣を倒したソーマ陛下よりもさらに強い人間なんですよ! そんな人間を〈たてがみの氏族〉だけで、どう戦おうと言うんですかっ?!」
バララクは痛いところを突かれたと顔をしかめる。
そして、バヌカはこの程度の予測に対する備えすら即座に答えられない父親に悲しみすら覚えた。
バヌカは今にも泣き出しそうな顔になる。
「多くの恩義を受け、様々な恩恵に与り、それに感謝するどころか背を向け、悪し様に罵る! 他の氏族が平原を守るために自らの身体を張っているのを愚かだと笑う! それがゾアンの誇りなのですか! そんなものが、ゾアンの誇りなのですか!」
バヌカは、まるで血を吐くように叫ぶ。
「そんな誇りなど、ゲノバンダの糞の沼へ捨ててしまえば良い!」
しんっと周囲が静まり返った。
その中で、バララクは力の限り拳を握り締めながら、わなわなと震える。
せっかく自分が、ゾアンの誇りを取り戻したのだ。それをこともあろうにゲノバンダの糞の沼に捨てろである。とうてい聞き流せるものではない。ましてや、それを言ったのが息子とあればなおさらだ。
「この! 息子だと思って甘くすれば、図に乗りおって!」
バララクは激情のままに吠える。
「おまえは、氏族を追放だ!」
集落に衝撃が走った。
この時代、生活共同体からの追放は死刑にも等しい。生活の糧や拠点を失うのみならず、人権すら失う重い罰だ。エルドア国へ身を寄せれば生活には困らないだろうが、これまでの風習に従えばゾアンたちからは真っ当な人としては扱われなくなってしまう。
ところが、バヌカは「わかりました」と短く答えると、その場で踵を返して自分の天幕へと戻った。そして、天幕を折りたたみ、自分の荷物をまとめ始める。
泡を食った氏族の者たちは、慌ててバヌカとバララクの双方をなだめて、ふたりの間を取りなそうとするが、ふたりとも耳を貸そうとはしなかった。
自分の持ち物をまとめたバヌカは、改めてバララクの前に来る。
「バララク族長殿。長らくお世話になりました。今日この日このときをもって、このバヌカは〈たてがみの氏族〉とは無縁の者となります」
地べたにあぐらをかいて座ったバヌカは、自身の首にかけていた〈たてがみの氏族〉を示す、たてがみを模した襟飾りを目の前に置くと、深々と頭を下げて氏族からの離脱の言葉を述べた。
氏族の者たちは必死にバララクをなだめようとしているが、意地を張ったバララクはバヌカへ顔を向けようともしない。
そのとき、めでたい祝宴から一転し、バヌカの追放という事態に驚き困惑する氏族の者たちが遠巻きに作る人垣の中から、ひとりの若い戦士が前へ出てくる。
バヌカと同様に折りたたんだ天幕や荷物を背負ったその若い戦士は、何事かと同胞たちの視線を集めながら、バヌカの隣に腰を下ろした。
そして、自身の襟飾りを外すと、それを前に置いて深々と頭を下げる。
「族長様! この私もまたバヌカ様とともにエルドア国へ参陣いたしたく、氏族を離れることをお許しいただきたい!」
この突然の申し出に、バララクは驚きに目を見張り、人々は驚愕にどよめいた。
また、それはバヌカも同様である。その戦士とは顔見知りではあるものの、決して親しいと呼べるほどの仲ではない。自分に殉じたとは思えず、自ら氏族を離脱する理由をバヌカが尋ねると、その戦士は照れくさそうに答える。
「先日亡くなった父親は生前よく私に言っていたんです。もはや見ることはないと諦めていた大祭ボロロが見られたのは、族王様のおかげ。族王様に会ったら、必ず感謝を伝えてくれと」
そこで男は顔をしかめる。
「だけど、俺はまだ族王様に感謝を伝えられていない。これじゃあ、死んだ親父に怒られてしまう。そんなのごめんですよ」
これにバヌカは笑う。
「そうだな。それは、嫌だな」
「そういうことです」
そう言うとバヌカと若い戦士は、ふたりして明るい笑い声を上げた。
その姿に、バララクはわなわなと震える。そして、全身の毛を逆立てると、吐き捨てるように言った。
「勝手にしろ!」
◆◇◆◇◆
バヌカと若い戦士のふたりが連れ立って去って行った後は、もはや集落は祝宴という雰囲気ではなくなっていた。
しかし、自分の非が認められないバララクは無理に祝宴を続行し、声高に自分の業績を自賛しながら、酒杯を干し続けたのである。
だが、やはりバララクもひとり息子に離反されたことは、ひどい衝撃だったのだろう。
その日の夜は限度を超えて痛飲してしまい、バララクはしたたかに酔い潰れたまま寝てしまったのである。
それがバララクと〈たてがみの氏族〉にとっての運命の分岐点となってしまった。
そして、その翌日。
二日酔いの頭痛に頭を抱えながら天幕を出たバララクは驚いた。
「……なんだ、これは?」
バララクの天幕の入り口の前には、〈たてがみの氏族〉を表す襟飾りが整然と並べてあったのである。その数は二十を下らない。
これはいったいどうしたことだとバララクが氏族の者を問いただすと、昨夜氏族の複数の家族が次々とバララクの天幕を訪れ、氏族からの離脱を告げて置いていったという。
バララクは驚いた。
「な、なぜ私を起こさなかったっ?!」
「私たちは何度も起こそうとしたのです。ですが、バララク様は酔い潰れており、一向に目を覚ましませんでした。そのため、皆は天幕の外から離脱の挨拶を述べ、こうして襟飾りを置いていったのでございます」
言われてみれば、自分を起こそうとした者を邪険に追い払ったような記憶がおぼろげながらあった。
自分の失態もあれば、その者を責めるわけにもいかない。また、その余裕もなかった。昨夜の祝宴は他の集落の有力者たちを招いたものである。そうした者たちが戻った集落で話が広まれば、それに動揺する者が出て来ないとも限らなかった。
急ぎバララクは身だしなみを整えると、他の集落を巡って結束を呼びかけ、氏族の団結を図ったのである。
そうして夕暮れまで平原を駆け回っていたバララクだったが、集落に戻って自分の天幕の前まで来て驚いた。
またもや天幕の前に、いくつもの襟飾りが置かれていたのである。
「こ、これは、どういうことだ……?」
バララクは愕然としてしまった。
昨夜のように自分が酔い潰れて氏族を離脱する挨拶を受けられなかったのではない。これは自分の不在を承知で、離脱の挨拶もなく氏族の証を置いていったのだ。
すなわち、氏族から去るのではなく、氏族を捨てたのである。
それはとりもなおさずバララクを族長とは認められないという意思表示でもあったのだ。
さらに離脱者は、それで止まることはなかった。次の日も、そのまた次の日も離脱者は相次ぎ、それは日を追うごとに増え、ついには血族ひとつ、村ひとつが丸ごと〈たてがみの氏族〉から離脱するにまで至ったのである。
この事態にさすがのバララクも意気消沈し、しだいに塞ぎ込むようになってしまう。
そして、これより数年の後に、平原の氏族の中で最大多数であった氏族の人数が〈目の氏族〉を下回るまでに至っては、ついにバララクも気力の衰えを理由に族長の座から退くことになった。
族長を失った〈たてがみの氏族〉の者たちは、エルドア国へ行ったバヌカの帰還を願うのと同時にエルドア国への帰属を求めることになる。そして、その願いは果たされ、バヌカは新たに〈たてがみの氏族〉の族長となり、エルドア国へと復帰するのであった。




