第121話 大恩
集落の入口よりはるか手前で非難の声を上げられる。
それはオルルクのシェンガヤへの強い拒絶を示す行為だった。
これにシェンガヤは昂然と胸を張ると大声で反論する。
「裏切り者とは心外! このシェンガヤ。すべては氏族を想っての行動。邪なる者の讒言を鵜呑みにし、氏族が道を誤り、同じゾアンの血を流すなどはあってはならんこと!」
シェンガヤは自分が来た道を指し示す。
「牙と爪の両氏族長もまた、これに賛意をお示しくださり、わざわざ足を運ばれ、あちらでお待ちくださっている! 胸襟を開いて話し合えば、必ずや誤解も解けよう! オルルク殿、どうか彼らとの協議――」
「黙れ、シェンガヤ!」
オルルクは、シェンガヤの言葉を怒声で遮った。
捕縛を命じたはずの戦士たちがシェンガヤに縄をかけていないところからも、いまだに戦士たちの中にはシェンガヤへの畏敬の念が残っているのが見て取れる。そんなシェンガヤにこれ以上話されては、揺らいでしまう戦士が出てしまうという恐れからだった。
「族長アヌンタ様が卑劣な手で殺された恨みを忘れたか! おまえが取るべき道は、ふたつにひとつ! 今すぐ戻って牙と爪の両氏族長の首を持ってくるか、それとも永久に〈尾の氏族〉から追放されるかだ!」
オルルクはシェンガヤへ最後通牒を突きつけた。
そればかりか、この事態を重く見たシュヌパが協議を提案しても、オルルクは巫女頭の代理ということ自体には驚き、敬意を示したものの、あくまで〈目の氏族〉は平原の調停者であり、すでに「刃でのみ語る」と宣言したとおり牙と爪の両氏族との和解はあり得ず、調停は無用と突っぱねたのである。
もはや頑として協議に応じようとしないオルルクに、シェンガヤは目でグルカカを促した。
それを受けてグルカカは前に出る。
「〈尾の氏族〉竈番オルルク殿へ、〈牙の氏族〉が族長《猛き牙》と〈爪の氏族〉が族長《怒れる爪》との協議に応じることを要請いたす!」
突然出てきたグルカカに、オルルクは眉をひそめる。
「何だ、貴様はっ?! 〈牙の氏族〉か?! それとも〈爪の氏族〉か?!」
「我は〈牙の氏族〉の者にも〈爪の氏族〉の者にもあらず!」
そこでグルカカは大きく息を吸い込むと、それを堂々たる宣言の言葉として放つ。
「我はゾアン十二氏族がひとつ〈骨の氏族〉! 〈骨の氏族〉、ジャガタの子、グルカカなりっ!!」
平原中に告げられていた〈骨の氏族〉の再興の報せがいまだ伝わっていなかった〈尾の氏族〉の者たちは大きなどよめきを上げた。
そんな〈尾の氏族〉の者たちに向けて、グルカカはさらに声を張り上げる。
「聞け! 〈骨の氏族〉の同胞よ! 我が同胞らよ! ついに我らが悲願は成就したぞ! 我ら〈骨の氏族〉は罪を赦され、その再興を認められたのだ!」
突如、伝説である失われた十二番目の氏族を名乗る者が現れたばかりか、なぜか自分らに向けて氏族の同胞と呼びかけてくる状況が理解できず、オルルクばかりかその場に居合わせた〈尾の氏族〉の者たちは激しく困惑する。
そんな中で、カランッと乾いた木が転がる音がした。
その音につられてオルルクが目を向けると、そこにいたのは年老いたゾアン――ワオルンである。
ワオルンは手にしていた杖が地面に転がったのも気づかぬ様子でグルカカを凝視していた。
「そ、それは真実か……?」
ワオルンは老齢から丸く縮んだ身体をふるふると震わせ、自身を支える若者の手を振りほどき、おぼつかない足取りでグルカカへと歩み寄る。
「真実に! 真実に〈骨の氏族〉の再興が許されたのか?!」
一体何が起きているかはまったくわからなかった。だが、ワオルンのただならぬ様子に、尋常ではないことが起きている。そうと察したオルルクたちは言葉を失い、ただワオルンとグルカカを見守ることしかできなかった。
その中で、グルカカは自分へと歩み寄るワオルンへと確とうなずいて見せる。
「左様。〈牙の氏族〉のファグル・ガルグズ・シェムルは、偉大なる獣の神に選ばれし御子。そして、その恩寵は彼の者の誇りを守るもの! その御子が、遠き父祖の罪を今の子らが受け継ぐのは間違いである。胸を張り、己が氏族を名乗れとおっしゃられました!」
目尻に涙を浮かべるワオルンに、グルカカはさらに言葉へ熱を込めて言う。
「これがもしゾアンの誇りに反する言ならば、《気高き牙》は己が恩寵によって罰せられるはず! されど、《気高き牙》に獣の神は何の罰も下されなかった! これ、すなわち獣の神もまた我らが氏族の罪を赦した証なり!」
ワオルンの見開かれた目からぽろりと涙がこぼれ落ちた。そして、グルカカの前にくずおれるように座り込むと、ワオルンは両手で顔を覆って号泣を始める。
「おおっ! おおおっ!! 悲願が! 我らの悲願がついに成就したというのか!」
それはありとあらゆる感情がない交ぜになった涙であった。
自らの氏族を名乗ることを許されない悲嘆。氏族を偽る罪悪感。自分を氏族の同胞と信じて疑わない隣人に対する後ろめたさ。それでも氏族の復興を願わずにはいられない責務。そして、ついに贖罪と復興が果たされたことへの歓喜。
それらをすべて涙に変えてワオルンは号泣し続けたのである。
その小さな背中に、グルカカはそっと手を添え続けた。
「ジャガタの子、グルカカと言ったな。ジャガタは息災か?」
ようやく涙も流し尽くしたワオルンは顔を上げるとグルカカに問うた。それにグルカカはほろ苦く笑って答える。
「いえ。父は、すでに二十年以上も前に人間との戦いにおいて立派に討ち死にいたしました」
「そうか。ジャガタと私は、友人であった」
ワオルンは遙か過去の光景を脳裏に思い浮かべる。
「いつかは氏族を再興し、ともに暮らす。その日が来るのを願い、それを実現せんと誓い合った仲だ。ジャガタとの願いは果たせなかったが、その息子がこうして氏族再興の悲願を遂げてくれるとは……」
ワオルンはグルカカの手を握ると、再び目に涙を浮かべて何度も何度もうなずいた。
「ワオルン殿、是非ともお力をお貸し願いたい」
枯れ木のように細いワオルンの手を握り返しながら、グルカカは頼んだ。これにワオルンは即答する。
「如何様にも。この老いぼれにできることならば、命も惜しみますまい」
「〈尾の氏族〉のためにも、この無用な争いを止めるべく、オルルク殿を協議の場に着かせていただきたいのです」
グルカカの言葉に、ワオルンは「承知いたしました」と答えた。
ワオルンはグルカカの手を借りて立ち上がると、そのおぼつかない足で村へと戻る。
一体何が起きたのか? 一体何が起ころうとしているのか?
そう自分を注視するオルルクと〈尾の氏族〉の者たちの手前で、ワオルンは足を止めると、その場に膝をついた。
「〈尾の氏族〉の方々に、伏してお詫び申し上げる。私もまたこの者と同じく〈骨の氏族〉に連なる者。これまで氏族の方々を欺きたるは、紛れもなく罪。如何様に罰せられようとも、甘んじてお受けいたしましょう」
そう言うとワオルンは、額を地面にこすりつけて懇願する。
「されど、この老体にわずかなりとも情けをかける心があれば、どうか、どうか、この者の願いを叶えてはもらえぬだろうか」
ワオルンは顔を上げぬまま、その場からオルルクのところまで膝行すると、その足に触れたのである。
それは哀れな姿を晒し、相手へ最大の慈悲を乞う行為に他ならない。
「おやめくだされ、ワオルン老!」
たまらずオルルクは悲鳴のような声を上げた。
ワオルン殿への恩は、徒疎かにしてはならん。
それは先代の竈番であった父親から竈番を譲り受けた時の言葉であった。
平原を捨てて山奥深くへ逃げ延びねばならなくなったとき、率先して道なき道を切り開き、山の獣たちを追い払い、動けぬ子供や老人たちを背負い続けたのがワオルンである。
ようやく定住できそうなこの地を見つけた後も、ワオルンは毎日、日の出から日の入りまで山に食料を求めて入り続けた。それは、なれぬ山での探索である。怪我を負わない日はなく、時には命に関わるような大怪我を負うことすらあった。そうまでして見つけたわずかな食料をワオルンは家人ではなく、氏族の弱った者たちに惜しげもなく与え続けたのである。
今とは比べものにならないくらい厳しい状況で竈番だったオルルクの父親にとって、ワオルンは決しておろそかにしてはならない大恩人だったのだ。
ワオルンが、どれほど氏族に貢献し、そのためにどれほど身を削ってきたかは、竈番を受け継いだオルルクだからこそ痛いほど理解できる。
そのような氏族の大恩人が、老いて小さくなった身体を震わせ、額を地面にこすりつけて自分の足にすがって懇願しているのだ。
それを振り捨てられるほどオルルクは冷血漢ではなかった。
「わかりました! ワオルン老のおっしゃるとおりにいたします! ですから、どうか頭をお上げくださいっ!」
オルルクの絶叫に、氏族の誰からも異論が上がることはなかった。
〈骨の氏族〉の氏族姓はボルヌなので、グルカカの名乗りはボルヌ・ジャガタ・グルカカとなります。
〈牙の氏族〉でもらった《強靭なる牙》という字は残りますが、所属する氏族の誤解を防ぐために名乗るときはきちんと「《牙の氏族》よりもらった字」と前置きするなどの必要が出ます。




