第54話 ベルテ川の戦い1-出陣
持病の「書いても書いても自分の文章に納得できない病」の発症と、本業の業務多忙が重なり更新が遅れてしまいました。
次話はそれほどお待たせすることなく公開できそうです。
ついに始まった「ベルテ川の戦い」をお楽しみください。
「遠くまで広がる麦畑と、その向こうに流れる穏やかな川。しかし、今より千年以上前、この麦畑が何もない荒れ地で、あの川が上流にダムもなく水運が行える程に水量が流れる荒れた川であったとき、ここがロマニア戦役と呼ばれるエルドア国とロマニア国の戦いの中においても、激戦として知られる戦い『ベルテ川の戦い』が繰り広げられた場所なのです」
そう語るのは、破壊の御子研究の第一人者マーチン・S・アッカーソン教授である。
「この『ベルテ川の戦い』において、まず注目すべきはこの戦いが破壊の御子ソーマ・キサキの提案によって決められたものだということです。
なぜそこに注目すべきなのかは、参照する史料によって幅はありますが、このとき動員されたロマニア国の兵がおよそ二万だったのに対し、決戦を挑んだエルドア国の兵は、そのおよそ半分の一万程だったからです」
マーチン教授は周囲の麦畑を指し示した。
「ご覧のとおり戦場となったベルテ川沿いの平野は起伏の少ない平坦な地形であり、兵を潜ませられるような森や窪地などもなく、まさに大軍にこそ利がある地形です。このようなところを戦場とした会戦を数で劣る側から提案することは、異例なことでした。
まさに大胆不敵としか言いようがありません。
また、だからこそロマニア国のパルティス王子も拒絶できなかったのでしょう。
このような大胆な提案をする破壊の御子の人柄について、中世の歴史家ヒュディドトスがその著書で次のように書いております」
そこでマーチン教授は、撮影道具である古書めいた装いの本を開いて読み上げる。
「『破壊の御子ソーマ・キサキは邪悪な知謀と恐るべき魔力を持った暴君であり、血と戦いを好んだ。彼は、たとえ敵が多勢であろうとも、わずかな兵だけを率いて喜々として攻めかかった。そして、熟した果実をもぎ取るように敵の命と勝利を奪っていくのだ』」
しばし余韻を残してからマーチン教授は本を閉じ、こちらに目を向ける。
「ホルメア戦役の『スノムタの戦い』に代表されるように、破壊の御子ソーマ・キサキは策を用いて兵数の劣勢を覆し、多勢である敵を何度となく打ち破ってきました。
そのため、ヒュディドトスは『ベルテ川の戦い』でも破壊の御子は多勢のロマニア国軍へ何ら恐れることなく会戦を挑んだと考えました。
また、現代でも多くの人々はヒュディドトスと同様に、破壊の御子は自らの軍才に強い自負を持ち、自身の勝利を疑わない自信家と思われています」
マーチン教授は苦笑いを浮かべる。
「ところが、破壊の御子研究における第一級の史料ともなる『シェムルの覚書』には、破壊の御子への賛辞の言葉が多く使われておりますが、それと同時に『優柔不断』『へたれ』『意気地なし』といった言葉もそれと同じくらい多く使われているのです」
マーチン教授は「これはどういうことでしょうか?」と前置きしてから続けて言う。
「実は、確かな史料を踏まえた最近の研究では、破壊の御子ソーマ・キサキは自身の軍略に絶大な自負を持つ自信家などではなく、むしろそれとは真逆の慎重で臆病という人物像が浮かび上がってきているのです。
では、そのような慎重な性格の破壊の御子ソーマ・キサキが、なぜこのような自分にとって不利な平野での会戦を求めたのでしょうか?」
マーチン教授は、ゆっくりと麦畑の中を歩きながら説明する。
「まず、最初に挙げられる理由は、破壊の御子がロマニア国軍を早急に撃退しなければならない状況に置かれていたからです。
破壊の御子ソーマ・キサキが興したエルドア国は、当時はまだ興って間もない新興国に過ぎませんでした。新しい国だけに破壊の御子は古代の王に相応しい強さを誰よりも強く誇示し、証明しなければならなかったのです。
特にエルドア国の各地には爵位も名ばかりのものにされ、領地の統治権を失い、代官に格下げされた多くの旧ホルメア国の諸侯らが残っていました。そんな彼らに弱さを見せれば、反乱を起こされかねない不安があったのです。
また、すでに数ヶ月にわたり敵国の軍勢が国内に留まっているのも大きな問題でした。
領有権を争う係争地において、その土地に軍を派遣したり駐留させたりし、それをもって領有権を主張するのは、現代でもよくある手段です。そればかりではありません。仮に、大軍を長期にわたって駐留させられるような砦でも作られれば、そこを拠点としてエルドア国の多方面へ侵攻される恐れすらあります。
さらに、そうしたロマニア国軍が居座っているだけでも、当然エルドア国東部での商業や農業などの経済活動は停滞し、それだけでも破壊の御子にとって大きな痛手となっていたのです。
このような理由から、破壊の御子ソーマ・キサキはロマニア国軍を早急に国内から追い払いたかったのでしょう」
マーチン教授は足を止めると、その場でくるりと振り向いた。
「また、戦術面からの理由も考えられます。
破壊の御子ソーマ・キサキは『破壊の御子の抱擁』とも呼ばれる包囲戦術を好んで使っていただけに、自身の後背へ敵が回り込むのを極度に嫌っていたようなのです。
軍略において、敵の二倍の兵を擁するならば、これをふたつに分けて挟撃すべしという言葉があります。
破壊の御子はロマニア国軍を国内から追い払うため街から出陣したとき、パルティス王子が軍略の基本に従って挟撃を仕掛けてくるのを恐れていたのかも知れません。それをあえてこちらから会戦を提案することで、正面から二倍の敵にぶつかり合ってしまう不利を飲み込んでも、パルティス王子の挟撃を回避したのでしょう。
このような様々な要因から会戦を提案した破壊の御子ソーマ・キサキでしたが、やはりこの戦いはかなり不本意なものだったようです」
マーチン教授は、先程とはまた別の小さな古い装丁の本を取り出した。
「シェムルが残した『シェムルの覚書』には、『ベルテ川の戦い』当日の朝の破壊の御子の様子が次のように書かれています」
マーチン教授は本を開いて読み上げる。
「『その日の朝のソーマの顔色は青く、目は血走り、瞼の下の隈は色濃かった。洩れ出るあくびは多く、陰鬱なるため息もまた同じくらい多かった』」
マーチン教授は、小さく吐息を洩らしてから本を閉じた。
「そこに浮かび上がってくる破壊の御子の姿とは、ヒュディドトスが書いたような自信家ではなく、戦いの寸前に至ってもなお自らの策に不安を覚え、憂慮している慎重で繊細な人間のものです」
マーチン教授は、過ぎ去った古代の時代へ思いを馳せるように空を見上げる。
「しかし、破壊の御子ソーマ・キサキがただ慎重で臆病なだけの人間であれば、現代にまでその悪名を轟かせることはなかったでしょう。
彼は追い詰められ、逃げ場を失ったとわかると途端に、それまでの慎重さや臆病さをかなぐり捨て、猛然と反撃に移ったと言われております。そう――」
マーチン教授は、こちらに顔を向けて力強く言う。
「この『ベルテ川の戦い』で、まず先手を取ったのは破壊の御子ソーマ・キサキだったのです」
◆◇◆◇◆
「ずいぶんとひどい顔をしているな、ソーマ」
戦支度を整えたシェムルは、蒼馬のところへ顔を出すなり、そう言った。
いまだ日が昇ったばかりの早朝である。普段ならば、ようやく人々が目を覚まし活動をし始めるであろう時刻だ。
しかし、シェムルばかりではなく、蒼馬もまた鉢金を額に巻き、簡易の鎧に身を包み、戦いの準備を終えていた。
そんな蒼馬は自分の顔をぺちぺちと叩きながら言う。
「そんなにひどい顔かな?」
「ひどい」
シェムルは即答した。
「ゾアンの私でもわかるぐらいなのだぞ。――これは、ひどいものだろ?」
シェムルが話を振ったのは、部屋の片隅に控えていたエルフの女官長エラディアだった。
エラディアはいつもの乙女のような屈託のない笑顔のまま答える。
「恐れながら、王佐の位にない私では批評いたしかねます」
王を公然と批難する権利を有する王佐ではない自分では言えませんということは、とても悪いということだ。
そら見たことか、と言わんばかりにシェムルは小さく鼻を鳴らして蒼馬を見やる。
「いつまで経っても、おまえは変わらないな。もう戦は決定したのだ。いい加減に腹をくくったらどうだ?」
シェムルの言葉に、蒼馬は盛大にぼやく。
「だって、しょうがないじゃないか。やりたくってやる戦いじゃないんだから」
敵はこちらの二倍にもなろうかという大軍である。それに打ち勝てるだけの策は用意したといっても、それは机上のものでしかない。実際の戦いで、果たしてそれがうまくいくとも限らなかった。もし、策が失敗すれば、ミルツァでの戦い以上の大敗となる。今度こそ自分の命ばかりか全滅と言って良いほどの被害が出るだろう。
できうることならばロマニア国が根負けするまでガッツェンの街の中に引きこもっていたかったぐらいである。
しかし、それは蒼馬を取り巻く様々な状況が許してくれなかった。
何としてでもここでロマニア国に対して勝利を挙げなければならなかったのだ。
そのためにも、もっと時間をかけて策を用意し、エルドア国全土から兵を集め、有利な条件を整えてから戦いたかったとぼやく蒼馬の前で、シェムルは呆れてみせる。
「おまえは、何を言っているんだ?」
眉をひそめて蒼馬が言い返そうとするよりも先に、シェムルは続けて言う。
「そもそも、この世に自分の思いどおりになることなど滅多にないではないか?」
あまりの正論に、蒼馬はうっと言葉に詰まる。そんな蒼馬にシェムルは言葉を続けた。
「どうせこの世はままならないものだ。自分が思わなかったことが起き、自分がやりたくないことをやらねばならない。ならば否が応でも、そのすべてを背負い、呑み込み、前へと進まねばならない。それが、この世というものだろう」
そう言うとシェムルはその小さく握った拳を蒼馬の胸に当てる。
「我が臍下の君は、それができる男だと私は信じているのだが、それはいけないことか?」
蒼馬は小さく目を見張ってから、ふっと小さく笑いを洩らす。
「まったく、私の王佐は相変わらず要求が高いなぁ。私が背負うには期待が重すぎるよ」
「それなら、その半分は背負ってやろう。何しろ、私はおまえの半身なのだからな」
「自分で期待を重くしておいて半分背負うって、何だか違わない?」
「細かいことは気にするな」
ふたりはしばし笑い声を上げた。
いまだ胸の奥には暗澹とした不安は残っている。しかし、シェムルとの会話によって、それに負けないぐらいの活力が湧いてきた。
蒼馬は自分の顔を両手で音を立てて叩く。
それからゆっくりと上げられた蒼馬の顔からは暗い影は消え去っていた。
「さあ。行こうか、シェムル」
「ああ。行くぞ、ソーマ」
蒼馬はシェムルを従えて歩き出す。
そのふたりを、ミルツァの戦いで左腕を骨折して間もなく、今回はガッツェンの街での留守を任されたエラディアが深々と頭を下げて送り出した。
ふたりが代官の官邸から出ると、その前にある広場にはすでに完全武装を整えた兵士たちが整然と並んでいた。自分に向けて熱い視線を送る兵たちを前に、蒼馬はゆっくりと広場を見回した。
そこにいるいずれの兵からもこれから始まる戦いに対しての、わずかな不安と恐怖、そしてそれをはるかに上回る「やってやるぞ!」という意気込みが感じられた。
そんな兵たちの視線を掌握するかのように自分の胸の前で拳を握り締めた蒼馬は、それを高々と空へと突き上げる。
「出陣っ!」
それに兵たちはいっせいに手にした武器を空へと突き上げた。
「「おう! おう! おうっ!!」」
昇ったばかりの太陽に立ち向かうように、蒼馬が率いるエルドア国の軍勢はガッツェンの街からベルテ川の平野に向けて出陣したのである。




