第116話 ハシャムタ
「《気高き牙》に対する我が愚弟の無礼は、平に平にご容赦いただきたい!」
急遽、会談をするために張られた天幕に迎え入れられたシェンガヤは、まずシェムルたちへ向かって深々と頭を下げたのである。
これまで〈尾の氏族〉からは一方的に敵意を向けられてきたガラムたちは、これにどう反応すれば良いか判断に困ってしまった。
唯一の例外は、シェムルである。体力を使い果たし、まともに座ってもいられない状態だというのに、シェンガヤと再会できたのがよほどうれしいのか、常になくニコニコと笑顔を振りまいていた。
「気にするな、シェンガヤ。――いや、《静かなる尾》。私とおまえの仲ではないか。私のことも昔どおり小戦士でいいぞ」
これにシェンガヤは恐縮する。
「大恩ある小戦士に字で呼ばれるなど恐れ多い。私も昔と同じように、シェンガヤと呼んでくれ」
ゾアンにとって公の場で相手を字で呼ぶのは、相手への敬意を示す行為である。それを辞退して名前の方で呼んでもらいたいというのは、相手に対して自分はあなたが敬意を払うに値しないと自身を卑下するものであった。
シェムルに対する卑屈とも言える兄の態度に、泡を食ったのが弟のバドゥである。
「兄者。何もそこまでしなくとも……」
しかし、これがシェンガヤの逆鱗に触れる。
「このたわけがっ!」
ぐわっとシェンガヤが吠えた。
「おまえには何度となく教えたであろう! これなる小戦士は病に倒れた私を救ってくれた命の恩人であるばかりではない! 幼いながらもその命を賭してまで戦士の誓いを貫かんとした、その心根! 掛け値なしに私が尊敬する唯一無二の戦士であると! 小戦士がすでに他者を臍下の君に定めていなければ、私こそが小戦士を臍下の君とし、このすべてを捧げんと思っていたほどなのだ! それを貴様はよりにもよって……っ!」
そうまくし立てているうちに、だんだんと怒りが再燃したのであろう。シェンガヤは握り拳をバドゥの頭に叩き落とした。
「に、兄ちゃん……」
殴られた頭を抱えたバドゥは涙目になってしまう。
なおも怒りが治まらない様子のシェンガヤにシェムルが声をかける。
「待ってくれ、シェンガヤ。《強靱なる尾》とは互いに合意の上での決闘だったのだ。そのことにおいては私に何ら遺恨はない。《強靱なる尾》を責めないでくれ」
「おお! さすがは小戦士。その寛大な御心に感謝する!」
シェムルの仲裁に、シェンガヤはガバッと平伏して感謝を示した。
そこでシェムルはしかつめらしい顔を作る。
「だが、我が臍下の君を侮辱したことだけは許せない。それだけは取り消して欲しい」
「うむ。小戦士の言うとおりだ!」
これにシェンガヤは力強くうなずいて同意を示した。
「私も噂は聞いている。ソーマなる人間の王は、我ら氏族を平原から追いやったあの黒い獣をわずかな味方のみで打ち破ったとか。それを聞いたときには、さすがはあの小戦士が臍下の君と認めた者と感心したものだ。ソーマなる人間は、よほど英気をほとばしらせる英傑なのであろう!」
興奮気味のシェンガヤの言葉に、ガラムとズーグは思わず「それはない」と、そろって首を横に振ってしまった。
しかし、「まったくそのとおりだ!」と深くうなずくシェムルしか見えていないシェンガヤは、それに気づくことはなかった。そればかりか弟のバドゥの頭を押さえつける。
「そのような英傑を侮辱するとは、恥を知れ! 地面に額をこすりつけて、小戦士に詫びろ!」
「わ、わかったよ、兄者。――《気高き牙》とその臍下の君に謝罪する。俺が間違っていた」
「うむ。寛大な私は、その謝罪を受け入れるぞ!」
シェムルは胸を反らし、尊大な態度でバドゥの謝罪を受け入れた。
おまえのどこが寛大なのだ?
そう突っ込みたいのをぐっとこらえていたガラムの耳に、バドゥが洩らしたぼやき声が聞こえてくる。
「兄者は《気高き牙》のこととなると目の色を変えるから嫌だったんだよ……」
なぜだろう。
特定の相手に異常な執着心とも言える敬意を示す兄弟を嘆くバドゥのぼやきに、ガラムは激しいほどの共感を覚えた。
しかし、このままでは埒が明かない。
そう思ったガラムは、「やはり我が臍下の君に」「いや、それは受けられん」と押し問答をしているふたりの会話に割って入る。
「そろそろよろしいか? 《静かなる尾》」
「おっと。これは失礼いたした。ついつい小戦士との再会がうれしく、旧交を暖めるのに夢中になってしまった。」
そう言って居住まいを正したシェンガヤは、なるほど《静かなる尾》という字を拝命するにふさわしい落ち着いた雰囲気の戦士であった。
「改めて名乗ろう。――ゾアン十二氏族がひとつ〈尾の氏族〉、ガルルクの息子、シェンガヤ。字は《静かなる尾》だ」
これを受けてガラムとズーグもまた名乗った。その中でガラムが名乗ったとき、シェンガヤは小さく目を丸くする。
「おお! あのときの少年か。――おっと、少年は失礼だった。今や《猛き牙》の字をいただき、大族長となったばかりか、エルドアなる国では他の種族をも従える大将軍やらとか」
かつてガラムとも面識があったシェンガヤは懐かしさに目を細めた。それとは逆に、ガラムは訝しさに目を細める。
「ずいぶんと我らの状況をご存じのようだが」
先程、蒼馬がダリウス将軍を打ち破ったのを知っていたことと良い、自分がエルドア国の大将軍を務めていることと良い、これまでずっと姿を消していたにしては、平原の情勢にも詳しいようだ。
それを指摘すると、シェンガヤはほろ苦く笑う。
「やむを得ず平原を捨てたとはいえ、我らにとっても平原は父祖の地。いつかは戻れる日が来るのではないかと、平原の情勢には常に耳目を傾けていた」
そこでシェンガヤは恥ずかしげに頭を掻く。
「実は、私が行き倒れてあなた方の世話になったのも、平原の情勢を探るために氏素性を隠して密かに平原へ潜入していたときのことだったのだ」
「なるほど。こちらの事情はだいたい承知されているようだな。ならば、こちらからの説明の手間が省けて助かる」
このガラムの物言いに、彼が次に何を言い出すか察した場の空気がピンッと張り詰める。
「《静かなる尾》。いったい〈尾の氏族〉で何があったのだ? 我らに教えて欲しい」
「さて、何を話すべきか……」
シェンガヤはしばし考え込む。
「そうだな。長くはなるが、初めから順を追って説明させてもらおう」
そう言うとシェンガヤは、ゆっくりと語り始めた。
ダリウス将軍との戦いで大敗した後、氏族を存続させるためとは言え平原を捨てて山奥深くへと隠れなければならなかった父祖の苦渋の決断と苦難の逃避行。その果てに、ようやく定住できる土地を見つけられたものの今なおも続く困窮の日々。
「そんな中で耳にした平原奪還の報せを告げる太鼓の拍子には氏族の誰もが耳を疑ったものだ。そして、我らへ帰還を呼びかける拍子に、我らが族長のアヌンタ様はおっしゃられた」
そのときの情景を脳裏に思い起こすようにシェンガヤは目をつぶる。
「我らは同じゾアンの同胞とはいえ、氏族が違えばいがみ合い、領域を相争っていた間柄。それだというのに、平原より逃げた我らのことを忘れずに帰還を呼びかける度量を持った牙と爪の族長ならば、ゾアンはかつてない隆盛を迎えることだろう。これで我ら〈尾の氏族〉が絶えるとも、平原のゾアンの命脈は残された、と」
平原を奪還してよりずっと叩き続けてきた太鼓の拍子が無駄ではなかったことに、ガラムは安堵した。
「そうか。我らの太鼓は届いていたか……」
ガラムの呟きに、シェンガヤは力強くうなずく。
「しっかりと……」
しかし、シェンガヤは顔を苦渋に染める。
「されど、如何に氏族を絶やさぬがためとはいえ父祖の土地たる平原を捨てたるは、他でもなく我ら〈尾の氏族〉の責。我らが罪! 我らが去った後も踏みとどまり、戦い続け、ついには平原を取り戻したあなた方にどの面を下げて会うことができようかっ?! 如何にして平原へ戻ることができようかっ?!」
高ぶる感情のままに訴えていたシェンガヤだが、そこで力なく肩を落とした。
「――とはいえ、狩りもままならぬ山での生活は困窮を極め、このままでは遠からず氏族が絶えてしまうのも事実。
このまま戦士の誇りと名誉に殉じて山での生活を続けるべきか。それともたとえ戦士の誇りを失い、氏族の面子が潰れようとも平原の同胞に頭を下げて領域を分けてもらうべきか」
シェンガヤは深いため息とともに、首を小さく左右に振る。
「我らはあれ以来ずっと氏族の中で話し合っていたのだが、今もってなお答えは出ていない……」
誇り高きゾアンにとって、誇りある死を取るべきか、誇りなき生を取るべきかは、まさに究極の選択である。
ましてやそれが氏族全体に関わるものとなれば、いまだに結論を出せずにいるのも無理はないとガラムたちは思った。
「そんなときに、あいつは我らの村にやってきたのだ」
そんなガラムたちが見つめる前で、シェンガヤは視線を伏せたままわずかに牙を剥く。
「あの、ハシャムタと名乗る男が」
シェンガヤの口から洩れた、ガジェタが偽名として名乗ったと思われる名前に、ガラムたちの間に緊張が走った。




