第69話 ベルテ川の戦い16-勝負
ロマニア国軍の後背へゾアンが回り込めた状況を説明するためには、話をいったん開戦直後まで戻さなくてはならない。
開戦を告げる大太鼓の音とともにロマニア国軍の右翼でピアータが率いる百狼隊が動き出したように、エルドア国側で真っ先に動き出したのはロマニア国軍の左翼正面――エルドア国軍の右翼の最前列に配置されていた黒エルフ弓騎兵隊だった。
「黒エルフ弓騎兵隊、参ります!」
いまだ負傷が治らず参戦できないエラディアに代わり隊を任されていたエルフの女性が歌うような高らかな声で黒エルフ弓騎兵隊を叱咤した。
「働きが悪い者は、後でお姉様のお叱りを受けるものと覚悟しなさい!」
すると、今回の戦いから黒エルフ弓騎兵隊に入ったばかりのエーリカが声を上げる。
「副隊長殿! 恐ろしいことをおっしゃられないでください! 皆が萎縮してしまいます!」
黒エルフ弓騎兵隊の全員がいっせいに真顔でうなずいた。
隊長代理のエルフの女性は小さく笑ってから右手を突き上げる。
「ならば、なおのこと頑張りなさい! ――では、参りますよ!」
そう言うと乗馬の脇腹に小さく蹴りを入れて走らせる。そして、黒エルフ弓騎兵隊全員がその後に続いた。
馬に乗って駆ける黒エルフ弓騎兵隊の前に立ち塞がったのは、ロマニア国軍の軽装歩兵と弓兵からなる部隊である。彼らは投石や投槍、そして弓矢を準備して黒エルフ弓騎兵隊を待ち構えた。
しかし、それは間違った対応だ。
黒エルフ弓騎兵隊が手にする弓は、エルフィンボウである。短弓ほどの大きさでありながら、長弓並の射程と威力を発揮するこの時代の最強兵器とも呼べる武器だ。その有効射程は、投石や投槍は無論のことロマニア国軍の弓兵が持つ普通の弓とは比べものにならない。
ロマニア国軍の射程距離よりもはるか遠くから、黒エルフ弓騎兵隊は矢を放ち始める。
黒エルフ弓騎兵の弓の腕前はすさまじいの一言だった。これほどの遠距離から、しかも激しく揺れる馬上での射撃だというのにほとんど狙いを外すことはない。そのため、ロマニア国軍から次々と犠牲者が出た。
「反撃だ! 反撃しろぉ~!」
やけ気味になって叫ぶ隊長の命令に応じて、投石や矢が放たれる。しかし、それはまばらで、射程距離を稼ぐために大きく山なりに放物線を描く射撃だった。当然、そんな射撃では馬に乗って移動する黒エルフ弓騎兵に当たるはずがない。むしろ射撃のために立ち上がったことで、黒エルフ弓騎兵の弓の良い的になってしまう。
続出する犠牲者の多さに、ついにはロマニア国軍の兵たちは恐れをなした。隊長が制止の声を張り上げるのも構わずに、ひとり、またひとりと兵たちが逃げ出し始める。そして、黒エルフ弓騎兵隊の矢と騎馬の圧力を前に、ついには隊長までもが武器を放り捨てて逃げ出すと、弓兵と軽装歩兵からなるロマニア国軍左翼の前衛部隊はついに崩壊した。
「逃げる敵は無視しろ! 敵は正面! 重装歩兵部隊!」
弓を高々と掲げて号令を上げる副隊長に、黒エルフ弓騎兵たちは「了解!」と唱和を返した。
敵の狙いを分散するために散り散りに行動していた黒エルフ弓騎兵をいったん集合させると、副隊長は自分を先頭にして正面の重装歩兵部隊へと向かって行った。
「あれが噂に聞く、エルドアの売女どもか!」
迎え撃つロマニア国軍重装歩兵部隊を率いる将軍は、まずエルドア国のエルフの女性に対する蔑称を口にした。
それから重装歩兵部隊へ号令をかける。
「全隊、兵同士の間隔を詰めろ! 亀の隊形だ!」
将軍の号令とともに、兵たちが武具を鳴らしながら動き出した。
ただでさえ兵が過密に集まる密集陣形の中で、兵士たちはさらに身を寄せ合い密度を上げる。そして、前列から二列目以降の兵たちは手にした盾を自らの頭上に掲げて重ね合わせると、あたかも屋根のようにかざした。
遠目では亀の甲羅のように見えるところから「亀の隊形」と呼ばれる射撃武器に対する防御隊形である。
「よしっ! そのまま前進!」
ロマニア国軍重装歩兵部隊は、亀の隊形を取ったまま軍靴の音も高らかに前進を開始した。
これに対して黒エルフ弓騎兵隊は、まず馬首を左へ向けて馬を走らせる。それから急激に馬首を右へと翻すと、重装歩兵部隊の前を横切るように真横へと馬を駆けさせた。
ロマニア国軍の重装歩兵部隊へ馬の横腹を見せつけながら馬を走らせる黒エルフ弓騎兵たちは矢継ぎ早に矢を放つ。
ざあっと音を立てて矢が雨のように重装歩兵部隊に降り注いだ。
しかし、さすがのエルフィンボウとはいえ、盾を貫通した上で敵を殺傷するほどの威力はない。強固な亀の隊形を前に、ほとんど被害らしい被害も出せなかった。
「ふははははっ! 噂に聞く弓騎兵とやらも、大したことないな!」
黒エルフ弓騎兵隊を挑発するとともに、重装歩兵たちに亀の隊形を取れば大丈夫だと暗に言い聞かせながら将軍は油断なく次の敵へと目を光らせていた。
いかに馬で移動しながら強力な弓矢で攻撃してくる弓騎兵といえど、その数は二百にも満たない程度。それだけでは三千を超える重装歩兵部隊を単独で崩せるわけがない。ましてや、こちらの後方にはさらに五百輌もの戦車部隊を温存しているのだ。その程度がわからぬ敵ではないだろう。
あの弓騎兵たちは、あくまで露払いに過ぎない。
ロマニア国の将軍は、その目を細めた。
「――! 本命が来たぞ! 正面だ! 敵は――」
そこで将軍はわずかに息を飲む。
黒エルフ弓騎兵隊の後ろからやってきたのは、四つ足で駆けてくる二千近くにも達するゾアンの集団だった。エルドア国においても最強の戦力とされるゾアンが戦場に出てくるのは不思議ではない。
問題は、その先頭を駆けるゾアンだ。
遠目でもはっきりとわかる、その鮮やかな赤い毛並み。
「くそっ! 赤毛かっ! ――赤毛だ! 赤毛が来たぞ!」
今や赤毛の異名でもってロマニア国軍全軍にその名を知られるゾアンの猛将クラガ・ビガナ・ズーグである。
「亀の隊形を解除だ! ゾアンの突撃に備えよ!」
重装歩兵部隊はかざしていた盾を下ろし、代わりに槍を持つ手に力を込めた。
自分らの突撃に備えて盾を並べて槍の穂先を揃えるロマニア国の重装歩兵部隊を前に、ズーグはニカッと笑う。
「全員、止まるぞっ!」
そう叫ぶなりズーグは足の鉤爪で大地を削りながら急停止する。それより一瞬遅れて、隣を駆けていたゾアンの戦士も急停止しながら腰につけていた太鼓を素早く手に取ると、どどんっと打ち鳴らす。
そのとたん、ズーグに率いられた二千近いゾアンもいっせいに止まった。
太鼓の音ひとつで一糸乱れぬ統率の取れた動きができるのは、子供の頃から太鼓の音で遊ぶゾアンならばこそのものだ。
そうしてロマニア国軍の重装歩兵部隊の槍の間合いよりはるか手前で止まったズーグは自らの腰帯から吊された革袋に手を突っ込み、中に入れられていた拳大の石を鷲掴みにしながら、さらに号令をかける。
「投石開始だーっ!」
どんっという太鼓の音とともに、ゾアンたちはいっせいに投石を開始した。
近距離から投じられる投石の威力はすさまじい。エルフィンボウの矢を受け止めた盾でも、受けきるのは困難だ。直撃を受ければ盾を持つ手を衝撃でしびれさせるばかりか、下手をすれば盾そのものを砕かれかねない。
しかし、ゾアンの投石とて限りがある。亀の隊形となって防御に徹すればしのげるかもしれない。
だが、そうすれば盾に視界を塞がれ、槍への意識がおろそかになってしまう。それでは足の速いゾアンが突撃してくるのを防げない。そうして接近戦となれば、山刀を武器とするゾアンの独壇場だ。
投石を防ぐのに徹すればゾアンの接近を許し、ゾアンを退けようとすれば投石を防ぎきれなくなる。
ロマニア国軍の重装歩兵部隊を指揮する将軍は、この抜き差しならない状況に歯噛みした。
しかし、ここは我慢の時だ。
そう将軍は自分に言い聞かせると、戦況を確認する。
攻め寄せてくるゾアンを見れば、敵もまた攻めあぐねているようだった。距離を取って投石しつつ、その合間にこちらの隙をうかがって突進しようとしている。だが、すぐに槍の穂先を向けられて慌てて後ろに飛び退く。これを先程から何度も繰り返しているのだ。
互いに手詰まりになってきた感が否めない。
だが、ここで無理押しすれば、かえって足下をすくわれることになるだろう。何しろ、敵はあの赤毛だ。ミルツァの戦いでは、こちらの重装歩兵の部隊を真正面からいくつも突破してみせた猛将である。決して侮って良い相手ではない。
それに、自分の役目はロマニア国軍本隊の側面を守ることである。ここで武功に逸って、無理に敵を倒す必要はないのだ。
ロマニア国軍の将軍は兵を叱咤し、激励し、この場を耐え続けた。
そんな状況に我慢できなくなったのか、赤毛――ズーグが大きな声を張り上げる。
「右だっ! 右へ回り込め!」
ズーグのかけ声とともに、後方にいたゾアンたちの一部が側面へ回り込んできた。
「側面から我らを崩すつもりか?!」
ゾアンたちが回り込もうとしているのは、ロマニア国軍重装歩兵隊から見れば左側である。
重装歩兵にとって盾を構える左側は防御力はあるものの槍が使えないのが弱点だ。槍がなければ接近しようとしてくるゾアンを遠ざけられない。
重装歩兵部隊を率いる将軍は、すぐさま密集陣形の後列の一部を左へと動かして側面へ回り込もうとするゾアンを食い止める。また、それと同時に手薄となった右手側へ攻勢をかけ、逆にゾアンたちへ圧力をかけた。
「我らの方が兵数で勝っているのだ! ゾアンどもを押し返せぇ!」
将軍の号令とともにロマニア国軍重装歩兵たちは陣容を変えていった。
◆◇◆◇◆
その光景をロマニア国軍の重装歩兵部隊の後方に控えていた五百輌の戦車部隊を指揮する将軍はジッと目を凝らして観察していた。
「将軍! 今こそ好機ですぞ!」
ゾアンの武器は、その四つ足で馬のような速さで駆けられる脚力である。その最大の武器である足を止めている今こそが攻撃の好機であると副官は訴えた。
しかし、将軍はそれを拒絶する。
「ダメだ! 逸るな!」
将軍が見たところ、まだゾアンたちは重装槍歩兵たちと本気でぶつかり合っていなかった。何かあれば後退できるだけの余裕が感じられる。
おそらくは、重装歩兵部隊の隙を作ろうと、今はまだ牽制に止めているところだろう。
もしくは、こちらの戦車部隊を警戒しており、引きずり出そうという算段かもしれない。
もし、誘いだったのならば戦車部隊が出てきたところで急反転し、お得意の足を活かして重装歩兵部隊を引き離す。それから自分たち戦車部隊に襲いかかってくるのだろう。
いくら戦車であろうとも、あるのはわずか五百輌。通常ならば十分すぎる数だが、敵がこの三倍以上ものゾアンとなれば話は違う。戦車と同じ速さで駆け、なおかつ比較にならないほどの小回りが利くゾアンに四方八方から次々と飛びかかって来られれば、とうてい防ぎきれるものではない。
そして、戦車に乗っているのは諸侯や騎士といった身分のある者たちばかりである。戦車部隊に被害が出れば、それはロマニア国軍にとって人数以上のものとなるだろう。
戦車部隊の将軍は、今はまだ様子を見るべきだと判断する。
「ゾアンどもがこちらの重装歩兵部隊と、がっぷりとぶつかり合うのを待て! ゾアンどもが動けなくなったところを見計らい、奴らの後背を脅かし、一気に敵を崩すのだ!」
戦車部隊の将軍は、訪れるであろう好機をじっと待ち構えた。
◆◇◆◇◆
部隊を率いる多くの指揮官たちが、兵たちの逸る心を抑え、自身の焦る気持ちをこらえながら、じっと好機を待ち続けるこの戦場で、今もっともそれに苦労していたのは、エルドア国軍中央の重装歩兵部隊を率いるセティウスだっただろう。
「鼓手! 拍子が速くなっているぞ! 落ち着け! 逸るな!」
いつものしかめっ面はどこへやら、セティウスは焦りを顔に浮かべて声を張り上げていた。
「伝令兵! 左の部隊へ速度を落とせと伝えよ! ――鼓手! もっと拍子を落とせ!」
セティウスはしきりに自分の部隊に目を配り、勇むあまり足が速くなる兵を抑えるように指示を飛ばしていた。
開戦前は自分らに倍する敵を前に、どうやって士気を高め、維持させるかにセティウスは頭を悩ませていた。
ところが蓋を開けてみれば、兵たちは士気が萎えるどころか、その意気は軒高。むしろ士気が高すぎて、兵たちの手綱を取るのが大変な有様である。
それもこれもすべての原因はわかっていた。
「兵たちを煽りすぎですよ、陛下」
セティウスは周囲に聞かれないほどの小さな声で愚痴をこぼした。
開戦直前に蒼馬の鼓舞によって、一兵卒に至るまで全軍がいきり立っているのだ。いくら自分が抑えようとしても、抑えきれないほどに。
自分らの倍にはなろうかという敵の大軍を前に、これだけ兵たちの士気を上げさせるのは、さすがは陛下とは思う。相も変わらず人を奮い立たせるのがうまい。
だが、今回ばかりは良い迷惑である。
今もまた前へ突出しようとしていた部隊へ伝令兵を飛ばして押さえつけねばならなかった。
そもそも兵の前進速度を抑えて、時間をかけて進ませろと命じたのは、陛下ではないか。言うこととやっていることが違うんじゃないでしょうか?
胸の内で盛大にぼやきながら、セティウスはまたもや前へ突出しようとしている部隊を見つけて声を張り上げる。
「ああ! そこ! 良いかっ! 焦るな! 落ち着け!」
それからセティウスは正面へと向き直る。
すると、すでに相対するロマニア国軍中央本隊の姿が、個々の兵たちの装備が見分けられるぐらいの距離まで迫っていた。
セティウスは、肩越しにチラリと後方を振り返る。
「そろそろ勝負に打って出てもらわねば、時間稼ぎも限界に近いですよ、陛下」
◆◇◆◇◆
その頃、蒼馬は最後尾の部隊の中央で、ジッと空を見上げていた。
その目の先にいるのは、ひとりのハーピュアンの偵察兵である。
戦場のほぼ中央の上空で円を描きながら滞空するそのハーピュアンの一挙手一投足を見逃してはなるものかとばかりの気迫を込め、蒼馬は凝視し続けていた。
好機は、一度。失敗は許されない。
そんな蒼馬の気迫が伝わったのか、ハーピュアン偵察兵が宙に描く円が小さくなり、旋回が速くなる。
「シェムル。太鼓の準備を……」
ハーピュアンに目を向けたまま、蒼馬はゆっくりと右手を挙げつつ、ぼそりと告げた。すると、蒼馬が乗る馬の脇に立っていたシェムルがゾアンの太鼓を構える。
ピリピリとした緊張感が周囲に漂う。
そして、ついにそのときが訪れた。
それまで横に円を描いて飛んでいたハーピュアン偵察兵が身体をくねらせながら、縦に旋回する。
「陛下! 合図です!」
蒼馬の近くで待機していたハーピュアンが同胞の動きを読み取り、それを蒼馬に告げた。
すかさず蒼馬は右手を振り下ろしながら声を張り上げる。
「シェムル! 太鼓を鳴らせ!」
間髪を入れずシェムルがゾアンの太鼓を打ち鳴らした。
その太鼓の音に乗せ、蒼馬は号令を発する。
「全軍に通達! これより勝負に打って出るぞ!」




