第91話 帰還
「おい、あれを見ろ!」
ゾアンの戦士のひとりが、遠くを指さしながら声を上げた。
そこはソルビアント平原の南部である。蒼馬のもとで始められた開拓事業により多くの人間が開拓民として入植し、いくつもの開拓村が点在する地域だ。
そして、今やエルドア国の多くの人々の胃袋を満たす穀物を生産する一大穀倉地帯となったところでもあった。
そんな重要な地域の巡視の任務に就いていたゾアンの戦士が、仲間が指さした方を見やる。すると、そこでは黒い煙が空へと立ち上っているのが見えた。
「野焼きをするという話は聞いていないぞ。それに、煙が開拓村の中から出ているようだ」
「火事かもしれん。急ぎ様子を見に行こう」
ゾアンの戦士たちは互いにうなずき合うと、四つ足となって駆け出していった。
煙が立ち上る開拓村に近づくにつれ、戦士たちの耳に多くの人々の声が聞こえてくる。しかも、それは火事に対処しようとしているというより、悲鳴や怒号といった人同士が争う声であった。
もしや、野盗どもが開拓村を襲撃したのか?
ゾアンの戦士たちは、そう思った。
蒼馬がソルビアント平原を統治して以来、その治安維持はゾアンたちが担ってきた。当初は傭兵崩れの盗賊や紛争地での荒事を生業とする無法者などによる開拓村の襲撃もあったが、そうした不届き者たちは優秀な狩人であり戦士でもあるゾアンたちによってことごとく成敗されてきたのである。近年では、開拓村が襲われるような話はまったく聞かれなくなるぐらい平穏であり、それにゾアンたちも密かに自負を抱いていた。
このソルビアント平原で村を襲うとは不届きな連中どもめ。
その自負を傷つけられたゾアンの戦士は、憤りを胸に大地を駆ける足にさらに力を込める。
「ちょっと待て! これは変だ! 応援を呼ぶから、少し待て!」
もうひとりの戦士は、ふたりでは手に余ると思い、応援を呼ぶべく太鼓を叩くため足を止めた。だが、すでに駆ける足を速めた戦士は止まらない。
「おまえは応援を呼んでくれ! 俺は一足先に村へ行く!」
その戦士は数日前に、今煙が上がる村を巡視に訪れたばかりだった。あのとき自分を笑顔で迎えてくれた開拓民が今まさに襲われていると思うと、とうてい立ち止まってはいられなかったのだ。
疾風のような速さで駆けたゾアンの戦士は、家々が赤い炎に包まれ、開拓民たちが悲鳴を上げて逃げ惑う開拓村に駆け込んだ。
「な、何だとっ?!」
そして、驚き――。
「どういうことだ、これは?!」
愕然とした。
彼らの前で逃げ惑う開拓民に対して刃を振りかざしていたのは、自分たちと同じゾアンだったのである。
そのゾアンの戦士が我を失ったのは、わずかなときであった。開拓民の母子に山刀を振り上げる同胞の姿に、反射的に駆け出す。
「やめろぉ!!」
今まさに山刀を振り下ろそうとしていた同胞の背後へ肩からぶつかる。この不意打ちに同胞がよろめき倒れる間に、そのゾアンの戦士は開拓民の母子を背後に守るようにして立つと自身も山刀を抜く。
「貴様っ! 正気か?! なぜこのようなマネをする?!」
この怒声に、しかし体当たりを受けた同胞は体勢を立て直すと逆に牙を剥く。
「邪魔をするな! 誇りを糞にまみれさせたゲノバンダの僕どもめ!」
そう叫ぶなり山刀を振りかざして斬りかかってくる。
激しく山刀を打ち合わせた。
口惜しいかな。わずかに斬り結んだだけでも戦士としての技量おいては、相手が勝っているのを思い知らされてしまう。
このままでは背中に守る母子すら救えない!
そう歯噛みをするゾアンの戦士だったが、そのときゾアンの太鼓が激しく打ち鳴らされる。
それは「退却」を意味する拍子だった。
「ゲノバンダの僕どもがやってくるぞ! 退却だ! 退却するぞ!」
太鼓の拍子とともに、開拓村のあちこちから襲撃者たちの声が上がった。
そして、村の外からは「突撃」を意味する太鼓の拍子が打ち鳴らされている。そちらへ目を転じれば、はるか向こうから土煙を上げてこちらへ向かって駆けてくる多数の仲間の戦士たちの姿があった。
「糞どもがっ!」
斬り結んでいた相手は、そう吐き捨てると一際大きく振りかぶった山刀を振り下ろした。その一撃によって、ゾアンの戦士の手から山刀が弾き飛ばされてしまう。それを見届けてから背を向けて自分も逃走に移ろうとしたところを逃がしてはなるものかとゾアンの戦士は跳びかかった。
「逃がすか!」
「しつこいぞ!」
腰にしがみついたものの、鼻面に山刀の柄頭を叩き込まれて怯んだところを、たまらず振りほどかれてしまう。
そのとき、振りほどかれた右手が逃げようとしていた同胞の腰に吊されていた装飾品を無意識に掴み、引きちぎる。
振りほどかれた際に崩された体勢を立てなおして追いかけようとしたゾアンの戦士だったが、そのときにはすでに相手は四つ足となって駆け去った後だった。
もはや追いつくのは困難である。また、たとえ追いついたとしても戦士の技量に劣る自分では、返り討ちに遭うだけだ。
悔しさに歯噛みしながらも追跡を断念したゾアンの戦士は、後ろを振り返る。すると、そこではいまだに腰を抜かしたままの開拓民の母と、それでも彼女が必死に守ろうとその胸に固く抱きしめる子供の姿があった。
「大丈夫か? 怪我はないか?」
そう言って助け起こそうとゾアンの戦士は手を差し伸べた。
「ひいぃぃぃ! お助けください! この子だけは! この子だけは!!」
しかし、返ってきたのは悲鳴であった。
それが先程の襲撃者であったゾアンの戦士の山刀よりも、その戦士の胸を強打する。それに怯んだのを隙と思ったのか、女は立ち上がると我が子を抱きしめたまま一目散に逃げ出してしまう。
その背中にゾアンの戦士は思わず手を伸ばし、呼び止めようとした。だが、手はむなしく宙を掴み、口は声にならない息を洩らしただけだった。
女の恐怖も理解できる。
助けられたとはいえ、襲ってきたのも同じゾアンだ。種族が違う人間ではゾアンをひとりひとり見分けられるわけもない。恐怖したのも当然であろう。
そう理解はするものの、やりきれない想いが口をつく。
「くそっ! あいつらは何者だっ?!」
やり場のない怒りと無念さを吐き捨てた戦士だったが、そのとき地面に転がっているものが目に留まった。
それは先程もみ合った際に相手の腰から引きちぎったものだ。
その戦士は震える手で、それを拾い上げる。
「……! こ、これは?」
それは、狼の尾を加工して作ったお守りであった。
狩猟種族であるゾアンは、自分が倒した獲物の身体の一部を装飾品にして、武勇の証やお守りとして身につける風習がある。〈牙の氏族〉である彼もまた戦士になったときに狩った狼の牙を首飾りにして身につけていた。
しかし、このお守りに使われているのは、尾である。
武勇を誇りとする戦士たちの間では、力や強さの証明となる牙や爪を装飾品の材料とするのは、氏族のいずれを問わず珍しいものではない。だが、尾を材料とするのは、とある氏族を除けばほとんどいないはずだ。
そして、尾の装飾品に使われた色糸の独特な組み合わせ方を見れば、それがどの氏族のものなのか一目瞭然である。
「……まさか、あいつらが戻ってきたのか?!」
◆◇◆◇◆
「〈尾の氏族〉です!」
蒼馬のところへ急使として駆け込んできたゾアンの戦士は、そう叫んだ。
「平原で開拓村を襲撃しているのは、〈尾の氏族〉と思われます!」
蒼馬は、あまり聞かない氏族名に一瞬だけ戸惑った。
しかし、すぐにその名を記憶の中から拾い上げる。
「〈尾の氏族〉だって?! ――それって、シェムル?」
自分の記憶を確かめるためシェムルへ目を向ける。すると、シェムルは自身も驚きながら肯定を示すようにうなずいた。
「そうだ。もう四十年近く前、ホルメア国に平原を追われて姿を消した、ソルビアント平原に住んでいた五氏族のうちのひとつだ」
現在、ソルビアント平原に住むゾアンの氏族は、牙・爪・たてがみ・目の四氏族である。
しかし、かつてソルビアント平原には、さらにもう一氏族を加えた五氏族が住んでいた。
それが、〈尾の氏族〉だ。
この〈尾の氏族〉は、ソルビアント平原のもっとも南を領域として生活していた氏族である。そのため、平原の南からホルメア国が侵略してきたとき、真っ先にその侵略を受けてしまった。
ホルメア国軍により住んでいた領域から追い払われた〈尾の氏族〉は、他の四氏族とともに全氏族連合を結成して反撃に出るも、名将と名高いダリウス将軍を前に大敗してしまう。
起死回生の願いもむなしく破れた〈尾の氏族〉は、それから間もなく平原を捨てていずこかへと消え失せてしまい、これまでその行方はようとしてわからなかったのである。
蒼馬によって平原を取り戻してからは、〈尾の氏族〉の領域だったところに着々と入植事業を押し進めていたため、彼らの帰還はいらぬ騒動となりかねなかった。
しかし、もとは氏族の領域で争う対立関係にあったものの、その血をたどれば獣の神が最初に生み出した十二人の兄弟を祖とする同胞たちである。
ガラムとシェムルの強い願いもあり、平原奪還を知らせるとともに帰還を願う太鼓を定期的に打ち鳴らしていたのだ。
ところが、これまでそうした太鼓にも一切の反応がなく、もはや太鼓の音も届かないはるか彼方の地へ旅立ってしまったか、氏族そのものが消滅してしまったものと考えられてきたのである。
それが、今になって姿を現し、しかもせっかく取り戻したソルビアント平原の平和を乱す敵となるとは思いも掛けなかった事態であった。
なぜこんな事態になったんだと考えた蒼馬は、ハッと思い出す。
「自分たちの領域に人間が入植していたのを知らずに戻ってきちゃったんだ!」
以前、ソルビアント平原を開拓する際に土地の借用をゾアンの人たちと相談したときである。〈たてがみの氏族〉の族長バララクの提言で、〈尾の氏族〉がいた土地を優先的に開拓していたのだ。
これでは平原を取り戻したと聞いて戻ってみたところ、自分たちの領域に人間が我が物顔でいれば〈尾の氏族〉も激怒するだろう。
蒼馬は慌てて〈尾の氏族〉に連絡を取って事情を説明しなくてはと焦った。
ところが、そうではないとゾアンの戦士は言う。
「我々も陛下と同じように考え、すぐさま太鼓で対話を求めたのです。ところが、返ってきた太鼓の音は『刃でのみ語る』でした」
「刃でのみ語る……?」
ゾアンの言い回しはわからなかったが、文言だけ見てもとうてい穏やかなものではなさそうだ。
その蒼馬の考えをシェムルが肯定する。
「一切の対話を拒絶し、戦いによってのみ決着をつけるという意味だ。――しかし、それはただ事ではないぞ」
シェムルは人間にもそれとわかるぐらい顔をしかめた。
それはどういうことかと蒼馬は尋ねる。すると、シェムルはしばし考えてから答えた。
「そうだな。――おまえにわかりやすく言えば、ロマニア国と戦っているときに送った使者が問答無用でいきなり斬り捨てられたと思えば良い」
蒼馬は驚いた。
それは今後一切の交渉を拒否し、どちらかが全滅するまで戦うという意味だ。
シェムルは信じられんと首を小さく横に振るう。
「こんなのあり得んぞ。個人や一家に対してならばともかく、こちらからの呼びかけは〈尾の氏族〉に対して行っているんだ。それに対する答えが『刃でのみ語る』とは、氏族同士でどちらかが滅ぶまでやりあおうといっているようなものだ」
ゾアンという同じ種族であるが、氏族が異なれば慣習や決まりが異なるように、それぞれの氏族がひとつの小国にも等しい。現代人の感覚からすれば、その宣言は国ひとつ皆殺しにすると言っているようなものである。
「ちょ、ちょっと待って! 何で、いきなりそんなことになるんだよ?!」
蒼馬は混乱した。
念願の帰郷が果たせると思っていたのに人間が入植していれば、怒りたいのもわかる。それに、騙されたと勘違いしたのかも知れない。
しかし、現状の説明を求めず、いきなり全面戦争突入とはいくら何でも唐突が過ぎた。
「グルカカは、どう対処している?!」
蒼馬が呼んだのは、ソルビアント平原の治安を任せている赤毛のゾアンの戦士の名前である。
本来ならばソルビアント平原を統括しなければならないのは、全ゾアンの代表たる大族長のガラムの役割であった。
しかし、エルドア国の大将軍も兼任するガラムは平原ばかりかまけている余裕はない。
エルドア国軍は創設してまだ数年と日も浅いのに加え、このセルデアス大陸ではこれまで例を見ない多種族連合軍である。発生する問題の多さとその複雑さは、想像以上のものだ。
そのためガラムはほとんど平原には戻れず、王都に出ずっぱりの状態となっていた。
これではとうてい平原の問題までは目が行き届かない。
そこで、多忙な自らの代理に立てたのがグルカカであった。
ガラムの父親であり、先代の〈牙の氏族〉の族長であったガルグズとは親友の間柄にあったグルカカは、若くして族長となったガラムを献身的に補佐する壮年の戦士である。親子二代に渡って公私ともに世話になっており、ガラムは多大な恩義を感じるとともに深く信頼する人物であった。
そして、グルカカもその信頼に背くことなく、ゾアンの領域であった土地へ人間を入植させるという大変換を迎えたソルビアント平原をこれまで大過なくまとめてきたのだ。
これにはガラムも「俺よりもはるかに大族長らしい」と苦笑いしたと言う。
ガラムとしては不在ばかりの自分より、〈牙の氏族〉の族長の地位をグルカカへ譲りたいと考えていた。しかし、このグルカカという男はどうにも変わった性格で、ガラムの度重なる打診にも「性に合わない」の一言で辞退しているという。
そんなグルカカならば突如の〈尾の氏族〉の襲撃にも短絡的に反撃へ打って出るようなまねはないだろうという蒼馬の予測は正しかった。
「グルカカ殿も何か行き違や勘違いがあったのだろうと言ってます。そして、返り討ちにすべしという意見を押さえ込まれ、開拓村の防衛に徹するように通達を出されました。また、それと同時に〈尾の氏族〉へ対話を求める拍子で繰り返し太鼓を叩かせております。
ですが、少なくとも私が平原を出るまでは『刃でのみ語る』の宣言どおり、〈尾の氏族〉からの反応はございませんでした」
そこでゾアンの戦士は、語調を荒げる。
「私だって、ゾアンです。奴らの立場ならば、かつての自分らの土地に人間の開拓村があるのを見て怒るのも理解はできます。ですが、奴らはそれだけじゃないんです!」
蒼馬はさらに嫌な予感を覚える。
「いったい、何が起きたの?」
「奴らは、自分のもとの領域だけではなく、牙と爪の両氏族の領域にある開拓村まで襲っています。いえ、それだけじゃはありません――」
そのゾアンの戦士は吐き捨てるように言う。
「奴ら、牙と爪の同胞たちの村まで襲撃をかけてきやがったんです!」
蒼馬は愕然とした。
「もしかして、誤解なんかじゃなくて、もともと敵対するつもりで戻ってきたってことなのか……?」
蒼馬の洩らした言葉にシェムルが食ってかかる。
「そんな馬鹿な! 確かに元は奴らの領域だが、たとえやむにやまれぬ状況とは言え、そこを捨てたのも奴らだ。今さらその土地をどうこうされたからといって氏族同士でやり合おうなどとは道理が通らぬぞ!」
シェムルの言うことは、もっともだ。しかし、〈尾の氏族〉は現に牙と爪の両氏族の同胞たちにまで攻撃を仕掛けている。ふたつの氏族を同時に相手取って、全滅するまでやり合おうとはよほどのことだ。
そこまで考えてから、蒼馬はあることに気づく。
「ちょっと待って。さっきから牙と爪の被害は聞いたけど、〈たてがみの氏族〉の領域は無事なの?」
もともと自分たちの領域へ人間が入植するのを好まなかった〈たてがみの氏族〉の領地には、開拓村がほとんどない。そのため襲撃がなかったかと思えば、今の話ではゾアンの村まで襲われていることになる。それならば〈たてがみの氏族〉にも被害が出ているはずだ。
「それが〈たてがみの氏族〉には被害が出ていないそうです。それに関係するかどうかはわかりませんが、襲撃があったのとほぼ時を同じく――」
ゾアンの戦士はわずかに躊躇ってから、次の言葉を蒼馬へ告げた。
「〈たてがみの氏族〉の族長メヌイン・グジャタラ・バララク殿は、エルドアからの離脱を宣言したんです!」




