第66話 ベルテ川の戦い13-空中戦
「な、何だ……?!」
ここは戦場だ。怒号や剣戟の音が聞こえて当然。聞こえない方がおかしいぐらいである。
ところが、その怒号を聞いた瞬間、ピアータは全身の毛という毛が総毛立つほどの危機感を覚えた。
いったい、何だ? 何が起きた?!
ピアータは少しでも視界を得ようと、鐙の上に立ち上がって戦場を見渡した。
まず、ピアータが真っ先に目を向けたのは自分らの左側後方にいるパルティスが率いる主力の重装歩兵部隊である。何か起きたとすれば、戦の勝敗を決する本隊のところと思ったのだ。
ところが、開戦早々から馬の脚を活かして戦端を開いた自分たちとは異なり、いまだ主力部隊は敵と衝突すらしていなかった。密集陣形で足並みを揃えて前進するための歌を歌いながら、エルドア国軍へと向かっているところだ。
それならば、この怒号と剣戟を打ち合わせる音がするのは、さらに主力本隊の向こう側――自軍の左翼からに違いない。
そう思ったピアータだったが、ここからでは主力部隊に視界を遮られ、左翼で何が起きているかは見えなかった。
それがなおさらピアータの危機感を煽る。
今すぐにでも馬首を返して左翼に向かいたい。
背中に火をつけられたかのような焦燥感とともに湧き上がる思いをピアータは、ぐっと抑え込む。
単に自分らが戦いを早く進めすぎただけなのかも知れない。中央の本隊は、いまだに衝突すらしていないのだ。遅まきながら左翼でもエルドア国軍との戦闘が始まっただけなのだろう。
ピアータは自分にそう言い聞かせて、そしてハッとする。
「待て待て待てっ! なぜだ?! なぜなんだ?!」
ピアータは迷走しかけていた自分の思考を声に出して制止した。
そうだ。これはおかしい。
異常な事態である。
「――なぜ、主力部隊がまだ衝突していないっ?!」
ピアータは疑念と怯えの混じった声を上げた。
戦端を開いてから、すでにそれなりの時間が経過しているのだ。いくら主力部隊が足の遅い重装歩兵とはいえ、今なお敵と衝突していないというのは、いくらなんでもおかしい。
ピアータは慌てて主力部隊と、それと相対するエルドア国軍を交互に見やった。
そして、ピアータは異常に気づく。
「エルドア国軍の足が遅いのか!」
パルティスの主力部隊は、馬の脚を使って突出していた自分らに追いつこうというところまで進んでいた。ところが、それと相対しているエルドア国軍の位置は、開戦当初よりほとんど変わっていなかったのだ。
しかし、それは決してエルドア国軍が気後れしているわけではなかった。ピアータが見ても、エルドア国軍は燃えさかるような気炎を上げており、戦意は十分である。
それだというのに、なぜか兵たちがほとんど前進していない。
これは、どういうことだ?
そんな疑問を覚えたピアータが真っ先に思いついたのは、今自分らと相対する「黒壁」のように不動の防御陣形をとっているのではないかというものだった。
しかし、あの不動の防御陣形は、あくまで突撃してくる騎兵を迎え撃つためのものだ。同じ重装歩兵同士でぶつかり合えば、従来の戦いと同じ削り合いにしかならない。それならば前面への攻撃に特化した従来の密集陣形に分があるのは明らかだ。それをあえて敵が不動の防御陣形を取るとは思えなかった。
そこでピアータは、ようやく自分が何に危機感を覚えたのかに気づく。
「そうか! 破壊の御子の狙いは、我が軍の左翼かっ!!」
ピアータの勘が、最大級の警報を打ち鳴らした。
あの破壊の御子がただ時間稼ぎをするだけとは思えない。必ずやどこかで勝負に打って出るはずだ。
そして、自分らの正面にいる「黒壁」は不動の防御陣形を取り、中央の主力もまた接敵するのを意図的に遅らせている。
それならば破壊の御子が勝負に出るのは、左翼しかない!
このまま放置すれば、致命的な事態に陥ってしまう。一刻も早く自軍の後方へ回れ。今すぐ左翼の友軍を助けに行け。
そうピアータの直感は訴えていた。
しかし、ピアータは躊躇する。
左翼には左翼を任された将がいるのだ。何の要請もないのに左翼へ応援に行くなど、決して許されることではなかった。左翼の将の面目を丸つぶれにするどころか、総大将であるパルティスの采配を足蹴にするものである。いかな王女とはいえ、越権行為も甚だしい。
それでも、この右翼の戦局が圧倒的優勢であったのならば、余力を回したと言い訳もできよう。だが、現状は捨て身となってもあの「黒壁」を打破できるか怪しい状況だ。
このような戦局で右翼の将たる自分が左翼に回れば、越権行為どころか敵前逃亡と取られかねなかった。そんな誤解を招くようなまねをすれば、兵たちが動揺し、中には逃げ出す者が出るやも知れない。もし、そのようなことになれば、この右翼からこそロマニア国軍が崩壊してしまう。
ピアータは、ギリギリと奥歯を噛み締めて苦悩した。
そこへ銀狼兵を引き連れて転進してきたデメトリアがやってくる。
「何を呆けていらっしゃるのですか、姫殿下っ! 我らに再攻撃の指示を! 次こそは奴らを崩してご覧に入れましょう!」
再攻撃の指示を求めるデメトリアに、確かにこのまま呆けていても何もならないと思ったピアータは、愛馬の手綱を引いて馬首を後方へと翻しながら告げる。
「デメトリア! これは野戦ではない! 攻城戦なのだ! 百狼隊では、敵を攻撃しても被害が大きすぎる! 後続の歩兵部隊が追いついて来るまで待て!」
「攻城戦? ――! 姫殿下?! いずこに行かれるのですか?!」
当惑するデメトリアの声を背に、ピアータは後方へと馬を駆けさせていた。
ピアータは、後ひとつ欲しかった。後ひとつでもいいので、背中を押してくれるか、この場に足を止めておける理由が欲しかったのだ。
そう思ったピアータが向かったのは、後方で数名の騎士とともに待機していたララとルルの姉妹のところである。
「ララ! ルル! すまん!」
まずピアータは謝罪の言葉を告げてから言う。
「上空から戦場を確認してくれ!」
ララとルルは、ただでさえ大きな目をより大きく見開いた。
次いでふたりは空を見上げる。すると、そこには大きな翼を広げた鳥のような影がいくつも見えた。
それはエルドア国のハーピュアンたちだ。
その数は少なく、二十にも届かない。だが、その存在はこの戦場の空において圧倒的であった。彼女たちは、その威を示し、こちらを威圧するように縦横無尽に空を飛び回っている。
いや、実際にこちらを威圧しているのだろう。
ララとルルは自分らに向けられた殺気のこもる視線をいくつも感じていた。
いつもなら上空から戦場を偵察しているはずのララとルルが、こうして後方に待機していたのも、エルドア国のハーピュアンに制空権――当然、この世界にいまだそのような言葉はないが――を奪われていたせいである。
そんなところへたったふたりで飛べば、瞬く間に襲われ、命を落としてしまうだろう。
だからこそ、ピアータは謝罪の言葉を告げたのだ。
そして、大恩あるピアータにそう言われれば、ふたりに否やはない。
「ルル! 私が敵を引きつける!」
そう言うなりララは翼を振って飛び上がった。
当然、その姿は空中を哨戒していたエルドア国のハーピュアンにすぐさま見つけられる。
「奴が上がったぞっ! 逃がすなっ! 囲めっ!!」
エルドア国のハーピュアンを率いる鳥将ピピ・トット・ギギは、怒号のような号令を上げると、自らもまた力強く翼を打ち振るわせて空を翔る。
それに続いて一部の監視と連絡要員を除いたエルドア国のハーピュアンたちが、ララを包囲すべく四方八方から翼で風を切りながら空を飛ぶ。
ピピたちエルドア国のハーピュアンにとって、ララとルルは許すべからざる裏切り者であった。
自分たちがこれまで積み上げてきた種族の信頼を損ねたばかりではない。自分らを奴隷から解放してくれた恩人である蒼馬を窮地に陥れるなど、いかなる理由があろうともとうてい許せるものではなかった。
ミルツァからガッツェンの街へ退去する際に、ララとルルが敵に回ったからといって、それをもってハーピュアンを罪に問うようなまねはしないと蒼馬自身から明言されていた。
だが、それで良しとするほど彼女たちは厚顔ではない。
戦場の空で出会えば、必ずや大地に叩き落としてやる!
誰もが、ふたりの必殺を誓って、この戦場の空に臨んでいたのである。
そんなエルドア国のハーピュアンが制空権を握る空に飛び立ったララは、まさに自ら虎口へ飛び込むようなものだった。瞬く間にララは四方八方をエルドア国のハーピュアンに囲まれてしまう。
「死ねっ! この裏切り者っ!」
エルドア国のハーピュアンたちが、その鳥のものに酷似した足で掴んだ槍を構え、次々とララに向かって突撃する。それをララは必死に身をひねり、翼を折りたたみ、失速による墜落寸前の挙動をもって回避した。そして、自分へ突撃したことで空いた穴を抜け、ララは包囲網を突破する。
しかし、その代償としてララの頬は鉤爪で引っかかれた大きな裂傷を負い、背中や肩口に投石を受けた痕がジクジクと痛みを訴えていた。
それでもララは首を後ろに曲げると、侮蔑を込めて叫ぶ。
「どうした! 私を殺すんじゃなかったかっ?!」
この挑発に、エルドア国のハーピュアンたちは目を血走らせてララを追走し始めた。それを振り切るために翼を打ち振るわせながら、ララは一瞬だけ地上へと目を向ける。
「後は任せる」
そんな意志を込めて向けられた姉の視線に、地上で待機していたルルは小さくうなずくと、全身を緊張させて力を蓄える。そして、次の瞬間、それを爆発させるように跳躍すると力強く翼を打ち振るわせて空へと飛び上がった。
天へと放たれた強弓の矢のように一気に空を駆け上がるルルだが、しかし、すぐにピピに発見されてしまう。
「もうひとりが上がってきた!」
ピピは叫びながら急旋回する。
「チチとリリの二名は私に続け! あちらの奴を落とす! 他の者たちは、このままあいつを追い落とせ!」
ピピは部下ふたりを引き連れて上空へ向かったルルを追いかけた。
姉が決死の想いで作ってくれた猶予のうちに、戦場全体を俯瞰できる高さまで上がったルルは、その場に旋回しながら眼下の戦場を見下ろした。
そして、驚きの声を上げる。
「な、何これ……?」




